第7話 災害、再来(2)
西日の中を歩いてホテルに着いたときには、だいぶ足も重くなっていた。部屋に戻ったときにはもう、窓の外は薄暗くなり始めている。
着替えようとして、そういえば二人部屋だった、と気づく。着替えるときはトイレだ。
マルフィスは帽子とコートを脱いでいる。水色のパーカーに黒のズボン。けっこう厚着だ。
わたしはいつもは白いシャツにジーパンだが、くつろぐような場では動きやすいワンピースのスカートにスパッツを着る。その間にシャツとジーパンは洗濯だ。
「夕食は七時から九時なんだね。先にお風呂にする?」
「食べてからだと、眠くなって溺れそうだしなあ。そうしよう」
少しだけベッドの上でゴロゴロしたあと、そういうことにして、大浴場に向かう。それは最上階にあって、窓は近くを流れる大きな川を向いているらしい。山内さんが言っていた通り眺めは良さそうだ。
「じゃあ、また後で」
わたしは女湯、彼は男湯で。
ちょっと心配でないでもないが……とにかく、マルフィスが限られた空間の中で外界人嫌いの人間に会わないことを祈ろう。
と更衣室に入ってみて驚く。貸し切り状態だ。
そりゃ大衆浴場とは違う。浴場もここだけではなく、地下とか岩盤浴とかあるみたいだし。ちょっとズレた時間なだけで人がいなかったりする。
滑らかな岩を組み合わせた、風情ある大きな湯舟が目立つ。ほかにも寝湯に水風呂やジェットバス、サウナに露天風呂もある。壁はほぼガラス張りで、川と対岸の街並みの灯が見えた。設備も割と新しそうで綺麗だ。
都会の真ん中なので星は見えないが、街の灯りもこれはこれで綺麗だ。
汗を流し、脚の筋肉を揉みほぐす。湯につかり身体の芯まで温まると、今日の疲れもすっかり流した気になる。
連れがいるのであまり長風呂はできない。大浴場を出ると、ドライヤーで手早く髪を乾かして団子状にまとめておく。乾ききってなくても、部屋で再度ドライヤーを使えばいい。
が、女湯を出てもマルフィスの姿はなかった。近くにある休憩所を覗いても見当たらない。わたしの方が早かったか。
しばらく休憩所で待ちつつ、時折、男湯の入口をチラチラ見る。
十分くらい待って、やっと彼は姿を現わした。
「ごめん、ちょっと長居し過ぎたか」
浴衣姿のマルフィスは、肌の色が薄紅に染まっていた。
「大丈夫かい、のぼせた?」
「少し。でも平気、ホッカホカだよ」
確かに芯まで茹で上がってそうではあるが。
「じゃあレストランに行こうか。夕食はバイキング形式らしい」
大浴場と同じくレストランもいくつかあり、この階のものは宿泊客専用らしい。
レストランに向かうと、何組かほかの客の姿があった。家族連れが数組、若い女性たちが一組。
「へえ、この中から好きなだけ選んでいいの?」
取り分け用の皿をトレイに載せつつ、マルフィスはテーブルの上のバラエティーに富んだメニューに目を輝かせる。
「そう、胃の容量の許す限りね」
麺類にカレーにチャーハン、寿司、何種類ものパンやパスタ――主食だけでこれだけあるんだから、取捨選択が重要だ。寿司はどこかで食べることにして、高級そうな本格チーズパンとフランスバターのクロワッサンに、ウニと白ワインのソースのパスタを少し。じっくり柔らかビーフシチュー、魚介と旬の野菜のマリネ、スモークチキン。どれも量に気をつけて少なめに取る。デザートは後で取るつもりだ。
「それ……食べきれるの?」
向かい合ってテーブルに座ったとき、マルフィスのトレイは、一度に色々なものを載せて大変なことになっていた。
「な、なんとか……うん、胃は丈夫な方のはず」
彼は希望的観測を言ってから、ローストビーフとサニーレタスのサラダを口に入れ、
「美味しい……!」
幸せそうにそれを噛みしめたのだった。
結局、わたしたちはバイキングを時間いっぱいまで夕食を楽しんだ。
カットフルーツに、一口ケーキ各種。クリームブリュレにプリンにコーヒーゼリー、フルーツグラタンや生ハムメロンといった変わり種まで、デザートはほぼ制覇したんじゃなかろうか。ゼリーや果物はともかく、ケーキやドーナッツは大量に食べるとけっこう重い。
それに、食べた物が贅肉となって身体に残らないかは気になるのだ。わたしはマルフィスがまどろんでいる間に、軽い運動をしてもう一度温泉で汗を流していた。
部屋に戻ったときには、すっかり同行者はベッドで寝息を立てている。その、この世の悪いことなど何ひとつ知らないかのような安らかな寝顔は見ていると心洗われるようだ。
一瞬、写真を撮ろうかと思ったが、理性というものがわたしにも残っている。本人に断りもなく撮るのはよそう。『寝顔撮っていい?』と本人にきけるものなのかはわからないが……。
運動をして疲れたこともあり、この夜、わたしは早めにベッドに入った。
翌日、二度寝してのんびり起きる。出発は昼だ、遅く起きていい。
しかし……この調子で昼食どころか、朝食も入るんだろうか、と思う。そう、まだ胃のあたりが重い。満腹に近い感覚がある。
わたしはベッドの中で浴衣から洋服に着替え、ホテル内を散歩しようとベッドを出る。すると、となりでもモゾモゾと動く気配。
「ん……ああ、藍、おはよう」
「おはよう、マルフィス」
目を擦りながら見上げてくるその目は、まだ半分眠っているようだった。
「ちょっと館内を散歩してくるよ。昨日の夕食がまだ胃に残っているみたいでね。あなたは?」
「僕、もう消化したみたい」
便利な身体だなあ。
散歩に誘うことも考えていたが、それが必要なのは普通の人間の身体を持つわたしだけだったようで、一人むなしくウォーキングの旅に出るのだった。
その旅から帰ったころには、すっかりマルフィスも着替えてテレビを見ていた。
「朝食、行こうか」
まさか朝食もバイキングということない。ただ、洋食と和食が選べるようになっていて、洋食はハムエッグにサンドイッチ三種とコーヒーにヨーグルト、和食はご飯とみそ汁に納豆、玉子焼きと漬物とヨーグルト。どちらも軽めなのがありがたい。
わたしは朝はコーヒーがあった方がいい派なので洋食を、マルフィスは納豆が気になったか和食を選んだ。
「いいホテルだね。ここ」
「もう少しのんびりしたいくらいだね。チェックアウトの時間もあるから、あまりのんびりはできないけど」
それに昼食の入る隙間を開けるために、出発前に少し動きたいところ。昨夜と今朝の運動のおかげで、だいぶ身体は軽くなったのだけれども。
朝食を終えると、チェックアウトまでしばらく部屋でのんびりする。
そして、のんびりしながらわたしはWITTでネットをチェックしていたのだけれど……。
『天使みたいな外界人を見つけた!』
――そんな書き込みとともに、見覚えのある笑顔の画像。これは間違いなく、ローストビーフとサニーレタスを噛みしめているマルフィスだ。
この書き込みに対する返信は、『外界人にも可愛い子がいるのね』『美味しい物を美味しいと思うのは変わらないんだな』『超イケメン。いや、男の子だよね?』とか好意的なものや冷静なものが多い。もちろん、『外界人のイメージ戦略だ』『この画像自体CGか何かじゃないの?』などといった悪意を感じるものもあるが。
――変な方向に広がらないといいな。
何も知らない様子でテレビ番組のスイーツ特集に夢中になっている彼を横目に、思わず溜め息を洩らす。
午前十時半前、わたしたちはホテルをチェックアウトした。天気は少し雲が多め。予報では、今日からしばらく、まとまった雨が降りそうなんだっけ。
「歩いて駅前まで行って、デパートで買い物して昼食。それで大体、いい時間なんじゃないかな」
出発が一二時半なので、少し早めの昼食になる。
「そうだね。普通の定食屋なんかも食べてみたいし」
確かに、名物ばかりだと普通のカフェメニューや家庭料理は食べる機会が減る。たまにはそういうものもいいものだ。
歩いている途中、少し遠目だけれどあの落下した看板の場所を見つける。取付工事は終わったようだ。黒神さんが早く見つかるといいのだけれども。
しばらく歩くとデパートに着く。買うのは列車の中で飲み食いする物がほとんど。買い物をしている間に、窓から見える外では雨が降り出し、早めの昼食を食べるころにはかなりのザーザー降りになっていた。
「いよいよ傘を使う機会が来たか」
ハンバーグ定食についてきたヤングコーンのソテーをフォークに刺しながら、マルフィスは少し嬉しそうだ。彼が本来肉体を持たないなら、天候にわずらわされる機会もあまりなかったはず。
「短い間だろうけれど」
わたしは天丼を味わう合間にことばを返す。このデパートは駅に近い。
そして予想通り、デパートを出たわたしたちは五分にも満たない間だけ傘をさすことになった。けっこう本格的に降ってきたので、それでも充分、助かったけれど。
駅に入ると駅員が『大雨のため一部徐行運転になります』と案内していた。早速、旅はこの天候の影響を受けそうだ。
出発自体は定刻になる。どうやら、土砂崩れの危険性がある場所を徐行するらしい。
「あまり、遅れないといいね。接続の列車は待ってくれるだろうけど、運休になったりしたらちょっと予定が狂うし」
「でも、一日くらいならそれも旅の醍醐味じゃないかな」
彼はわたしよりも大らかだ。
まあ、一日で済めばいいけれども。しかし自分の足じゃないのでいくら心配しても仕方がない。列車内の席に着くと、のんびりお菓子でも食べつつ、泰然とかまえることにする。
雨の中、列車は動き出す。いつもより少し曖昧に見える世界の中、旭川市の都会の風景は行き過ぎて列車は北へ向かうレールを走る。比布町に入るとしばらく並走していた石狩川ともお別れだ。
「だんだん暗くなってきたね」
いつもと違う景色をむしろ楽しんでいたマルフィスも、夜のように暗くなってきた窓の外の様子には、少し心配そうな表情を見せた。雨はもう、うるさいくらい列車にも叩きつけている。
――これは、しばらく止みそうにもないなあ。
暗さと雨のせいでどこを走っているのかもよくわからない中、『この先、土砂崩れの恐れがありますので徐行します』とアナウンスがあり、緩やかな土手のそばや山のふもとらしき場所をゆっくり抜けていく。
高速道路や国道四〇号線がたまに窓の外に映る。走る車はどれもライトをつけており、それを手掛かりに道路と知れた。
とある無人駅に停止したそのとき。
『大変申し訳ありません。この先、川の氾濫により橋の一部に不具合が発生した模様です。この列車はこの先運休となります。回送列車となりますので、引き返すのをご希望のかたはこのままお乗りください』
えー、とざわめきが起こる。たまにニュースやなんかで聞くような話だが、まさか自分が経験することになるとは。
「どうしよう、藍?」
さすがにマルフィスも困り顔。
「うーん、引き返すわけにもいかないし……」
周囲の様子をうかがうと、降りる乗客も多い。今席にいる乗客もどこかに電話をかけていたり、ネットで何かを調べている様子だ。この近所に友人や知人、親類がいる者は迎えに来てもらうのだろう。わたしたちにそんな相手はいないが。
バスという手もあるかもしれないが、正直、代替バスも出ない状況でアテにできるのか心配だ。川が氾濫しているなら道路に影響が出ている可能性が高い。
『発車まであと五分です』
その声に急かされるように、
「とりあえず降りよう」
わたしたちは列車を降りた。傘をさしてホームを駆け、無人の駅舎に入る。待合室の椅子も十ないくらいの小さな駅舎だ。割と最近新しくなったらしく、建物自体は綺麗だけれども。
駅舎の近くを道路が走っていた。迎えを呼んだ者はそこに相手が来るのを待つ。
わたしは駅舎の隅で立ったまま、WITTでバス停の場所や時刻表を調べてみるが、〈川の氾濫によりこの区間は運休になりました〉と表示されていた。
そのうちに、汽笛が雨音を引き裂く。もう戻れない。いや、戻っても仕方がないんだろうけれど、それでも場合によっては、戻って時間を浪費してでも待った方がマシだった、なんてことはあり得る。本当にここで降りた選択は正しかったのか……?
そんな疑問が浮かんでも、もう後の祭りだった。
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