第13話 境界を超えて(2)
わたしがマルフィスの足もとのそれを目にしたときにもまだ、リエスタさんは少し離れたところにいる。
「すべての生き物をシェルター内に取り込むことはできなかったようですし、動物くらい侵入してくることも……」
動物の足跡でも見つけたのだろうと予想したか、そう話しながら歩み寄ってくる彼の目にもそれは映る。
「これは……獣や小動物の類ではありませんね」
マルフィスの足もとを通って続いている足跡は、あきらかに動物の物ではない。やや小さめの靴の跡だ。わたしやマルフィスの靴の大きさとも違う。
巡回の人間が来ているならその靴跡が残る可能性はあるが……。
「リエスタさん、巡回は一人でするものなの?」
尋ねると、相手は首を振る。
「終末教の信者や危険な動物がいる可能性もありますから、移動するときは常に二人一組以上で回りますよ」
やはり。この足跡は単独だし、それに、巡回の人間って少なくとも大人だろう。この足跡の小ささは、まだ成人前のものと見える。
そして、足跡を構成する泥の乾いたものはまだ雨風にあまりさらされていないらしく、形がほぼ崩れていない。
「昨日今日ついたものに見えますね」
足跡の列を辿る。その進む先にあるのは、低い石垣に囲まれた白い壁の二階建ての一軒家。石垣は細長く土が入っていて、おそらく昔は花壇だったのだろう。誰にも手入れされるあてもなく、今は石と枯れた雑草が横たわるだけだが。
三段の階段を登ったところ、綺麗な装飾の入った玄関の白いドアも、石でもぶつけられたような凹みがいくつもある。呼び出し用のボタンが横についているが作動するわけもなく、マルフィスが拳を作り、トントン、と叩いた。
「もしもし、誰かいますか?」
わたしが呼びかけてみる。たぶん、女の声で呼んだ方が警戒されないだろう。
足跡がここに続いているのは確かだが、確実にここに人がいるとも限らない。すでにここから出て行っている可能性もある。靴の泥が落ちれば、足跡なくほかへ移動していてもこちらには気づきようがないし。
期待半分、あまり期待しないようにしようという心持ち半分で、待つこと一分過ぎくらい。
小さな物音と、何かが動く気配がした。空気の動きに敏感なわたしでなくても気がつくくらいあからさまに。
「誰かいる? 僕ら、怪しい者ではないよ。人を探しに来たんだ、黒神さんっていう名前の日本人なんだけれど」
警戒させないようにと、マルフィスが大きな、できるだけ穏やかな声で説明した。
少しすると、物音が近づいてくる。動物が出すような足音ではない。それがドアを隔てたすぐそこまで来ると、ガチャリ、とドアノブが音を鳴らす。
「……入っていいよ」
小さな声。かなり若い、十代以下の女の子のものに聞こえる。
「失礼します」
一声かけて、マルフィスがドアを開けた。
レンガ調の広い玄関。脇に傘立てや帽子掛けがあり、正面には少女の姿があった。年の頃は十歳前後くらいに見える。肩くらいまで伸びた茶色の髪に黒の目で、少し汚れた赤い上着に大きめの紺色のズボンと、白いセーターを着ている。
「えーと、こんにちは」
彼女は少し驚き、目を丸くしてこちらを見上げていた。少しでも刺激を与えると逃げてしまいはしないかと、そんな無難なことばがまず口から出る。
「わたしは藍、千夜藍。初めまして」
「僕はマルフィス。こっちはリエスタ。よろしく」
ほほ笑み、マルフィスがわたしに続き自己紹介する。
数秒くらい、迷うような間があった。しかし、やがて少女は口を開く。
「あたし……アリサ。黒神アリサ」
このことばには、わたしたちが目を丸くした。
――彼女はわたしたちを中に迎えてくれた。リビングは大きな木のテーブルと椅子、暖炉や棚が見える。調度品は大部分が持ち出されたようで、電化製品は見当たらない。それでもなかなか綺麗に掃除してあるようだ。
アリサちゃんはお茶を入れてくれた。固形燃料が備蓄されているらしく、燃料を囲む鉄枠の上に小さめのやかんをのせ、しばらく温めると湯気が立つ。
棚には日持ちしそうな飲み物のパックやお菓子の袋などが並んでいる。
「食べ物はどうしているの?」
見たところ、骨と皮だけとまではいかないが、彼女はかなり痩せている。
「地下の倉庫に、缶詰がたくさんあるの。それに、違う家に残っていたお菓子とか、良さそうなものをお父さんが集めてきてたから」
「そういえば、ご両親はどこにいるの?」
何の気ない様子で、マルフィスがそう尋ねる。
きっと、どこかに出かけているのかと思っていたのだけれど。
「母さんは知らない。父さんは去年の夏、死んじゃったの。病気で」
彼女はサラリとそう言った。
確か、黒神さんはシェルター外に出るときに奥さんと別れ、娘と一緒に移住したはず。ということは、彼女は一年近くも一人でここで過ごしていたのか。
わたしたちの質問に答えて、少女は途切れ途切れに語り始めた。
最初は別の棄てられた街を目ざしていたが、終末教の存在に気づき、安全そうな街を探してここに辿り着いたという。まずは住むために必要なものを集め、それから黒神さんは自分の研究を続けた。
時折、研究所からの巡回が住処の近くを通る。研究所へ行くことも考えたが、シェルター内で自分に関わる者にバッシングが及ぶのを何度も目にしていた黒神さんは、研究所へ行くと迷惑がかかるのではないかと考えて迷っているうちに、ここの生活に馴染んでしまったようだ。
そのまま何年かが過ぎた。黒神さんは病魔に侵され、少しずつ弱っていった。病気になってもここでは医者にかかることもできないし、薬も持参した風邪薬や頭痛薬など、簡単なものしかない。
黒神さんは覚悟を決め、自分がいなくなった後にどうするべきかを言い残していた。少女は言われていたとおり、父の亡骸を近くの公園だった場所の穴に埋め、墓を作ったという。
黒神さんは研究所の巡回が来たら助けを求めるように伝えていたが、同時に怪しい相手には近づかないようにも言われていて、今までの巡回が安全な相手かどうかの判断がつかずに逃げていたらしい。
「ずっとここにいたら、お嬢さんも病気になってしまうかもしれません。それに、充分な栄養が取れているようにも見えませんし……一緒に研究所に行きましょう。少なくとも、ここにいるよりは美味しいものが食べられますよ。お父さんもそれを望んでいるはず」
リエスタさんがそう言うと、数秒だけ間を置いてから、少女はうなずいた。
素直な子で良かった。
「じゃあ、さっそく出発の準備をしましょう」
ここに食料があるなら、それも持って行かなければもったいないだろう――と、色々と見て回ったりしたものの、賞味期限がけっこうギリギリなもの、すでに過ぎているものも多い。お茶葉など乾いた物は見た目に変化がなければ大丈夫そうだけれど、賞味期限が何か月か過ぎた生ものの缶詰などは少し悩む。
うーん、わたし個人なら開けて大丈夫そうなら食べるかもしれないけれど、ここは慎重に残していった方がいいかな。それこそ病気になりかねないことだし。
結局、食料は段ボール一箱程度の缶詰と、お茶や紅茶のパックや未開封のドリップコーヒー、ピーナッツと小魚の袋。
それからもう一箱、写真やファイルされた資料がどっさりと。アリサちゃんは、ここを出るときには研究資料を持って行くように父に言われていたという。
そうと聞いて、リエスタさんはファイルをめくってみる。
「なかなか興味深い……黒神さんは、お嬢さんの能力についても研究されていたようですね。バブルヘルと保菌者の分布の関係性、発現した能力の種類との関係性……これは、研究所の研究員にも興味を示す者がいるんじゃないでしょうか」
黒神さんの研究がバブルヘル対策の進歩の力のひとつになってほしいな。そうなれば、彼の名誉も少しは回復されるんじゃないだろうか。もともとひとつも悪いことはしていないのだけれど。
マルフィスとリエスタさんが段ボール箱を持って、わたしたちは飛行機に向かって引き返していく。もちろん、アリサちゃんも一緒に。
その道すがら、わたしは少し後ろをついてくる少女に気になることを尋ねた。
「そう言えば、アリサちゃんはどんな能力を持っているの?」
ときいてみるが、彼女は少し思案顔。他人に簡単に能力を見せてはいけない、としっかり言い含められていたとしてもおかしくないものな。
警戒を解くためには。
少し考え、わたしは右手の人差し指を立てた。
そしてコートのポケットからビニールに包まれた飴玉をひとつ取り出し、軽く放り投げる。それは重力に従い急な放物線を描くが、地面には落ちることなく右手の人差し指の先に吸い寄せられ、少し上で静止した。
あ、という顔で少女は見上げる。
「わたしも能力者だよ。保菌者ではないけれど」
「お姉さん……革命者?」
「そう。空気の圧力を……要するに、空気をギュッと圧縮したり、膨らませたりするのがわたしの能力」
この説明で通じるだろうか。
理解できたかどうかは不明だが、とりあえず、警戒を解くことはできたようだ。
「あたし……見える範囲に、ものを瞬間移動させる能力があるの」
そのことば通りの能力を、彼女はすぐに実演してみせてくれた。彼女が一抱えほどの瓦礫を指さすと、それが瞬時に消え、彼女の足もとに移動している。
なかなか強力な能力に思える。それを振り向いて見ていたマルフィスとリエスタさんも顔色を変えていた。
「素晴らしい……移動できるものには、大きさや重さの制限はあるのですか?」
「全体が視界に入るくらいなら大丈夫。生き物は移動できないし、移動する先も、移動前の場所と同時に視界に入らないと駄目だけれど」
となると、その気になれば山ひとつを動かすこともできる……? 全体が視界に入らなければ、ということは遠くの山を手前に持ってくるような真似はできないだろうけれども、それでも強力な能力には違いない。
それに、なかなか応用できそうな能力じゃないかな。
「能力についての詳細も、おそらく研究書類に書かれているでしょう。まずはゆっくり休めるところへ参りましょう」
来たときと同じようにリエスタさんが先頭になって、慎重に道路の真ん中を歩いた。太陽は少しずつ高く昇りつつある。研究所に着いたら間もなく昼食になるかもしれない。
他に誰の気配もなく、獣と遭遇することもない。無事、飛行機に到着し機内に入ると、リエスタさんがエンジンをかけて操作を始める。
わたしは機内に置いていった自分の鞄の中を探ると、チョコレート菓子を見つけアリサちゃんに分けた。少女は目を見開いて小さく礼を言うと、夢中でそれを頬張っていた。
思わずほかのお菓子も次々あげたくなるが、その前に研究所で昼食だ。おやつはその後でいいだろう。
飛行機はスムーズに飛び立ち、空を滑りだす。わたしはちょっと慣れつつあるけど、少女はじっくり味わっていたチョコを持つ手を止めてまで窓の外に見入った。飛ぶのは初めてなのかもしれない。
それから目的地までは、あまり時間はかからない。五分も経ったかどうかくらいの感覚で、緩やかに降下し始める。
「ほら、あそこだ」
白い建物が見えた。天文台に似た形――いや、近づくと大口径の望遠鏡らしきものが備え付けられているのが見えた。もともと天文台だった建物に研究所が入った、という感じなのかもしれない。
その建物のそばに駐車場があった。停車している車はまばらで、空いているスペースにこのコンパクトな飛行機は降下する。大型トレーラーほども場所を取らないし、滑走路など必要としない。
ドアが開き、駐車場に降り立つ。棄てられた街とは違い、一目で管理されているのがわかる滑らかなアスファルト。
「やあ、久々だなあ。変わりないね」
段ボールを抱えながらマルフィスは白い外壁を見上げた。
滑らかな金属の壁に、天井はドーム状になっている。そのドーム状の屋根から巨大な白い円筒の端が少し覗いている。
「とりあえず入りましょう。中の方が快適でしょうし」
と、リエスタさん。
そう、外の気温は快適とは言い難い。どちらかと言えば厚着しているのに、肌寒いくらいの気温だ。
しかも、わたしも購入した土産物という大荷物を抱えている。このまま長く外にはいたくない。駐車場からいくつか整備された道路が続いていることや、林の向こうに建物が見えることは気になったが、どれも後回しだ。
足早に、リエスタさんは正面の大きな入口に案内してくれた。両開きのガラス戸を押し開き、さらに奥の自動ドアをくぐる。ここは電気が通っているらしい。快適な温度に保たれた室内の空気が迎え入れてくれた。
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