騎士の誇り
幸いにもヘルハウンドはまだこちらに気付いていない。だがツクモ屋へ向かっているのは確実だ。
一騎打ちの前にそうしたように、シャロンは訓練する予定だった。なぜなら今もゼルテニアの街で多数暴れているヘルハウンドに、自分では勝ち目がないから。
しかしそのヘルハウンドが、攻撃圏内ではないとはいえ、すぐそこまで迫っているという事実。
当然、逃げるべきだ。
勝てないと分かっている相手に挑むのは勇敢ではない。無謀だ。
「どうすれば……!」
ツクモ屋を背にシャロンは歯噛みした。
頼りのタクミは既に見当たらない。理由は分からないが、タクミが街へと向かってからこの辺りに召喚されたのだろう。
西の僻地たるこの場所にはツクモ屋以外何もない。
タクミが拵えた伝説級の武具はヘルハウンドの攻撃にも耐えるかもしれない。だが木造の店舗兼住居は間違いなく破壊され、燃やされる。
嫌な汗が、額に滲む。
故国を失ったシャロンは帰る場所を失うつらさを知っている。
元より根無し草のように生きていたであろうタクミ達とは考え方が違うかもしれないが、それでも彼らはここに根を下ろした。ゼルテニアの騎士が護るべきこの地に。
ならば。
シャロンは細く長く息を吐き、大きく息を吸い込んだ。
「お前の相手は私ですっ!! かかってきなさいっ!!」
大声で叫び、右方――南に広がる草原へと駆け出した。
声が届いたらしく、ヘルハウンドもまた強靭な四肢でもって活きた獲物、シャロンへと向かい駆けていく。その速さは武具術で強化されたシャロンよりずっと速い。
シャロンは弱い。
勝算はない。
繰り返そう。勝てないと分かっている相手に挑むのは勇敢ではなく、無謀だ。
それぐらいシャロンだって分かっている。
「それでも、それでも私は……ッ!」
全力で駆けながらシャロンは思う。
勝てるから戦うのではない。
賢明なる逃走は、騎士の誇りを奪う毒だ。
タクミ達との付き合いは決して長くはない。シャロンのまだ短い半生においてもほんの僅かな時間でしかない。その程度の関係でしかない相手、それも護ろうとしているのは当人ではなく一軒の家だ。
それでもタクミ達には恩がある。
あるいは、縁もゆかりもない誰かのためであっても。
「……私は本当にバカですね」
シャロンは自嘲する。
敗北すれば、次の標的はほぼ間違いなくツクモ屋だろう。勝算などないのだから、結局は無駄死にという事になるのかもしれない。
それでもシャロンはゼルテニアの騎士だ。
翻す青いマントに込めた、その胸の裡に秘めた誇りだけなら、誰にも負けない。
忌まわしき咆哮が迫り、シャロンは踵を返した。
剣を構えたシャロンにヘルハウンドは速度を落とした。
赤く燃え盛る巨大な黒い犬。四脚に備えた鋭利な爪。同じく鋭い牙を剥くその口からは炎を吐くという。
剣を握る手が震えていると知りながら、それでもシャロンは叫ぶ。
「私はシャロン・フォーリード! ゼルテニアの騎士です!」
言葉を解しない獣に名乗りを上げても意味はない。
あくまで恐怖を覚える本能を抑える鼓舞の叫び。
――あるいは、騎士として死ぬための儀式。
「ガァアアアアアアアアアッ!!」
呼応するように吠え。
ヘルハウンドは中級魔法に匹敵する火炎を口から放射した。
視界を埋め尽くすほどの炎を、シャロンはバックステップで回避する。
動ける。まだ動ける。
まだ時間を稼げる。
そう思った直後、シャロンは絶望的な光景を目の当たりにした。
「――――ッ!?」
上下に鋭利な牙を備えた、一噛みで身体の半分は持っていかれそうな大きな口が、至近まで迫っていた。
どうして気付かなかったのか。
炎を纏う獣なのだから、自身が放った炎を喰らいながらでも突進は可能だ。
声も出せないシャロンの心臓が、一際大きくドクンと脈打ち。
そのまま止まってしまう気がした。
あまりにも呆気ない、呆気ない終わり。
稼げた時間などほんの僅か。
さすがにこれでは、悔いが残るほど。
「…………?」
違和感を覚えた。
まだ意識のある自分に、違和感を覚えた。
いつの間にか閉じてしまっていた目を開けば、不自然なほど大きく口を開いたままのヘルハウンドが、目の前で停止していた。
熱を感じない。よくよく見れば纏っていた炎も消えている。
「……何、が」
「勝てない相手に挑むのは無謀」
茫然としていたシャロンの後ろから声が聞こえた。
硬直した身体を無理に動かして振り向けば、そこにはロロがいた。杖頭に宵色の球体が浮かぶ、見覚えのない杖を手にしていた。
ギチギチ、グチャグチャと嫌な音を立て、吠える事すら許されずヘルハウンドが潰れていく。内側へと砕き潰れていく。
「シャロンは弱い。戦闘員ではない私より弱い。だけど」
太い首がへし折れ、召喚獣ヘルハウンドは断末魔も許されずに息絶え、かき消えた。
「私とタクミの愛の巣を守ろうとしてくれた事は評価する。それにシャロンが死んだら、タクミが悲しむ」
「ロロさん……っ!!」
安堵からか、シャロンは笑みを浮かべて涙した。それからへなへなと崩れ落ちた。
草原に腰を落としたシャロンを見下ろし、ロロは相変わらずの無表情でぽんぽんとシャロンの頭を叩いた。
「おつかれさま」
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