第三話 命名「初芝オーシャンズ!」

「そう言えば翔子のお姉ちゃんってさー、カフェでバイトしてるんだっけ?」


 沙織を映画に誘って断られてから数日がったある日、羽澄が机に顎を乗せてだれていると、二つ前の席で翔子と裕美が楽しそうに話しをしていた。


 呑気なもんだ。同じクラスメイトがもうすぐ教頭の餌食になるかもしれないのに……。


 羽澄は本人不在の後ろの席をちらっと見た。沙織は体調が悪いといって、二時間目が終わると早退してしまったのだ。今まで沙織が早退したことなんてなかったので、結衣や明里たちもかなり心配していた。


こんな状況で、もし沙織が教頭なんかと遊びに行ってしまうと、彼女はもう二度と人前に姿を現さないのではないか……。羽澄の心に余計な不安が浮かぶ。


 エロ教頭のスキャンダルについては、今のところ進展はない。あれからも事あるごとに尾行は続けているが、教頭室にこもっているか、たまに職員室に顔を出しているかで目立った動きはなかった。


逆にそんな教頭を尾行している自分の方が目立ってきているようで、「今日も探偵ごっこ?」と、違うクラスの友達にからかわれる始末だ。親友のためとはいえ、このままでは自分のほうが居場所がなくなってしまうのではと、違う意味でも不安になる。


だから五時間目が終わった今の休み時間は、大人しく教室で過ごそうと思ったのだ。


心も体も項垂れる自分の目の前で、相変わらず翔子と裕美は楽しそうに話しを続けていた。別に話しの内容を聞くつもりはないけれど、否が応でも聞こえてくる。


羽澄は仕方なく気晴らしついでに、二人の会話を盗み聞きしていた。どうやら裕美は学校に内緒でこっそりバイトをしたいらしく、それを翔子に相談しているようだ。


「いやー、でも辞めといた方がいいですよ」

 

 翔子の独特な口調が聞こえてきた。


「姉貴が言ってたんですが、最近バイト先にうちの教頭がよく来るみたいなんです」


 え…………何だって?


 羽澄はスイッチが入ったように、急に姿勢を正して耳をすませた。そんな羽澄のことを知らない翔子は、裕美に話しを続ける。


「うちの姉貴もおんなじ高校だったので教頭の顔を知っているのですが、ここ最近毎週やってくるみたいなんです。いつもスーツ姿の男の人を連れてくるので、姉貴は『なんか怪しい取り引きでもしてるのかも』と面白がっていましたが……」


 思わぬ翔子の話に、羽澄はいつの間にか中腰になっていた。そして高ぶる感情を抑えきれずに口を開いた。


「その話し、もう少し詳しく聞かせてくれない?」


 羽澄の大声が突然聞こえたので、翔子も裕美もびくっと肩を震わせて振り返った。


「あ……」羽澄が周りを見ると、よっぽど威勢が良かったのか、クラス中の視線を一斉に浴びていることに気付いた。


少し顔が熱くなるのを感じながら窓際の席を見ると、明里が「またこいつは何やってんだか」と、呆れた表情で見てくる。


羽澄は咳払いをすると、「気にしてません! 」と主張するかのように、わざと大股に歩いて翔子たちのところに向かった。翔子と裕美はそんな羽澄を、呆然とした表情で見ていた。


「あの……翔子さん。その話しもっと詳しく聞かせてくれないかしら?」


 普段は「さん」付けなんてしないのに、強気な態度が裏目に出たのか、変な口調で話しかけてしまった。翔子は「はあ……」と言って、少しずり落ちたメガネを右手で戻す。そして、じーっと羽澄の目を見たかと思うと、にやっと意味深長な笑みを浮かべた。


「んー、どうしまょうか……」


 翔子の発言に羽澄は少し驚いた。てっきり素直に教えてくれるものだと思っていたのに、どうやら向こうはそんなつもりはないようだ。


「お願い! 翔子ちゃん、そこをなんとか」


 ええい、この際「さん」付けがダメなら「ちゃん」付けはどうだ!


 羽澄は半ばやけくそに、両手を合わせると可愛いつもりでウィンクをした。普段は絶対にしないキャラ違いのポーズに、心の中にいる冷静な自分の批判が凄い。


急に恥ずかしくなってきた羽澄は、背中にじんわりと汗が広がるのを感じていた。目の前に鏡がなくて本当に良かったが、代わりに真顔でこちらを見る翔子の姿に胸が痛む。うん、もう二度とこんなポーズはしない。


「なぜそんなに教頭の話しを知りたいんですか?」


 ごもっともな意見に、羽澄は「うー」と頭を抱えながら唸った。


 言えない……沙織を助けるために教頭のスキャンダルを探しているなんて、口が避けても言えない。そんなことが翔子にバレれば、必然的に沙織が内緒で彼氏を作っていたこともバレる。


しかも、翔子は初芝女子高唯一の新聞部。もし沙織のことが校内新聞にでも載ってしまったら……自分は一生沙織に顔向けできないだろう。


 一人でぶつぶつともがき苦しむ羽澄を、翔子は面白そうに見ていたが、裕美はちょっと怖くなったのか「じゃ、じゃあ」と言って足早に自分の席へと戻っていった。


「あのーその……、何故かと言いますと……」

 

 身体を少しくねらせながら、羽澄は必死になってうまい言い訳はないかと考えた。自分がプライベートで教頭に会いたがっている設定にする? いやいやいや、それじゃあ私の方が変な意味で疑われないか? 何か、何か他に良い理由は……。


「なるほど……さては人には言えない理由がありそうですね」


 翔子はわざとらしく眼鏡をくいっと上げると、目を細めて羽澄を凝視した。「ぎく!」という効果音が頭の中で響く。さすが新聞部、スキャンダルへの嗅覚は私以上にあるようだ。


「ち、違います……」

 

 気付かれないようにと念じて放った言葉は、裏返った声のせいで台無しになった。疑いを確信に変えることができた翔子は、満足そうに鼻から大きく息を吐き出した。


「へー、そうですか。じゃあ別に教えなくてもいいですよね?」


 翔子は勝ち誇った表情をすると、ぐっと顔を近づけてきた。その自信たっぷりな両目を直視するとができず、羽澄は目を泳がせる。


「いやー、その……」と濁した言葉で時間を稼ぐも、それに見合うだけの言い訳は出てこない。しばらく黙り込んで考えていた羽澄は、諦めるように肩を落とした。


「……わかったよ。ちゃんと理由は説明するから、教えてくれない?」

 

 親友の許可なく秘密をばらそうとしている自分に罪悪感を覚えながらも、羽澄は「放課後に話すから」とだけ言って自分の席へと戻った。席に戻る途中、後ろの机が視界に入りチクリと胸が痛くなる。「すまん、沙織」と心の中で謝ると、羽澄は机の上に顔をうずめた。


 放課後、誰もいなくなった教室で羽澄、明里、結衣、そして翔子の四人だけが残っていた。

 

 羽澄はどうやって話しを切り出そうかと三人の様子を伺っていた。カメラ好きで独特の世界を持っている翔子とは、明里と結衣はあまり話したことがないと思う。かと言って別に仲が悪いというわけでもないので、翔子がいることに二人は不思議そうな顔をするだけだった。


「で、これは一体どういう集まりなのでしょうか?」


 翔子は眼鏡をくいっと上げると三人の顔を見た。どうやら興味があることには、眼鏡を上げる癖があるらしい。


「これにはちょっと深い訳がありまして……」


 羽澄は少し気まずそうに明里と結衣の顔を交互に見る。二人には翔子を呼んだ理由をまだ話していないので、ポカンとし表情で羽澄を見つめていた。再び前を向くと、鋭い眼光を飛ばしてくる翔子と目が合い、思わず「う……」と視界を逸らしてしまう。そして羽澄は大きくため息をつくと覚悟を決めた。


「翔子……一つぜーったいに約束してほしんだけど、今から聞くことは何があっても他の人には言わないでね。でなきゃ私、もうこの学校に来れなくなるから」


 そんなに凄い話しなのかと、翔子は目を大きく見開き、こくんと頷いた。羽澄は明里と結衣にアイコンタクトで合図を送ると、翔子に沙織と教頭の件について話しはじめた。


 最初は「おー」とか「なるほど」とか相槌を打っていた翔子だったが、教頭の話し辺りから心底驚いていたのか、そんな相槌はいつの間にか無くなっていた。


代わりにペンもメモ帳も持っていなかったけれど、翔子は私の話しを聞きながら、ずっと自分の手のひらに何かを書いていた。


その姿はまるで新聞記者のようで、羽澄は自分が取材を受けているような気分になり、いつも以上に熱を入れて話してしまったことに少し後悔した。


「……以上が、初芝女子高で起こった史上最大で最悪の事件の詳細です」


 ニュースレポーターのように話し終えると、羽澄は目を瞑ってこほんと咳払いをした。沙織のことを翔子に話してしまったことに胸が痛かったが、これで教頭のスキャンダルを掴めるのなら致し方ない。


様子を伺うようにゆっくり目を開けると、翔子は独り言を呟きながらうんうんと頷いている。これで……ほんとうに良かったんだろうか? 明里と結衣もその様子を黙って見ていた。


「私はちゃんと話したんだから、今度は翔子の番よ」


 今更遅いとわかりながらも、羽澄は強気な態度で翔子に言った。よほどさっきの話しに没頭していたのか、少し間をあけてから翔子は「え?」と言って顔を上げた。そして羽澄たちの方を見ると、拳を握ってこほんと咳払いをする。


「私の姉貴から聞いた話しなんですが……」


 そう言って翔子は眼鏡をくいっと上げて話し始めた。


 話しの内容はこうだ。翔子のお姉ちゃんは駅近くにあるホテルのラウンジカフェで働いていて、そこでエロ教頭を目撃したらしい。


そこはかなりの高級ホテルで、カフェと言っても、聞けばコーヒー一杯の金額がなんと私のお昼ご飯三日分。そんな限られた人しか訪れないような場所で、教頭は毎週日曜日になると謎のスーツ姿の男と一緒に現れて、何かの打ち合わせをしているらしい。


「なんか仕事の話しでもしてるんじゃない?」


 冷静な口調で意見する明里に、翔子は「ちちち」と人差し指を振った。


「それが姉貴がたまたま近くを通った時、何やらお金の取引のような話をしていたらしいんです。しかも相当な額だったとか。それにスーツ姿の男は、いつも厳重にロックされたアタッシュケースを持ってくるみたいで、まるで見た目はマフィアの取り引きだって姉貴は笑って言ってました」


 期待以上の情報提供に、羽澄は目を輝かせていた。マフィアの取り引きがどんなのかはあまりわからないけど、たぶんこの前テレビでやってたゴッドファーザーみたいな感じなのだろう。お父さんが見ていたのを、チラッと横目で見ただけだけど……。


「それ……ぜーったいスキャンダルだよ!」


 興奮する羽澄の大声に、「うるさい」とすかさず明里がツッコミを入れる。そんな明里の言葉を右から左耳へと受け流し、羽澄は自分の世界に没頭していた。


 もし翔子の話しが本当なら、これは相当凄いスキャンダルだ。しかも、シチュエーション的にドラマっぽくて、何だか気合いも入ってきた!


「よし! そうとわかれば早速リサーチしないと! 翔子、今週の日曜日も教頭はそのカフェに来るんだよね?」


 羽澄の勢いに翔子は「は、はい。おそらく……」と少し後ずさりする。それを見た明里は心の中で、「これで翔子も巻き込まれたな」と小さく同情した。


「じゃあ今週の日曜日はみんなでリサーチに行こう!」

「ちょ、ちょっと待ってよ羽澄! それ私と結衣も参加しないといけないの?」


 慌てて答える明里に、「え、そうじゃないの?」と羽澄はきょとんとした表情で聞き返した。


「いきなりうちらが三人で行ったら怪しいでしょ。それに日曜日はもう予定入ってるから私は行けないよ」


「えー、何の予定よ」とふてくされる羽澄に、明里は気まずそうに翔子をちらっと見た。あーなるほど、撮影か。明里が読者モデルをしているのを知っているのは仲が良い自分達ぐらいで、他のクラスメイトは知らない。


 明里のことを諦めた羽澄は、その分情熱を込めた視線を結衣に向けた。普段は聞き役に回ることが多い結衣だが、羽澄の視線を受けてすかさず自分から話し始めた。


「ご、ごめんね羽澄ちゃん。私もその日は家族で出かけることになってるの……」

「えー、みんなダメなの?」

 

 羽澄は最後の手段と言わんばかりに、後ろを振り返って翔子を見た。しかし、羽澄が話しだす前に、翔子の方から首を横に振った。


「はあ……私一人か」

「げ、あんた一人で行くつもりなの?」


 肩を落としてため息をつく羽澄に、明里が目を丸くした。教頭室での一件、そしてその後の羽澄の行動を見ても、この子一人で行かせることは非情に怖い。


「だって……明里も結衣も来れないんでしょ?」


 おやつが貰えない子供のようにぷうと膨れる羽澄に、「まあ、そうだけど……」と明里は困った顔で返事をした。


「でもあんた、今度ばかりはバレると本当にまずいよ? 学校ならまだしも、そんなところで教頭なんかに見つかれば、絶対言い逃れなんてできないんだから……」

「へーきへーき! 今度はばっちり変装していくし、絶対にバレないよ!」

 

 親指を立てて満面の笑みで答える羽澄を、明里は疑うように目を細めて見ていた。その隣では結衣が苦笑いを浮かべている。

 

 結局、同行できる人は誰もいないので、カフェの偵察は羽澄一人で行くことになった。


「ねえ翔子、教頭っていつも何時くらいに現れるの?」


 スマホのメモアプリを立ち上げながら羽澄が聞いた。


「うーん、さすがに時間までは姉貴から聞いてませんね……」


 翔子が首を少し傾けて答えると、「そっか……」と羽澄が残念そうに呟く。


「それだったら姉貴に聞いてみましょうか?」

「ほんとに!」


 突然の提案に、羽澄は翔子の両手をにぎって喜んだ。すると翔子はにっと笑って、「ただし……」と話しを続けた。


「姉貴に聞いてみてもいいですが、あたいもメンバーに加えるって条件はどうでしょう?」


「え!」三人の視線が一斉に翔子に集まる。


「いいけど……どうしたの?」

 

 ぽかんとした表情で尋ねる羽澄に、翔子はふふふと不敵な笑みを浮かべた。


「あたいは初芝女子校の新聞部代表ですよ。そんな面白そうな話し、見逃せるはずがないじゃないですか。それに協力者は一人でも多い方がいいでしょう」


 なるほど、と素直に納得する羽澄の隣で、明里と結衣はまだ不思議そうな顔をしていた。その様子を見て翔子は、「まあ三人が良ければの話しですが」と付け加えた。


「そんなの全然良いに決まってるじゃん! そうだよね、ね?」

 

 羽澄は目を輝かせながら明里と結衣を見た。仲間は一人でも多い方が心強い。それに、新聞部の翔子が協力してくれるなら、エロ教頭のスキャンダルを掴めるチャンスもぐっと高くなる。


「私は別に構わないけど……」


 明里はそう言って結衣の方をちらっと見た。


「私も翔子ちゃんが協力してくれるなら、すごく心強いよ」


 今度は結衣が嬉しそうに答えると、翔子の手を握って「よろしくね」と微笑んだ。そんな二人を見て、翔子はにししと笑うと「こちらこそよろしく」と小さく頭を下げた。


「よーし、翔子も仲間になってくれたし、これからは四人で作戦会議だ!」


 嬉しそうに声を上げる羽澄を見て、翔子は眼鏡をくいっとあげる。


「そういえば、作戦会議っていつもどこで行っているのですか?」


 翔子の質問に三人は顔を見合わせる。特に作戦会議をする場所は決まっていない。


だいたい放課後の誰もいなくなった教室か、休み時間に廊下に出て話しをするぐらいだ。あとはスマホのグループメッセージでのやりとりが主で、メッセージ発信者の八割は羽澄だった。


本当は作戦会議ができる特定の場所があれば一番理想なのだが、思いつくような場所がないので、今はこんな形で活動している。


「だったら新聞部の部室を使いますか?」


 羽澄たちの話しを一通り聞いた翔子が何食わぬ顔で言った。その言葉を聞いた羽澄たちは、驚いた表情で翔子を見る。


「え? 新聞部って、部室あったの?」


 羽澄の疑問の言葉に、翔子はこくんと頷いた。


 彼女が所属する新聞部は、初芝女子高の一七ある部活の一つ。が、部員は目の前にいる翔子一人。もともとは、今年卒業した三年生の二人を最後に廃部になるところだった。しかし翔子がどんな手を使ったのかわからないが、自分が卒業するまでは部が継続できる許可が下りたのだ。


 新聞部の活動としては月に一度、翔子お手製の「THE・初芝女子高の毎月新聞」が二階にある掲示板に貼られている。


翔子が書く文章は独特の切り口があって面白いので、わりと人気が高い。ただ、一度は廃部の話しが出ていたような部活だったので、羽澄含めて明里も結衣もまさか部室が存在するとは思っていなかった。


「ちちち、新聞部をナメてもらっちゃ困りますよ。ちなみにちゃんと活動費も支給されてます」


 得意げに話す翔子を見て、羽澄はごくんと唾を飲み込んだ。もしかしたら翔子は私たちよりも先に、だれか先生のスキャンダルの抑えて取り引きしているのかもしれない……。


「羽澄、良かったじゃん! これでやっと本格的に活動できるね」


 明里はそう言って、ぱしっと羽澄の背中を軽く叩いた。結衣も「翔子ちゃん、ありがとう!」と両手を合わせて喜んでいる。翔子に沙織の話しをした時はどうなるかと心配したが、どうやら取り越し苦労だったようだ。


「じゃあこれから作戦会議をする時は、翔子の部室に集まろう!」


 羽澄が高らかに右手の拳を突き上げると、他の三人も「おー!」と言って同じポーズをした。


 親友の沙織を助けるために、みんなが協力してくれる。その事実が、羽澄の心の中にあった不安を溶かしていく。


きっと自分一人だと、今もどうしていいのかわからず悩んでいたはずだ。でも明里や結衣、それに翔子が仲間になってくれたおかげで少しずつ道が見えてきた。だからこそ、何としてでも沙織を助けて、みんなと一緒に高校生活を送りたい。


 窓の向こうに広がる青空をキャンパスに意気投合する三人の姿を見て、羽澄は改めて心に誓った。



 その翌日の放課後、羽澄たちは翔子に連れられて初めて新聞部の部室へと訪れた。


 初芝女子高の校舎は、正門から見てコの字の形をしている。新聞部の部室は一階の右端に存在していた。部室の扉には「漫画研究部」とうっすらと残ったペンの上から、「新聞部!」と大きく手書きされたプレートが貼られていた。


「ささ、ここが新聞部の部室です」


 なぜか嬉しそうな翔子が両手で扉を開ける。部活に入ったことがない羽澄にとって、「部室」という名の部屋に入るのはこれが初めてだった。


 汗と夢が染み込んだユニフォーム。片思いの先輩に向けた応援メッセージ。今までドラマでしか知らなかった部室とは、そんな青春を凝縮させた憧れの空間。そして今目の前に広がっている世界にも…………そんな青春はまったく詰まっていなかった。


 もわっとした埃っぽい臭い。そしてカーテン越しに差し込む弱々しい光が、まずは目に届いてきた。部屋の大きさは教室の半分くらいで、真ん中には向かい合うように折りたたみ式の横長テーブルがくっつけられている。


二つのパイプ椅子が並んでいるそのテーブルの上には作成途中なのか、新聞記事の切れ端や手書きの校内新聞が原稿のまま置かれていた。窓は年季の入った分厚いベージュのカーテンで閉め切られていて、隙間から入ってくる光によって空気中にどれほどの埃が舞っているのかが目視できた。


「いかがでしょう。これが我が校で人気を誇る新聞の制作現場です」


 自信たっぷりに話す翔子とは対照的に、羽澄と明里は何と答えたらいいのかわからず顔をしかめていた。代わりに結衣だけが、「おお!」と言って両手をぱちぱちと叩いている。


「まあとりあえず座って下さい。あ、そこにも椅子があります」


 そう言って翔子が指差す方向を見ると、壁にもたれかかるようにして折りたたまれたパイプ椅子と、小さな木製のスツールが置かれていた。


明里が先にパイプ椅子を取ったので、仕方なく羽澄は手前にあったスツールを手に取る。スツールは思っていたよりもずっと軽く、ほとんど力を入れなくてもひょいと持ち上がった。羽澄はそれをテーブルまで運ぶと、どかっと思いっきり腰掛けた。


「いたい!」


 勢い良くスツールから飛び上がった羽澄は、両手でお尻を押さえながらその場にしゃがみ込んだ。


「あ、そのスツール、古くてトゲがあるかもしれないので気をつけて下さい」

「もっと早くに言ってよ!」


 半べそで怒る羽澄の声を聞いて、明里が思わず吹き出した。それを見て羽澄はきりっと明里を睨むと、隣にいた結衣が「羽澄ちゃん、大丈夫?」と心配そうに駆け寄ってきた。


「うん……もう、大丈夫」


 ありがとうと結衣に言って、羽澄はお尻を慰めるようにさすりながら、部屋の隅に置いてある別のスツールを持ってきた。今度は慎重に腰掛けて安全を確認すると、「よし」と言ってみんなの顔を見た。


「では改めてまして……、今から沙織を助ける為の作戦会議を始めたいと思います!」


 羽澄の活気ある声が、部室の停滞していた空気を揺らす。会議専用の場所を確保できたおかげか、いつも以上にみんなの意識が高まっているような気がした。


明里は腕を組んで「よし!」とヤル気を見せてくれているし、結衣も「じゃあ私は書記をするね」と言ってルーズリーフと可愛いピンクのシャーペンを取り出した。


どうやらこの部室には、自分が思っていた「青春」は詰まっていなかったが、違うエネルギーが集まっているようだ。


「えーと、とりあえず今までの内容をまとめると……」


 珍しく明里から話し始めた時、羽澄の目の前に座っている翔子がさっと右手を上げた。


「はい、翔子さん。どうぞ!」


 クイズ番組の司会者のように、羽澄は右手を翔子に向けて言った。


「組織名は何ですか?」

「え?」


 翔子の意外な質問に、三人は顔を見合わせた。組織名……今日まで活動は続けてきたが、誰もそんなことは考えたことは無かった。


「組織名かー、考えたことなかったな」 


 明里が天井を見上げながら呟いた。その目の前で「ほんとだね」と結衣も頷いている。


「んー……、やっぱそういうのっているのかな?」


 右手で顎を触りながら呟く羽澄に、翔子がきっぱりとした口調で答える。


「こういう作戦を成功させるなら組織名は大切です。名前を決めることによってチームとしての信頼感が生まれますし、何よりターゲットはこの学校でナンバー2の権力者。スキャンダルを掴むのであれば、こちらもそれなりの組織力が必要かと」


 雄弁に語り始めた翔子を見て、「おお!」と羽澄たちは感心していた。


「なんか作戦会議っぽい。ぽいよ!」


 今までにない緊張感のある作戦会議に羽澄が興奮する。


「ぽい! っじゃなくてちゃんとした作戦会議。あんたがリーダーなんだからしっかりしてよね」


 明里の言葉に、羽澄は「え?」と目を丸くする。


「私が……リーダー?」

「そりゃそうでしょ。あんたが言い始めたんだから……」


「ねえ」と言わんばかりに明里が結衣と翔子の顔を見た。その後を羽澄も目で追うと、二人とも大きく頷いていた。


「私がリーダー……」


 羽澄はそう呟くと下を向いて黙ってしまった。「羽澄?」と少し心配になった明里が声をかける。てっきりリーダーに選ばれて喜ぶと思っていたが、さすがの羽澄も荷が重かったのかもしれない……。


そう思った直後、明里の懸念は綺麗さっぱりに吹き飛とばされた。


「よーし! そしたら今日から私がリーダーだ!」


 顔を上げるなりいきなり大声を出した羽澄に、「だからうるさいって!」と明里は耳を塞いだ。余計な心配をした自分がバカだったと思う明里の隣では、結衣と翔子が「おお!」と言って拍手を送っている。


「ごほん。えーでは気を取り直して……リーダーであるわたくし飯田羽澄の提案で、これより組織名を決めたいと思います!」


 見えないマイクを片手に話す羽澄を見て、「ほんとあんたは調子良いよね……」と明里は呆れ返っていた。


「それでは何かアイデアがある人は挙手を!」


 羽澄の言葉を聞いて、まずは立案者である翔子が手を挙げた。


「はい、翔子さん!」

「ここはやっぱり、相手に気付かれないような暗号めいた名前が良いと思います。なので……『暗中飛躍』なんてどうでしょう?」

「あ、あんちゅう……なんて?」


 目をぱちくりとさせる羽澄の姿を見て、翔子が手元にあった新聞の切れ端にペンを走らせる。


「だめよ翔子。羽澄はまったく国語ができないんだから」


 明里の冷静な指摘に、羽澄は口を尖らせて睨んだが、事実のためそれ以上の抵抗はできなかった。


「んー、それであれば違う名前にしますか。明里殿や結衣殿は何かアイデアがありますか?」


 翔子の質問に二人は同じように「うーん……」と言って黙り込んだ。その横では、眉間に皺を寄せた羽澄も同じように唸っていた。


「せっかくみんなで力を合わせるんだし、それに関連するような名前が良いよね」


  羽澄が天井を見上げながら言った。


「そうですね。せっかく四人もメンバーがいますし、それぞれの特技や強みを表現できるような名前があれば良いのですが……」

「なんかそれってハードル高いね……」


 翔子の言葉に明里が難しそうな顔をする。するとのほほんとした表情の結衣が、何か思い出したかのように、両手をぱんと軽く叩いた。


「みんなの得意なことを活かして任務を達成させるって、なんだかあの映画みたいだね! ほらブラッドピッドとか出てた、オーシャンズ……」


 その話しを聞いて、 ばん! と羽澄が突然テーブルを叩いて立ち上がった。


「それだぁあ!」


 羽澄はそのままの勢いでテーブルに身を乗り出すと、顔をぐっと結衣に近づける。


「それだよ、結衣! オーシャンズ、初芝オーシャンズってどう? なんか組織名っぽくてカッコ良くない?」


 目の前で興奮する羽澄の姿に結衣は少し身を仰け反らせて、「う、うん……」とこくんと首を動かした。


「初芝オーシャンズ……いいかもしれませんね。語呂も良いですし」

「私もそれでいいと思うよ。覚えやすいし」


 翔子と明里の同意も得られた羽澄は、満足そうに鼻から大きく息を吐き出した。


「よし決まった! そしたら今日から私たちは、『初芝オーシャンズ』のメンバーだ!」


 羽澄は結衣の手元にあるルーズリーフを一枚取ると、そこに大きな文字で「初芝オーシャンズ」と書いて三人に見せた。


「いやー結衣のおかげで良い名前が決まってほんとに良かったよ!」


 ありがとう、と満面の笑みの羽澄の言葉に、結衣が少し照れたようにえへへと微笑む。


「とりあえず名前も決まったので、今後どう活動していくか作戦を考えますか」

「そうだね。名前決まっても作戦決まらないと意味ないし。って、ほら羽澄も落書きばっかしてないでちゃんと集中してよ」


 組織名が決まったことがよっぽど嬉しいのか、羽澄は初芝オーシャンズと書いたルーズリーフの余白に可愛いデコレーションを書いていた。明里の言葉に顔を上げた羽澄は、「よしきた!」と気合いを入れ直してみんなの顔を見回す。


「で……、何から話す?」

「あんたね……リーダーなんだから少しは自分で考えなさいよ」


 明里が飽きれたようにため息をついた。


「まずは今度の日曜日の潜入捜査が重要になりますね。それによって今後の対応も変わってくると思います」


 真剣な眼差しで話す翔子の言葉に、自然と明里と結衣の視線は羽澄に注がれた。


「つまり……私の活躍が大切ってことだよね。うん、任せて。絶対に成功させるから!」


 そう言って逞しく親指を立てる羽澄の姿に、明里が不安そうな表情で「ほんとに大丈夫かな……」と呟く。


「そう言えば、エロ教頭が何時くらいに現れるかお姉ちゃんに聞けた?」


 羽澄の質問に、翔子は小さなメモ帳をポケットから取り出してページをめくる。おそらくメンバーの中で、こういう仕草が一番似合うのは翔子だろう。羽澄は一瞬そんなことを考えた。


「具体的な時間まではわかりませんが、だいたい日曜日の昼頃に現れるみたいですね。いつも教頭が先に現れてから、その後にスーツ姿の男が合流すると姉貴からは聞いてます」

「なるほど……だったら私もお昼ぐらいに行けば、現場を抑えられる可能性が高いってことだよね」


 羽澄は指をパチンと鳴らした。気持ちはすでにハリウッド映画に登場するスパイの気分だ。


「今回はあんた一人で行くことになったけど、くれぐれもバレないように行動してよ」


 我が子の初めてのおつかいを心配するかのような口調で明里が言った。


「わかってるよー。もう、明里は心配し過ぎだって」


 頬を膨らませて明里を睨む羽澄を見て、結衣と翔子がくすくすっと笑う。


「では来週の月曜日には、ボスが掴んだ情報をもとに、より本格的な作戦を決めていきましょう」

「ボス?」


 羽澄は少し驚いた顔で翔子を見る。


「そうです。羽澄殿はこの初芝オーシャンズのリーダーですからね。これからはボスと呼ばせて下せい」

「ボスか……、なんか良いかも!」


 今までそんな呼び方をされたことなんてもちろんない。初めて言われた「ボス」という響きに、なんだか急に自分が偉くなったような気がした。


「初芝オーシャンズの最初のミッションは、ボスの私がばっちり決めてくるからみんな任せといて!」

 

 組織名も決まって、作戦会議をするアジトもできた。翔子も加わってくれたし、これは間違いなく良い流れがきている。


今度の日曜日に向けて、羽澄のテンションは最高潮に上がっていた。何としてでも変態教頭のスキャンダルの尻尾を掴んで、沙織を助けてやるんだ!

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