第二話 事件勃発!
「二年六組の宮間さん。教頭先生がお呼びです。すぐに教頭室まで来てください」
ぼやけた意識の中でそんな校内放送が聞こえたので、羽澄は机からぬっと顔を上げた。両手を大きく天井に伸ばしながら、後ろの席に座っている沙織を見た。
「おはよう沙織……。なんか教頭先生が呼んでるって放送してたよ」
「うん……ちょっと行ってくるね」
心なしか、少し不安そうな表情で沙織は席を立った。
沙織は学年でもトップテンに入るほど成績が良く、現役で国立大学も間違いないと言われているほど。
そんな彼女のことだからおそらく大学推薦か何かの話しだろうと、教室を出て行く親友の後ろ姿を見ながら羽澄は思った。
「ほんと沙織は凄いよなー……」
左手で頬づえをつきながら呟くと、まだ完全には立ち上がっていない頭をすっきりさせる為に、大きく欠伸をした。
「おーい、羽澄! お昼ご飯食べないのかー?」
潤んだ視界で窓側の席を見ると、机をくっつけてお弁当を広げている明里と結衣の姿が見えた。その瞬間、欠伸ではカバーしきれなかった意識が瞬時に立ち上がる。
「ちょっと! 私も食べるから置いてかないでよ」
さっきまでの眠気は吹き飛び、羽澄は机の上に鞄を置くと、中からお弁当を取り出す。確か今日は、私の大好きな唐揚げをお母さんが入れてくれていたはずだ。
羽澄は勢いよく席から飛び出すと、二人の元へと向かう。近くの友達の椅子を借りると、さっそくお弁当を広げて、本日一番の楽しみを味わった。
「あんたって、ほんと昼ご飯の時だけは元気だよね」
お箸の先端でウィンナーを捕まえた明里が、飽きれたように言ってきた。
「だっで、ごばんだべるのば……」
「はいはい、わかったからちゃんと食べてから喋りなよ」
「そうだよ羽澄ちゃん、ご飯は落ち着いて食べないと」
おっとりした口調で、微笑みながら結衣が言った。
結衣はマイペースな人物で、たぶんこのクラスの中で一番穏やかだ。怒ったところは見たことないし、だいたいいつも微笑んでいる。
少し丸顔で笑った時に目を細める結衣を見ては、「初芝の仏」だと勝手に妄想している。もちろん、結衣には言ったことはないけれど。
仏の結衣にまで優しく注意されてしまったので、羽澄は話したい衝動を抑えて、唐揚げを噛むことに専念した。思ったよりも皮が固くて、途中言葉を発しそうになるのを我慢するのが大変だった。
「そういや、なんで沙織のやつ教頭室なんかに呼ばれたんだろうね」
明里がだし巻きを突つきながら、不思議そうな顔で言った。
「沙織は成績良いし、なんか大学推薦の話とかじゃないの?」
やっと口に残った唐揚げを飲み込んで羽澄が答えると、その言葉を聞いた明里が眉間に皺を寄せる。
「えー、それでわざわざ教頭室なんかに行く? 普通それだったら職員室か進路指導室とかじゃないの?」
「たしかにそう言われれば変だよね。それに沙織ちゃん、何だか元気なさそうだったし……」
今度は結衣が眉毛を八の字にして不安そうに言った。心の底から心配しているのが伝わるその表情を見て、やっぱりこの人は仏だと羽澄はこっそりと思った。
「羽澄、あんた何か知らないの?」
「うーん……何も心当たりはないかなー」
羽澄は腕を組みながら天井を見上げた。この前遊んだ時はいつも通りだったし、今朝も校門で会った時は普通だったし……もしかして、体調でも悪いのかな。
「あんた一番沙織と仲良いんだから、戻ってきたらちゃんと話し聞いてやんなよ」
さっきまで白ご飯を掴んでいた箸先を、びしっとこちらに向けて明里が強い口調で言ってきた。見た目だけでなく、明里はいつもみんなのことを気にかけてくれる頼れるお姉さんなのだ。
「任せて! ばっちり聞いてみるから」
羽澄はにっと白い歯を見せて親指を立てる。その姿に明里は疑うように目を細めると、小さくため息をつく。「ほんとに大丈夫かな……」と呟く明里を見て、羽澄が頬を膨らませた。
「まあまあ、ここは羽澄ちゃんに任せようよ」
状況を察した結衣が、なだめるように両手をひらひらと動かしている。だいたい私たち三人のバランスは、いつもこんな感じなのだ。
お弁当を食べ終わると、羽澄はトイレに行くと言って席を立った。廊下に出ると、同じセーラー服を着た生徒たちで、そこら中賑わっている。その間をすり抜けるようにして、羽澄は近くのトイレへと向かった。
トイレでたまたま会った友達と少し話しをしてから再び廊下に出ると、ちょうど左手側に見える教頭室から沙織が出てくるところだった。
「あ! さお……り?」
教頭室を出てきた沙織は、俯いたまま早足でこちらに向かって歩いてくる。表情はよく見えないが、何となく泣いているように思った。
「ちょ、ちょっと沙織! どうしたの?」
羽澄は慌てて駆け寄ったが、沙織は俯いたまま何も話さない。そして「ごめん」と一言だけ呟くと、そのまま駆け足で階段の方へと向かって行った。
「なになに? 一体何なのよ!」
羽澄はわけがわからないまま沙織の後を急いで追った。途中すれ違う生徒たちが不思議そうに沙織と自分のことを見ていたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
こんなことになるなら、明里が言ってたようにちゃんと沙織の話しを聞いておくべきだった。
「ちょ……沙織、待ってよ」
息を切らしながら階段を駆け上がるが、向こうは立ち止まる気配はない。自分の頭上から、沙織の足音だけが響いて落ちてくる。
やっとの思いで羽澄は階段を上り切ると、屋上のドアがある踊り場で、沙織はしゃがみこんでいた。かすかに震えている肩を見ると、やっぱり泣いているのだろう。
「沙織……大丈夫?」
羽澄は息を整えながらゆっくりと近づいた。追ってはきたものの、まさかこんな状況になるとは思わなかったので、気持ちとは反対に言葉が出てこない。
「……なにがあったの?」
何とか言葉を絞り出すと、羽澄は隣に座った。問いかけの返事はないまま、聞こえてくるのは沙織の小さな泣き声だけ。
仕方なく羽澄は、黙ったまましばらく様子を見守ることにした。沙織のことは昔から知っているけど、こんなにも泣いている姿を見るのは始めてだった。
予鈴のチャイムが鳴り終わっても沙織が動く気配はない。
階段の下の方からはがらがらと教室のドアが開く音や、慌ただしい生徒たちの足音が聞こえてくる。しばらくすると、空虚な静けさだけが残った。
「……羽澄、ごめんね」
泣いて少し落ち着いたのか。沙織がくしゃくしゃになった顔を上げて羽澄を見た。
「ううん。私は大丈夫だよ。それより沙織……何があったの?」
羽澄はポケットからハンカチを取り出すと沙織に差し出した。
「ありがとう」と、啜り声で沙織はそれを受け取ると、両目に溜まった大粒の涙に当てる。心の重荷を吐き出すように、ハンカチには涙で濡れた染みが広がっていく。
沙織は大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせると、震える声でゆっくりと話し始めた。
「私……もしかしたら学校辞めないといけないかも……」
「ええ!」
沙織の突然の発言に、羽澄は思わず目を丸くした。静まり返った階段を、羽澄の声が駆け降りていくように響く。
「が、学校やめるってどういうこと? 沙織が? 何で?」
混乱する思考を必死に抑えようと、羽澄は両手で頭を抱えた。ただでさえパンク寸前のところに、追い討ちをかけるように本令のチャイムが鳴り響く。
それでも沙織は立ち上がろうとはせず、俯いたままだった。唇をぎゅっと噛む沙織の横顔を見て、羽澄はごくりと唾を飲む。一体……沙織に何があったのか?
少しの沈黙が続いた後、沙織の口がわずかに開いた。その隙間から、今にも消えてしまいそうなか細い声がこぼれる。
「……実は」
沙織は一呼吸置くと、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
どうやら沙織は恋愛禁止の我が高校で、以前から付き合っている年上の彼氏がいるらしい。大親友の思わぬ暴露話に羽澄は腰を抜かしそうになったが、そこから先の話しはさらに衝撃だった。
先週、その彼氏と遊んでいた沙織は、あろうことか教頭にたまたま見られてしまったのだ。
成績優秀で生徒会にも所属している沙織は先生たちにも有名なので、おそらく教頭も顔を覚えていたのだろう。
が、問題はそれを知った教頭は沙織を呼び出し、ある話しを持ちかけてきたという。
「さっき教頭先生からは、校則に反した場合退学の恐れがあるって言われて……それで」
「……それで?」
「それで……、もしそれが嫌なら……」
「うん……」
そこで沙織は言葉を止めると、再び唇を強く噛んだ。ただならぬ話しの内容を察して、羽澄の喉がゆっくりと上下する。
「……一日だけ自分と遊びに行くなら、今回のことは無かったことにするって」
「はああ!?」
しんと張り詰めていた廊下の空気の中を、爆音の叫び声が貫いた。
羽澄は慌てて両手を口に当てるも、階段の下では異変を感じたのか、教室のドアが開く音が聞こえてくる。
隣では沙織がびっくりした表情で、人差し指を唇に当てていた。しかし、羽澄の頭の中はそれどころではなかった。
「ちょ、どういうこと? ってか教頭のやつ頭イカれてるんじゃない!? それ、ダメなやつだよ! 絶対、ダメなやつじゃん!」
気持ちの整理が追いつかず、羽澄は思いつくままに言葉を放った。
沙織が教頭と遊びに行く? しかも二人っきりで? 一体うちのバカ教頭は何を考えているのか。
「それで沙織は……何て答えたの?」
羽澄はおそるおそる沙織の顔色を伺った。もしかしたら沙織は退学を真逃れるために、教頭の誘いを受け入れたのかもしれない……。
落ち込んでいる親友の姿を見て、そんな恐ろしい想像が頭の中にちらつく。
「わたし……何て答えればいいのかわからなくて、黙ってたの。そしたら教頭先生が来月までには返事がほしいって……」
「来月までって……あと三週間しかないじゃん!」
羽澄は目を丸くして沙織を見た。あとたった三週間で沙織が学校を辞めるのか、それとも変態教頭と遊びに行くのか運命が決まってしまう……。
純情な女子生徒の人生を決めてしまうには、あまりにも残酷で短すぎる猶予だ。
「沙織! ぜったい遊びに行ったらダメだよ! あのエロ教頭のことだから、何されるかわかんないよ。何も知らない純粋な沙織が……いや、もう私よりかは知ってるかもだけど、教頭がそんなバカなこと言ってるなら他の先生に話すべきだよ!」
「ダメだよ……。そんなこと話したら私が付き合ってることもバレちゃうし、きっと教頭先生に学校を辞めさせられちゃう……」
「そんなこと言っても……このままだと沙織の身が危ないんだよ!」
でも……、と沙織は膝を抱えたまま黙り込んでしまった。羽澄も隣で頭を抱えてうーっと唸った。
沙織と教頭が二人っきりで遊びに行くことを想像するだけでも、発狂しそうなほどの怒りが込み上げてくる。どうすればそんな事態を避けることができるのか……。
ああでもないこうでもないと、羽澄は一人でぶつぶつ呟いていると、ポケットの中で携帯が震えていることに気付いた。
「明里だ」
取り出すと、画面にはメッセージのお知らせが三十件以上溜まっていた。開いて見るとそこには、怒りマークと一緒に「どこ行った?」「早く戻れ!」と警告文が記されている。
「うわー、明里がカンカンだ……って、今はそれどころじゃないんだよ!」
初めて授業をさぼっていることも、明里のお叱りを受けていることも、沙織の件に比べれば大した問題ではない。むしろこのまま教室には戻らず、教頭室に殴り込みに行きたい気分だ。
「なんとかして、沙織の件を無かったことにできないかな……」
ぼそっと呟いた言葉に、沙織は目を丸くしてこっちを見てきた。
「そんなこと……もうできないよ」
「いや、まだ何か方法があるかもしれない。例えば……こっちも教頭の弱みを掴むとか……」
そこまで言って、「あ!」と羽澄は閃いたように声を発した。そうだ。自分たちも教頭の秘密を手に入れれば良いんだ。
沙織にこんな話しを持ちかけてくるあのエロ教頭のことだ。他の人には知られてはマズい秘密の一つや二つは持っているに違いない。
我ながら名案だと思った羽澄は、「沙織」と言って親友の両肩をがしっと力強く握った。それに少し驚いた沙織が、「え?」と首をかしげる。泣いて真っ赤にしたその両目を、羽澄はまっすぐに見つめた。
「諦めるのはまだ早いかもよ」
「でも……」
「ううん、沙織。スキャンダルには……スキャンダルよ!」
ぼかんとした表情を浮かべている沙織に、「私に任せて」と羽澄は大きく頷くと、そのまま勢い良く立ち上がった。
そうと決まればすぐに作戦実行だ!
五時間目の授業が始まってからすでに三十分。忍び込むように教室のドアをゆっくりと開けると、予想通り英語の藤林先生がカンカンに怒ってきた。
何故か私が沙織を無理やり連れ出したことになっていたのが非常に気に食わなかったけど、これも普段の行いのせいなのか……。
公開処刑のように教室の前で怒られた私たちは、「すいませんすいません」とひたすら謝って自分たちの席へと急いで戻った。
ちらっと窓側の席を見ると、明里がこちらを睨みながら何か口パクをしている。んん? 「この不良娘」って……、こっちはそれどころじゃないんだよ!
大変だったの! と同じく口パクで答えると、「こら飯田、どこ見てる」と違うところから返事が返ってきた。
望んでもいない教室の笑いを取ってしまい、羽澄はむすっと頬を膨らませると、隠れるように頭を下げる。そのままちらっと後ろを見ると、沙織は俯いたまま黙っていた。
沙織……。いつも明るくて元気な彼女の姿を知っているので、胸が押さえつられるように苦しくなった。
これはもう何としてでも変態教頭のスキャンダルを握って、沙織を助け出さなくてはいけない。
ふつふつと再び込み上げてくる怒りを感じながら、羽澄は睨むように前を見る。
するとたまたま藤林先生と目が合ってしまい、「何だ飯田。答えたいのか?」と、まったく聞いてなかった問題を当てられてしまった。
慌てて手元の教科書を広げて見ると、そこにはアルファベットではなく、さらに頭を悩ますような数式がびっしりと記されていた。
「ってなわけで……、二人にも沙織を守る為に力を貸して欲しいの!」
その日の放課後、羽澄は協力者を集めるために、明里と結衣に話しをした。
あまりの衝撃的な内容に、話しが終わっても二人は口を半開きにしたまま、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。
「……まさか、沙織がそんな大胆なことしてたなんて」
「沙織ちゃん、彼氏いたんだね!」
二人とも教頭の話しよりも、どうやら恋愛禁止の我が校で、彼氏を作った沙織のほうに興味があるようだ。さすが女子。
「もう! 沙織の彼氏の話しよりも、あのエロ教頭の方が問題あるでしょ!」
羽澄はふんと鼻を鳴らして腕を組むと二人を睨んだ。
「ちょっと落ち着きなよ、羽澄。あんただって、沙織の彼氏かどんな人か気になるでしょ?」
「そりゃ私も気になるけど……って、あーもうそんな話しじゃないの!」
だーと唸りながら羽澄は両手で頭をかきむしった。こうしている間にも刻一刻とタイムリミットの日が近づいているのだ。
そんな様子を見て「羽澄ちゃん、少し落ち着いて……」と、結衣があわあわと両手を広げている。
「まあでも、あのクソ教頭はこらしめないと気が済まないよね。沙織にそんな話しするなんて、どんな神経してんだろ」
明里も腕を組んで眉間に皺を寄せた。
「でもあんまり危険なことはやめといた方がいいと思うよ……」
結衣が心配そうに二人を見つめる。
「でもこのままだと沙織が学校辞めるか、あのエロ教頭と遊びに行くことになるんだよ? そんなの私、ぜったい嫌だよ」
羽澄はそう言って沙織の席の方を見た。沙織は授業が終わると、「体調が悪い」と言ってすぐに帰ってしまった。きっとまだ心の整理がつかないんだろう。
「うーん、教頭の弱みか……あいつ、前々から変なやつだと思ってたから、スキャンダルの一つや二つはありそうなんだけどなー」
明里の言葉に、羽澄がうんうんと大きく頷いた。
「ぜーったい何かある! 間違いないよ」
「……そういえば教頭って確か結婚してたよね。ほら、あの……凄い奥さん」
「あー、そういえばいたね。あのピンクの……」
羽澄の言葉を聞いて、明里が指をぱちんと鳴らした。
「そうそう! ピンクマダム!」
そう言って明里はお腹を抑えて笑い始めた。
羽澄も明里の言葉でピンクマダムのことを思い出すと、むくむくと笑いが込み上げてきた。エロ教頭の奥さんも、この初芝女子校ではかなりの有名人なのだ。
通称、ピンクマダム。
たまに学校に現れるのだが、いつも全身まっピンクの高級そうな服を着て、インパクトのある大きなサングラスを掛けている。
その見た目から年齢不詳、性別不詳と言われる謎多き人物で、噂によると化粧品か何かの会社の社長をやっているらしい。
そのためか、いつも学校にやってくる時は、これまた高級そうな赤いスポーツカーに乗ってくるのだ。
どうやらこの学校にも支援しているのか、夫である教頭含めて、先生たちはみんなピンクマダムに対していつもヘコヘコとしている。
その様子があまりにも滑稽で、初芝女子校の生徒たちの間では名物行事の一つになっているのだ。
「教頭のスキャンダルを掴んで、あのピンクマダムに話すぞって脅せば効果抜群な気がするけどね」
明里が自信たっぷりの口調で言った。
「たしかに! ピンクマダムなら教頭も頭上がんないし、他の先生たちも協力してくれるかもしれない!」
明里のアイデアを聞いて羽澄も大きく頷いた。自分たちだけで教頭に話しをつけるよりも、影響力がある人を巻き込むのもいいかもしれない。
やっとヤル気になった明里を見て、羽澄は満足そうに首を縦に振った。
「そうと決まればさっそくリサーチだ。教頭のスキャンダルを抑えるために偵察に行こう!」
「ちょ、ちょっと待ちなよ羽澄。偵察って、あんたどこに行くつもりよ?」
「どこって……そりゃ、教頭室でしょ」
予想通りの羽澄の言葉を聞いて、明里はため息をついて小さく肩を落とした。
「はあ……あんたね、いくら教頭でも学校に自分のスキャンダルなんて持ってこないでしょ」
明里の的を得た意見に羽澄は「うーん」と眉間に皺を寄せたが、すぐに表情を変えて二人を見た。
「でもさ、でもさ! 沙織は教頭室であの話しをされたんだよ? それに教頭室って滅多に他の人が入らないじゃん。だからバレたらまずいことだって、一つや二つあるかも知れない」
頑なに教頭室を疑う羽澄に、明里と結衣は困った表情をしながらお互いの顔を見た。一度決めると、気が済むまで行動するのがこの子の性格だ。
結局、羽澄の言う通り三人は放課後の教頭室へと向かうことになった。この時間に教頭がいるのかどうかはわからないが、とりあえず覗いてみようということになったのだ。
廊下に出ると授業中とは違う、開放的な静けさが漂っていた。校庭から聞こえる部活生たちのかけ声と、自分たちの足音がリズムを取るように重なる。
何食わぬ顔で教頭室の前まで来ると、羽澄は辺りを見渡した。
よし、誰もいない。
音を立てないようにそっとドアの取っ手に触れて、指先に力を入れる。わずかに開いた隙間を、羽澄は目を細めて覗き込んだ。
細く切り取られた視界の中には、部屋の奥の方で椅子に座っているエロ教頭の姿が見えた。どうやらまだ帰っていないようだ。
「いた、まだ帰ってなかったみたい」
羽澄は振り向いて後ろにいる二人に小声で伝えた。「何してるの?」と囁くような声で聞いてきた明里の言葉に、「ちょっと待って」と羽澄はもう一度ドアの隙間に顔を近づける。
目を凝らしてよく見てみると、教頭は机の上で何かを拭いていた。それは狸の置物で、よく旅館の入り口とかで見かけるやつと同じだった。その顔をじっと見ていると、何となく教頭と顔が似ているような気がする。
「……エロ狸だ」
大小並ぶ二つの狸顔と、自分で言った言葉が思わずツボに入ってしまった羽澄は、口を抑えながらぷるぷると肩を震わせていた。
その様子を、後ろから明里と結衣が怪訝そうな表情で見ていた。
一体、いつまでこんなことに付き合わされるのだろうか……。
半ば飽きれた心境の明里が声をかけようとした時、誰かが近づいてくる気配がした。
「あんた達、こんな所で何してんの?」
聞き覚えのある声がして、三人は思わず背筋が伸びる。おそるおそる左に首を動かすと、そこには担任の和泉先生の姿があった。
すらっとしたグレーのパンツスーツに、胸下まで伸ばした艶やかな黒い髪。その整った目鼻立ちからは、不信感というメッセージが飛ばされていた。
「いや―……これは……」
やばい。スタートから完全にアウトだ。羽澄は慌ててドアから離れると、後ろに並んでいた明里と結衣の方に近づく。同罪と思われたくないのか、二人が少し離れたような気がする。
「放課後にこんなところに何の用なの?」
長い睫毛の間から、鋭い眼光が飛んでくる。将来なりたい女性はと聞かれれば、間違いなくトップスリーに入る美しさを持っている和泉先生だが、怒るとほんとに恐い。
「いやー、はは。ここって、その……何の部屋なのかなーって思いまして……」
「教頭室。見りゃわかるだろ」
和泉先生は手に持っている日誌でドアの上を指した。そこには「教頭室」とでかでかと記されたプレートが付いている。
「ですよねー……」と、羽澄は助けを求めて明里と結衣を見たが、二人とも絶妙な角度で目を逸らしていた。ああ、何てことだ。これじゃあ沙織を助けるどころか、自分たちも危ない。
三人とも黙ってしまったせいで、和泉先生の疑いの眼差しはさらに強くなった。羽澄は気まずさのあまり下を向いていたが、それでも強烈な視線を感じて背中に汗をかき始めた。
どうしよう……という頼りない言葉だけが、頭の中をぐるぐると駆け回っている。
「三人ともちょっと職員……」
和泉先生の恐怖の言葉を遮るように、突然教頭室の扉が開いた。
「おや……和泉先生。どうされましたかな?」
出た、エロ狸!
羽澄は一瞬教頭を睨みそうになったが、自分の立場の方が危ないことに気付いてやめた。
「あれ? 君たちは……」
教頭が不思議そうな表情で、廊下に並ぶ三人の女子生徒を見る。
「実は教頭先生……」と和泉先生が話し始めた時、羽澄は急に左腕を引っ張られて驚いた。見ると、明里が自分と結衣の腕を掴んでいる。
「し、失礼しました!」
明里はそう言って二人の腕を引っ張ると、もの凄い勢いで近くの階段へと向かった。
後ろからは「おい!」と和泉先生の声が追いかけてきたが、羽澄たちは振り向くこともせず、教室へと一目散に走った。
教頭室の前に残された二人は、消えていく足音の方向をただ呆然と見ていた。
「一体、何なんですかね……?」
教頭がぽかんとした表情で和泉に尋ねる。
「私にもわかりません」
明日またあいつらに直接聞くか。和泉はそう思うと、ため息をついて少し肩を落とした。そして抱えた日誌を持ち直すと、くるっと向きを変えて職員室へ向かおうとした。
「あの……和泉先生」
背後から教頭の声が聞こえたので、和泉は「はい?」と言って振り返る。すると、明らかに下心を含んだ笑みを浮かべる教頭の姿があった。
「実は美味しい団子をお土産でもらったのですが、良かったらいかがですか?」
教頭はそう言って自室の方を指差す。和泉は再びため息をつくと、「結構です。まだ仕事がありますので」ときっぱりと断った。
そうですか、と教頭は少し歯切れが悪そうな返事をすると、のそのそと自分の部屋へと戻っていく。その後ろ姿を、和泉は怪しむような目で見ていた。
まったく……どいつもこいつも。
はあとため息をついて首を少し横に振ると、和泉は疲れを隠すように日誌を抱きかかえて、職員室へと歩き出した。
「もう、何やってんのよ!」
教室に戻るなり、今度は明里の激しいお怒りが始まった。羽澄は拗ねたように唇を尖らせると、とりあえず「ごめんなさい」とだけ謝った。
「あんたのせいで私たちまで危なかったじゃない!」
腕を組んで鬼の形相で怒る明里に、結衣が「まあまあ……」と落ち着かせる。
「やっぱり私たちだけじゃなくて、先生に相談したほうがいいと思うよ……」
「それはダメ!」
結衣の言葉に、羽澄が胸の前で大きくバッテンを作る。
「先生なんかに相談すると、それこそ沙織が危ないよ。それに、もしかしたら教頭の息がかかっているかもしれないし」
息がかかっている……羽澄にしては珍しい言葉を知っているなと、明里は違うところで少し感心してしまった。その隣では、「でも……」と結衣がますます不安そうな顔で羽澄と明里を見る。
「と・り・あ・え・ず! 今日は失敗したけど、明日からはもっと慎重にリサーチしよう」
失敗したのはあんただけ、という明里の言葉を受け流し、羽澄は腕を組むと何かを考え始めた。
またとんでもないことを言うのでは……。明里と結衣が心配そうに羽澄の様子を伺う。すると、どこからともなく低いうめき声のような音が聞こえてきた。
「何今の?」
明里は教室の中を見渡したが、自分たち以外は誰もいない。再び目の前の羽澄を見ると、気のせいか少し頬を赤くしている。
「もしかして……」
飽きれた明里の声に、羽澄は照れ隠しにぴっと舌を出した。
「ごめん……お腹が鳴っちゃった」
ほんとにこの子は……。明里はため息をついて大きく肩を落としたが、隣で結衣が吹き出すのを見てつられて笑ってしまった。まあこれが、羽澄の良いところでもあるのだ。
翌日、明里から「慎重に行動するように!」と散々言いつけられた羽澄は、出来るだけ目立たないように教頭を監視することにした。
休み時間になれば教頭室を離れたところから見張り、エロ狸に動きがあれば距離を保って尾行する。
途中すれ違う生徒たちから、「あの子、何やってるの?」と不審がられることも度々あったが、これも沙織を助ける為と思えば恥ずかしさも我慢できた。
ただ、さすがに数少ない男子便所を物陰に隠れて見ていた時は、自分の方が危ない奴なのではと冷や汗をかいたけど……。
そんな生活が数日続いたが、変態教頭はなかなか尻尾を出さなかった。
明里と結衣からは、「学校の中だと難しいんじゃない?」と言われたが、教頭を監視するチャンスがあるのはここしかない。
さすがに自分が沙織の代わりにプライベートで教頭と会うわけにはいかないし、会いたくもない。私は自分の身を委ねるのは、好きな人だけだと決めている。
そんなことを考えていたら、後ろの席に座っている沙織のことがますます気の毒に思えてきた。
あの一件以来、沙織は明らかに元気がない。この前の小テストでも、いつもクラストップを取っている沙織が珍しく平均点ぐらいだった。
私なら平均点なんて取れれば大喜びだけど、もちろん沙織からすれば、更に落ち込む原因になる。ここは昔からの大親友として、沙織を元気づける為に、自分が一肌脱ぐしかない。
「あ、あのさ、沙織……」
羽澄は後ろを振り向くと、ぎこちない笑顔で話しかけた。沙織は「何?」と、力なく笑って答える。
その表情があまりにも痛ましくて、元気づけるはずが自分の方が悲しくなりそうで、思わず咳払いをした。
「こ、今度面白そうな映画が公開するんだけど、一緒に観に行かないかなーって思って……なんか主人公の男の子と女の子の中身が入れ替わっちゃうみたいで、けっこう期待度高いみたい、な。ど、どうかな?」
ダメだ、これじゃあまるでダメ男のナンパだ。案の定、沙織はうーんと考えた後に「ごめん、あんまり映画は見ないんだ」と、少し気まずそうに苦笑いで答えた。
そうだ、沙織は映画をあまり見ないんだった。
もう十年以上の付き合いになる大親友の性格を忘れていたばかりか、変な誘いをしてしまったせいで、気まずい思いまでさせてしまった。
羽澄は「だ、だよねー……はは」と言ってそのまま前を向いて沙織の視界からフェードアウトした。一体、私は何をやっているのだろう……。
「ああ」と嘆くようにため息をついて、羽澄は頬杖をつく。
教室ではクラスメイトたちが楽しそうに、恋の話や友達の話やらに花を咲かせている。
それを遠目に見ながら、羽澄はこれからのことを考えていた。沙織には、自分たちが教頭のスキャンダルを掴もうとしていることは話していない。
そんなことを話せば、優しい沙織のことだから必死になって止めてくるだろう。
親友としては、沙織に内緒でこそこそするのは少し後ろめたがったが、今は一刻を争う一大事。沙織が変態教頭に返事をするまでに、何としてでも奴のスキャンダルを掴まなくてはならない。
心のモヤモヤを少しでも晴らそうと、羽澄は窓の向こうに広がる夏の空を見上げた。
青い空には絵の具で描いたように、くっきりと飛行機雲が浮かんでいる。
せめてあの飛行機雲のように、スキャンダルに繋がる糸を握ることができれば……。
そんな願いを届けてくれるかのように、飛行機雲は青空の彼方へと、どこまでも伸びていった。
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