第10話 災害、再来(5)
先ほどまでの緊張感などまったくなかったかのように、笑顔で天文台を見るマルフィス。
とはいえ、わたしも一度天文台に気を取られるとそちらだけに集中する。今までの人生、天文台なんぞ一度も入ったことはないのだ。どういうものなのか興味があった。
中に入ると玄関前に次々とタクシーが乗り付け、わたしたちの後にも客が入ってくる。ずい分と繁盛しているようだ。
その理由はすぐにわかった。
「へえ……」
と、マルフィスもそのコーナーを目にした途端に、声を洩らす。
〈バブルヘルズ〉特集コーナー。そこを熱心に眺める姿が多かった。当然だけれどこの先のバブルの情報は公開済みのものしかなく、過去のバブルヘルズ関係のデータや画像と映像を主に展示している。それでも、少しは予習しておいた方が何かの足しになると思う人々が訪れているのだろう。
『かつてもそうだったように、バブルヘルの進路は少しの要因で外れます。そうでなくても、シェルターは充分な強度を計算して造られています。皆さま、落ち着いてバブルヘルズが行き過ぎるのを待ちましょう』
最後の部分にはそう添えられていた。
展示を見ると、わたしたちはプラネタリウムへ。星空の一年の動きや、主な星座の紹介などが動画でされている。
「天の川、綺麗だねえ」
技術も進歩したもので、星々は実際の星空のようにリアルに瞬き、浮き上がって見える。いや、現実の星々よりもこちらの方が綺麗に見えるかもしれない。
「バブルヘルが通過するとあの星々の配置も変わるのかな」
「実際そうなった星もあるよ。地球から見える範囲ではないけれども」
バブルヘルに激突され滅んだ星もある、と薄っすら聞いたような気はしていた。幸い、そこは知的生命体はいなかったという話だったはずだけれど、それでも惑星がひとつ滅ぶというのは大変なことだ。
「わかっていたけれど、さすがに僕の母星は見えないな」
難の気なしに言ったことばだろう。しかし、それを聞き咎めた人がいた。
「あら、どちらの惑星からいらしたんですか?」
若い女性で、IDカードを胸に留めている。個々の職員の学芸員らしい。
「ええと、それはね……」
質問されるとは思っていなかったマルフィスは少し驚き、それでも自分の惑星がある座標らしきものを口にする。わたしにはどういうことかさっぱりだが、相手にはその数字の羅列が通じたらしい。
「ちょっと待っていてください」
と、女性はどこかへ急いで去っていく。
残されたわたしたちは顔を見合わせ、とりあえず待つことにした。まさか、この成り行きで良からぬ宗教団体に突き出されるのはないだろう。
やがて、思ったよりも待った末、職員さんは一枚の紙を手に現われた。走って来たらしく息を切らしている。
「ごめんなさい、お待たせして。なかなか先方が捕まらなくって……はい、これをどうぞ」
と、渡された紙にプリントされた画像を見て、マルフィスの目が見開かれる。彼はその画像をしばらくの間時っと凝視していた。
横目で覗いてみたところ、画像の中心に、渦巻くような青緑の天体らしきものが浮かんでいた。
「知人の学者が、そちらの方向の星々を研究しているのを思い出しまして。地球から見た母星の図というのは、地球でしか見えないものですから、お土産としても貴重でしょう?」
「うん……きっと母星の仲間にも喜ばれるだろうし。ありがとう、これ、大事にしますよ」
貴重なそれを、外界人は大事に鞄の中の透明ファイルにしまった。
――それにしても、宇宙関係に興味のある人にとっては、外界人は決して悪印象ではないんだな。
滞在していたのは一時間くらいか。笑顔で見送られて天文台を後にする。
「なぜか、故郷の風景というのは妙な気分になるね」
帰りの無人タクシーの中で、彼はまたあの画像のプリントを見ていた。
「わたしは地球の写真を見ても何も感じないけどな」
「それは地球にいるからじゃないの? 離れてもいないし故郷の実感がないとか。出身はどこなの?」
「さあ、出生地は研究施設のある東京だろうけれど。なんの思い入れもないよ」
東京の研究所の試験管の中で生まれ、物心ついたときには北海道にいた。革命者がどの都道府県のどの町に行くかは、完全にランダムで決められたらしい。そこで生まれたわけじゃないんだからわざわざ割り振らなくていいだろうと思うが。
いや、今となっては北海道で良かったと思う。どこも住めば都だろうけれど、北海道に住んでいて旅暮らしを始めようとしなければ、マルフィスと出会うこともなかったろう。
「旅暮らしを選ぶような人ならそんなものか」
そう、わたしは定住という生き方を捨てて旅暮らしを選んだ。でもマルフィスは三ヶ月だけ仕事で日本を回るというだけで、終わったら帰るべきところがあるはず。
「そういう意味じゃ、わたしの故郷は地球全体になるかもね、やっぱり」
無人タクシーは駅に到着する。WITTで調べておいたけれど、どうやらここと稚内の間の列車は動いているようだ。
「丁度いいくらいの時間だね」
切符を買いプラットホームに向かうと、すでに準備の整った列車がドアを開けて待っている。乗客の姿もかなり窓から見え、席があるか心配だったが、向かい合った席の最後の空きを見つけ何とか座れた。
「この列車が何事もなく目的地に到着しますように」
「本当だね。まだこの雨だし」
まだ雨は止むことなく降り続いている。
濡れた世界の中を、列車は汽笛を鳴らして走り出した。最北の街を目指して。
レールはしばらくの間、天塩川を横手に続いていく。時折川淵に白い嚢が積んであるのが見えるものの、車窓から見える範囲では、大きな災害にはなっていないようだ。
「ドーナツ食べよう」
マルフィスが言ったところで、WITTの時間表示を見ると〈一五:〇〇〉きっかりだった。なぜかこの旅、午後三時にはきっちりおやつを食べるのが暗黙の了解になっている。
「ありがとう、いただくよ」
今日のおやつはマルフィスが買ったドーナツ三個。わたしはそれに合わせてペットボトルの紅茶を買っていた。
紅茶を一口飲んで顔を上げると、つい今しがたまで嬉しそうに最初に食べるドーナツを選んでいたマルフィスがじっとこちらを見ていることに気づく。
「ねえ、今更なこときいてもいい?」
唐突な問いかけ。
「いいけど、何?」
「藍は好きな食べ物とか嫌いな食べ物とかあるの?」
「本当に今さらだな」
軽く笑いながら感想を言うと、相手は少し膨れっ面をする。
「だってさ、勝手に僕の好きなものを買ってきたけれど、それを藍が嫌いだったら好みを押し付けてるだけになるんじゃないかなと」
「大丈夫だよ。好きな食べ物は……チーズとか生ハムとかかな。誰かのせいで甘い物も好きになりつつあるけどね。今まで口にしたことがある食べ物で嫌いなのはゴーヤくらいだよ」
「ゴーヤって、苦いやつ?」
うなずきつつ、どうやら彼はゴーヤのような極端な味も体験したいらしいと気づく。
「そのうち沖縄にでも言ったらゴーヤチャンプルを食べてみるといいよ。わたしは食べないけれども」
まだ彼には嫌いな食べ物はないようだけれど、ゴーヤが彼の最初の嫌いな食べ物になるかもしれないな、などと思うのは願望が入っているだろうか……甘党でも、ゴーヤが好きな人は好きだ。
そんなことを思いながら、ゴーヤとは正反対の味の生クリームが入ったドーナツを食べる。甘い。少量ならくどくない甘さではあるが。
「美味しい……ゴーヤのことは沖縄に行った時に考えよう」
チョコレートがけのドーナツを口にして彼は口の周りをチョコレート色に汚していた。
レールがいくつか町や村を越えるうちに、少しずつ雨は小降りになっていった。というより、雨雲の覆う地域からこちらが大きく外れたからか。
やがて黒雲の切れ目から薄く光が漏れ始めるが、その光はすっかりオレンジ色に染まっている。せっかく雲が減っても、もう日が沈んで暗くなってくるころだ。
幌延町で天塩川と別れ、レールはさらに北へ。雲は少なくなっていき、雨はいつの間にか止んだ。
「晴れたね。やっと景色が綺麗に見えるよ」
「もう暗くなってきちゃったけどね」
「夜の景色、というのも味があって好きだよ。家や街の明かりも綺麗だし、雲がなければ星も見えそう。それに、いつもは移動しないような時間に列車に乗っているのは、それだけでワクワクするよ」
その感覚はわたしにもわかる、起きてはいけない時間に起きているような。子どもがいつもは寝ている時間に起きて遊んでいる、少し悪いことをしているような背徳的楽しさ。その背徳感がテンションアップにつながっているのか。
窓の外はやがて灯のついていない建物は黒いシルエットにしか見えなくなる。街灯の連なりや窓の灯は地上の星のように見える。空の方は月も星も見えない。
「お腹空いてないかい?」
「いや、ドーナツ三つも食べたからそれほどでもないよ。それに、そろそろ到着しそうだし。調べてみたけど、稚内もタコしゃぶとか宗谷牛とか、色々と美味しいものが多いみたいだね」
名物の話をするときの彼は本当に嬉しそうな顔をする。
夕食をどこにするかは決めてなかった。わたしも行く手にどんな名物があるのかは調べておいてはいるが、稚内市も本来なら一日あっても回り切れないくらいの大きさだ。そして昆布の有名な利尻島とウニが有名な礼文島。余裕があれば両島とも稚内からのフェリーで巡りたいものだけれど、外界に行く関係上、そこまでの余裕がない。
ただ、両島の海の幸は稚内である程度味わえる。タコしゃぶにも利尻昆布が使われているらしいし。
国道と並走したり離れたり、沼や川を窓の外に眺めたりしつつ、すっかり暗くなった景色の中にやがて海を見る。北海道の中でも北の日本海。
「少しお腹が空いてきた」
と、マルフィス。そりゃあ、もう一九時をとうに過ぎているくらいだもの。
「でもほら、夕食にはもうすぐ辿り着けそうだよ」
わたしは窓の外の一角を指さす。そこには、まばゆいほどの街の灯が瞬いていた。
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