第12話 境界を超えて(1)
朝になると様子はずいぶん変わるものだ。障子からも朝日が差し込み、どこかで眠っていたらしい鳥たちがさえずりを響かせる。
そう言えば、と顔を持ち上げて見回してみるが、べつにテレビの画面に手あかがベタベタついていたり、天井に染みが浮き出しているといったようなこともなかった。
「あ、おはよう、藍」
動いた拍子に起きたか、マルフィスが目を開く。
「おはよう、マルフィス。よく眠れた?」
「うん、まあまあ」
夜遅かったのもあるし、いつもよりは確実に眠れてない。しかし、人体に必要な睡眠時間からそれほど極端に減ったわけではないくらいのはず。
無人ホテルの例にもれず、ここも食事はなしだ。タコしゃぶを出すお店は、昨日のうちにすでに調べてある。
「向こうって、食事はどうするの?」
当然だがシェルターの外には出たことがない。ふと頭に浮かんだことを質問してみる。
「研究所には食堂も売店もあるよ。でもそこに行くまでには時間がかかるかも」
では、行く前にコンビニにでも寄って行った方がいいようだ。
売店があると言ってもシェルター内の取りそろえようとは違うだろうし。少なくとも、マルフィスの様子から言って、お菓子の種類はそれほどでもなさそう。
「そういえばマルフィス、研究所の知人にでもお土産を買っていかないの?」
「みんないざとなればシェルター内に買い物に来れるし……でも、研究に没頭して外に出ないような人も確かにいるからねえ。買って行ってあげたいな」
ということで宿をチェックアウトして無人タクシーを拾うと、あとでコンビニとお土産店に寄ることにして、まずは朝食のタコしゃぶの店へ移動。研究所の食事もメニューが限られそうだし、何か持って行きたい気がするけれども、さすがにタコしゃぶは持って行けないだろうな。シェルター内の特権だ。
シェルターの外に出る前の最後の食事なので、わたしたちはタコしゃぶをじっくり味わった。大きなタコの薄切りを茹でると小さく圧縮される。それを数種類のタレにつけ味わう。独特の食感が面白い。タレも全種類じっくり味わう。
じっくりだけれど、手早く。朝になってから思うが、十時の待ち合わせというのはけっこう早い。
朝食後は、早めに開いているお土産店とコンビニをハシゴし、わたしもマルフィスも、両手いっぱいに紙袋を抱えるくらい買った。中身は大半、研究所へのお土産だ。
お土産店に〈タコしゃぶの素〉とかパック入りのタコが売っていたのが気になってしまったけれども、研究所に何人いるのかもわからないし絶対人数に足りないだろうな……などと思い、塩辛や魚介の燻製の大きなパックを買った。礼文島で取れたウニ入りの塩辛もあり、自分用にも小さめのパックを購入。あとはお菓子や缶詰、チーズとか。
マルフィスはほぼお菓子やデザートだ。お茶漬けの素や乾麺も多少見える。
「買い過ぎか……けど、ずっと乗り物移動だから大丈夫のはず」
持ちにくそうにしているが、店の出口から無人タクシーまでの短い間だ。親切なタクシー運転手なら手伝ってくれるだろうが、それがないのは無人の弱点のひとつだな。
それでもどうにか荷物を運びこんで乗り込み、築港へ向かう。
風は少しあるがそよ風程度で、空は曇り。今日は今のところ雨は降っていない。港に並ぶ漁船も緩やかに上下する程度だ。
一目で漁船ではないとわかる船が、端の方に一隻停泊している。黒くなめらかな側面に横線が入った、なかなかスタイリッシュなデザイン。ちょっと潜水艦っぽくもある。
築港に降り立つと、去っていくタクシーを見送り、大荷物を半ば引きずりながら船へ近づく。すると、船の向こうでこちらを眺めていたらしい青年が駆け寄ってきた。
青年は金髪に緑色の目で、背も高くなかなかのハンサム。左耳の耳たぶにはマルフィスと同じように球体がぶら下がっていた。
「リエスタ、久しぶり! と言っても、まだ離れて十日くらいな気がするけど」
マルフィスが近づく姿に声をかける。もっと長く一緒にいるような気がしていたけれど、わたしとマルフィスが一緒に旅をするようになってからも、まだ一週間くらいしか経っていないのだった。
リエスタ、という名らしい青年はそばまで来ると、笑みを浮かべて顔を上げる。
「ずいぶんお土産を買いこんだようで。……あなたが千夜藍さんですね。わたしはリエスタ。マルフィスの仲間の一人です。あなたのことは聞いていますよ。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
一体、どういう風にわたしのことを説明されているのか少し気になったものの、質問するのも自意識過剰っぽいし、聞くのも怖いので軽く流す。
彼はわたしとマルフィスの紙袋を少しずつ持ってくれた。
「これは、研究所の皆も喜びますよ」
「僕の好きな物を買ったから、みんなの好みに合えばいいけどね」
船の大きさは周囲の漁船とあまり変わりない。数人が船室に乗れる程度で、どうやら迎えに来たのはリエスタさん一人のようだ。
一応操舵席はあるものの、最新の船の類に洩れず自動航海が可能になっていらしく、リエスタさんに続いてわたしたちが乗り込むと、彼はカードキーを差してエンジンを入れ、間もなく船は動き出す。
船は静かに港を出て、水平線へと滑り出る。それをわたしたちは船室の窓から眺めていた。船室は真四角でよくあるバスの待合室より少し広い程度に、ベンチと操舵席という構成。荷物や航海に必要な機材は壁に収納できるようになっていて、思ったより視界は開け、広い印象だ。
大海原に出ると船は一気に加速していく。窓から後ろも見えるが、港はどんどん小さくなっていく。
それにしても、多少は波があって船自体は揺れているはずなのに船室は少しも揺れを感じない。船室は水平が保たれる構造になっているのか。
「あと五分もすれば目標地点です。そこから空路で研究所を目ざしますよ」
リエスタさんはモニターに表示されたレーダー表示を指さした。現在地が移動する赤い点、目的地が緑の点で表示される。別の表示も可能なのかもしれないが、ここは古くからの表示の仕方なんだな。
「そこに、飛行機か何かが迎えに来るんですか?」
わたしが尋ねると、彼は少し悪戯っぽく笑った。
「すぐにわかりますよ」
そのことば通り、五分後、わたしはどう空路に飛び立つのかを知る。
『これより飛行モードに移行します。乗員はシートベルトを着用ください』
赤い点と緑の点が重なると女性音声のアナウンスが流れ、脇の辺りでガチャっと音が鳴る。見ると、壁に収納されていたらしいシートベルトの差し込み部分が突き出していた。
全員がベルトを差し込み口に入れると、あちこちで色々な音がする。
船体横から伸びていく翼。船首に現われるプロペラ。底の方でも何かがウイーン、ガチャガチャと駆動している。
「こっちの方が効率的……ということですか」
「そういうこと」
と、リエスタさんは再び笑う。
マルフィスは窓の外を眺めていた。
「空からの風景も楽しみだね。僕がシェルター内に入ったときはバスだったから」
そのことばの数秒後には、持ち上げられるような感触を覚える。エレベーターで上へ向かうときと少し似ているかもしれない。あとは、飛行機と同じだ。わたしも高校の修学旅行で一度だけだけれど、飛行機に乗ったことがある。
ただ、飛行機ほど高くは飛ばない。海の白い波しぶきは小さな縞模様に見えるが、岸が見えるほど視界は広がらない。
「やっぱり、陸地の上を飛ばないと面白味がないなあ」
「旅を続けていれば、そのうちその機会もあるでしょう。キミはこの国を回るのが仕事ですからね」
少し残念そうなマルフィスの肩を、リエスタさんは軽く叩いた。
三ヶ月で、という話だけれど、外界に出ている期間は除外されるのだろうか。あまりきっちりタイム・リミットがあるわけでもなさそうだが。
船の形態のとき以上に移動は速く、遠くに陸地が見えたかと思うともう行き過ぎている。ただ、遠くの雲模様は景色に彩を添えていると言えなくもない。
さて、シェルターの端はどこだろうか。シェルターは外の景色を透過するので、遠目ではどこが端なのかわからない。
レーダーに目をやると、端は線で表示されているようだ。それはぐんぐん近づいてくる。すると飛行機は高度を落とした。正面の窓から見える行く手に、縦に細く白い線が走るのが見える。そしてそれは二本に分かれて左右に開く。
そこを、飛行機は潜り抜けたらしかった。景色は相変わらずだけれど、わたしは空気が少し変わったような感触を覚える。実際、空気も空気中の質も、外と中ではだいぶ違うだろうけれど。
しかし空は相変わらず青いし、あまり実感はないな。
「棄てられた街が見えるね。そう言えば、黒神さんはどこの棄てられた街にいるんだろう」
「ああ、あそこにいる可能性もあるんだね」
声につられて前方に目を凝らすと、陸地が見えてくる。そこに、街並みと思しき凹凸が小さく見えていた。
「そうだ、寄り道ってできるの?」
マルフィスは向かいに座る仲間に尋ねる。
「ああ、お望みとあれば。もともと今回の帰還は予定外のことだし」
リエスタさんがモニターのレーダー表示の端にあるパネルを押した。すると、飛行機はスピードを落とす。
「あそこは終末教の信者も確認されていないし、割合安全だから。ただ、何度も巡回が入っている割に人の姿は確認されていませんけどね。どこかに身を隠していたりする可能性はなくはない」
巡回の存在を知らず、巡回を敵と誤認して隠れているとか。終末教のような危険な存在もいるとなると、警戒もしたくなるだろう。
彼はさらにパネルを操作し、飛行機のルートを棄てられた街の郊外に設定する。
「黒神さんのことも聞いていますよ。無事に発見されるといいのですが」
「もう棄てられた街に出て何年も経っているらしいから、見つけられやすいところにはいないんじゃないかな。探しても駄目なら、ちゃんとしたセンサーを研究所から借りてくるしかないかもしれない」
確かに熱センサーでもあれば、生き物がいれば探し出せそうだ。
しかしまあ、とりあえずはこの目で確かめたい。個人的には〈棄てられた街〉というものがどういうものなのか見てみたいのもある。
飛行機は危なげなく、設定された通りに着陸した。もとは駐車場だったらしいアスファルトの上で、ひび割れのところどころから雑草が突き出ている。
わたしたちは元船室、現機内から外へ出た。車から降りる程度の段差だ。
あちこちがひび割れた古いアスファルトの上から見渡せるのは、いかにも古そうな風化しかけた建物群。壁が崩れた家もあり、金属の階段は赤く錆ついている。屋根に穴が開いている家も見えたり、陸橋が落ちていたり。
そして、どの建物も同じ方向から大量の泥水を被ったように同じ方向の壁に黒い染みができていた。
――まるで、映画か何かの世界の中の風景だな。
シェルター内の街にも似たような光景は探せばあるのかもしれないが、少なくともわたしが見たことのある〈街並み〉のなかではここまでの廃墟は初めてだ。
果たして、こんな場所に黒神さんは住んでいるのだろうか。終末教の信者がいなくても充分危険そうに見える。
「足もとに気をつけてください。道路も整っていませんし、瓦礫や割れたガラスが散乱していたりしますから」
どうやら、リエスタさんも一緒に来てくれるらしい。
飛行機はエンジンを停止し、わたしたちはそのそばを離れた。駐車場の出入口から古い道路へ。土埃が溜まり、割れたアスファルトの欠片やひび割れから伸びた雑草が邪魔な道路を気をつけながら歩く。
道路より、あきらかに崩れ落ちそうな建物の壁や看板が危なそうだ。二つの球形を吊るされたようなデザインの街灯もすでに落ちているものが多いが、まだ落ちてないものはわずかな振動でも揺れて危ない。
落ちそうなものには近づかないようにしながら、リエスタさんが先頭になって誘導してくれる。間もなく、両脇に建物が並ぶ道路のど真ん中を歩くようになる。並ぶ建物は店よりも民家やアパートらしきものが多い。住宅街か。
「住み着くなら、できるだけ壊れていない丈夫な家に住みそうなものだね。ここら辺は結構壊れ具合が激しいな」
周囲を見渡し、マルフィスが推測する。
「確かに。それにしても似たような壊れ方をしている建物が多いみたいだけども」
「ここの建物は、バブルヘルのときの衝撃の被害をそれなりに受けていますからね。被害をあまり受けていない建物が多いというと、こちらの方向になりますが」
リエスタさんは分かれ道で道路を曲がった。振り返ると、泥水を被ったように建物が汚れている方向の街並みほど黒くすすけたようで、建物としての形が崩れているシルエットが多い。そちらには木も生えておらず、反対側には街路樹が見えている。
瓦礫を乗り越え街灯の割れたガラスを避け、建物がほぼそのまま残っている地域に辿り着く。ここは最初に見た街並みとはあきらかに壊れ具合が違う。なかにはシェルター内の街中で見ても違和感のないような建物もある。
「一見無事に見えても中は脆い可能性もあるから、気をつけてください」
近づこうとすると、リエスタさんがそう注意する。
と、言われても。
「中を見ないと探せないじゃないか」
マルフィスの言う通り。黒神さんがいるかどうかを確かめるには建物内を確認しなければ。もし警戒して隠れているのなら、呼びかけて出てきてくれるとも思えないし。
「でも、ひとつひとつ確認するんですか? すべての部屋を? やはり、我々だけで探し出そうというのには無理があると思いますよ」
「それはまあ……でも、ここまで来ておいてすぐに帰るっていうのも、なんだかなーって感じだね」
言って、マルフィスはこちらを見る。
「ねえ藍、空気を操れるなら、空気中の匂いを調べたりできないの?」
そのことばに、わたしは思わずつまづきそうになった。
「いや、犬じゃないんだから。わたしが操ることができるのは、空気の圧力だけだよ。それに特定の匂いを探すなら黒神さんの匂いを知っていないと駄目でしょ」
いや、黒神さんの匂いを知っていたとしてもわたしには探すことはできないが。世の中にはそんな能力を持つ革命者や保菌者もいるかもしれないが、わたしが関与できるのは空気の圧力だけで、空気中の成分は感知もできない。
「そうか。残念。地道に探すか、センサーを借りて戻ってくるかしかないね。僕たちに気づいて出てきてくれると楽なんだけども」
「確かに、巡回の人間とは違って我々の姿を危険な相手とは誤認しないでしょうね」
リエスタさんは苦笑する。
巡回の人間と言うと、警備員のようにある程度防具をつけた姿を思い浮かべる。終末教徒という危険に襲われる可能性もあるし、こういうところでは落下物に備えてヘルメットくらいは被ってくるものだろうし。
と考えると、我々はここへ来るには本当に軽装過ぎた。
「色々と準備してからまた来た方がいいかもしれないね」
そう言って目をやると、マルフィスがしゃがみこんだところだった。その目は足もとに向けられている。
はて?
疑問を抱き近寄ろうと足を踏み出す。
「これ……足跡だ」
この目で見る前に、彼は答を言った。
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