『Chase Of Shadow』

 サキュリスは虚空を飛んだ。

 しかしそれほどの高度は維持できない。ダメージが大きいからだ。たかだか変化の術を用い、魔眼を使い、気配を探り、銀狼を仕留めただけでこの始末。大熊の大地で受けた浄化改良の余波は、魔神にとっては、いや、魔神にとってこそ生ける者への魔素と同じ効果を現していたのだ。


「ええい、こざかしい鼠め」


 次元の狭間に術士ごと逃げる力も出せずに、彼女は背後に迫るジレインの気配を感じている。


「羽ばたきが実にみすぼらしい。その荷物、降ろしたらいかがでしょう」

「ほざけ!」


 振り払うような手刀から杭爪が三本、必殺の勢いを伴って撃ち放たれる。それは目にも止まらぬ速度だが手刀そのものの動きは明確、ジレインは走駆しつつ右に躱しながら頭髪の毛針を大淫魔の右ふくらはぎに撃ち込み返した。狙い過たず腕ほどの長さの細い毛針は半ばまで貫通、サキュリスは神経を劈く激痛に悲鳴を上げる。


「ぐぅッ!」


 たまらず高度が下がる。

 魔神の飛行は魔力による上昇。翼も羽ばたきも、地表との高低差を生み出すための媒体に過ぎない。弱っている大淫魔にとっては、山肌から離れることは下降を意味する。このようにダメージを受けても高度が維持できなくなる。


「もらった!」

「小癪!」


 小高い針葉樹を蹴り登り、ジレインは空中のサキュリスの左側に絡みつく。下顎に手をかけひねり上げると、三半規管を揺さぶられた大淫魔の飛びが途端に不安定になる。


「折れん!」

「鼠にッ――折れるものかよ!」


 一撃で決めようと組み討ちに持っていったが、衰えたとはいえサキュリスの身体能力そのものは健在。さしものジレインも脛骨を砕けず、魔女の肩に毛針を撃ち込み術士の体をもぎ取るのがせいぜいだった。


「返してもらいます」

「おのれッ」


 組み討ちはジレインの得意とするところ。

 術士の体を保持するや、サキュリスを蹴り上げて離脱を図る。

 が、しかし、揉み合いと組み討ちが産む上下も定かならぬ一瞬の反転で狙いを誤ったサキュリスの一撃により、一塊の三人は山肌を木々藪をなぎ倒しつつ滑り落ちていく。

 落下による、背骨が砕けるほどの痛打を、毛針のクッションで凌ぐ。術士の体は無事のようだが、手足は幹や岩肌で折れたかもしれない。

 魔女は――。


「お、おのれ」


 無事だった。

 落下と転がりゆくなか、それでもジレインと術士へと憤怒の形相で手を伸ばす。

 が、その魔女の手が爆発したかのように血を吹き出した。


「なに!?」

「――!」


 術士の目が、薄く開いている。落下のダメージにより意識を取り戻したのだろう。彼の右手が魔女に向けられており、指先から溢れた魔術がサキュリスの右腕にダメージを与えたのだ。


「ば……かな!」


 魔女は右腕の激痛と『何故』を考えてしまい、不覚をとる。

 大木の幹にその身を打ち付けてしまったのだ。彼女の体は止まり、しかしジレインと術士の体は止まらなかった。


「だめッ!」


 ジレインがその身にひときは冷えた空気を感じたとき、眼下には深い谷底が口を開いていたのだ。

 虚空に身を投げ出される。

 ジレインは術士に手を伸ばす。

 かろうじてその手を掴めたとき、ふたりの体は夜闇の谷へともろとも転がり落ちていったのであった。




***




「ああ、死ぬかと思った」


 キャロラインは心臓から魔女の爪を引き抜きながら、ぐいと口元の血を拭い、上半身を起こす。


「姫。現在ジレインが術士どのを取り戻すべく追っております」

「ここは陸将に託すしかないか。……まだ動けん、フェイニ、お前の血を借りたい」

「では」


 フェイニは自分の人差し指の腹を羽根の刃で切り裂くと、あふれ出る血液を銀狼の唇に。熱い血潮を、キャロラインはちゅうちゅうと吸い、ゆっくりと嚥下する。


「鳳凰の血液、確かに頂戴した」

「どういたしまして。我が家系に伝わる秘奥です故」


 だからこその、ブラベアと性質が似ている炎の力、鳳凰、火の鳥、その末裔たる翼人の巫女。それがフェイニという四天王の力の一端だった。


「月が満ちていなくとも、このくらいはなんともなかろうと思い隙を作ったが、思いのほか効いたな。満月ならば首を落とされても生き返る自信があるが、これはなかなか――ん。効いてきた効いてきた」


 己が治癒力と合わせ、心臓と肺がみるみる再生してゆく。

 魔力の消費なく傷を再生させ、なおかつ活力が漲ってくる。


「首を落とされたらわかりませんが姫ならまあ確かにあり得る話かと」

「ヤバい薬だなもうこれは」

「人の体液をそんな風にいわないでください。まあティエンとは相性もいいでしょうね。戦争ではそれを試す機会はなかったですが、彼女の呪法と私の血液を合わせれば、息があればまだ助けられます。――銀狼族の巫女なら、例え死んでいても、もしかしたら生き返るかもしれないですね」


 図太いですし。

 と、安堵からふらりと体が倒れかける。


「しっかりしろ、フェイニ。……ん、おまえ?」

「血の中の臭いは隠せませんか」


 彼女の様子を伺い、キャロラインはひとつ唸る。


「動けそうか?」

「空将フェイニですよ、私は。ともあれ、ジレインの報せ待ちですね」

「生きておればよいが」

「四天王です、よもや負けますまい。術士どのも大丈夫でしょう」

「そうではない。あの魔神のことだ」

「は?」

「生きていれば殺せるからな。とっておいてほしいものだ」


 ビクっとフェイニは引いた。

 本気だった。

 怒っていた。

 激怒していた。

 体毛は逆立ち、己が血液が垂れた白い肌、特に手足を銀の体毛が覆い始め、腕には爪が、瞳が金に燃え上がる。

 やばかった。

 フェイニは祈った。

 どうか生きてますように。私たちのために、と。




***



 これは助かるまい。ジレインは覚悟した。

 いかな四天王といえども、加護なき陸将の身としては、この滑落には耐え切れまい。だがしかし、この術士だけはなんとしても守らねばならない。替えの利く自分如きよりも、この世に必要な者だと感じていたからだ。

 腕を引き寄せたまではよかった。

 だがしかし、足場のない奈落に身を躍らせている本能的恐怖が自衛反応を引き起こしてしまった。


「だめ!」


 生理現象は止められない。

 ジレインはその背や手足、体表を棘で覆い、攻撃的に逆立てて身をかがめるよう円くなってしまったのだ。

 しまったと思ったときには、もう遅かった。意識的に解除するには数秒かかる。その数秒で加速したこの身は術士共々谷底の岩場に叩きつけられるだろう。

 死の恐怖は、余計に毛を逆立てる。

 この毛針がクッションになろうとも、命があるか分からない。

 ましてや器用人の術士をや。


「――!」


 そこで、グイと腕を引かれた。

 疑問に思う前に、そんなジレインの毛針で覆われた体を術士は思いきりかき抱いた。


「歯を食いしばれ!」


 そんな声をジレインは聞いた気がした。

 強ばらせた体に、顔に、術士の腕が回される。

 ジレイン自衛の毛針をその身に食い込ませてもなお、術士は強くかき抱き、折れた右足首を崖壁の岩場に叩きつけ、術を放つ。

 へし折れた脚骨が砕けながらも、岩を変質させる。粘度の高い樹液のようなものが岩場と脚を繋ぎ、グンと落下速度に制動がかかる。

 が、すぐにぶちりと切れてしまう。

 再び自由落下の中、加速が増す間際に、ジレインの背中が術士の腕を挟む形で突き出た岩場に当たり掠める。

 打ち付けられた衝撃で毛針が腕を貫通し、骨が砕ける。が、同時にかけた術は粘液を生成し、制動をかけ、落下速度を減じていく。


「――ッ」


 あとは、当たるに任せて、意識が続く限り繰り返した。

 恐らく、もう三度やったあたりで術士の背が谷底に強かに打ち付けられた。減じられたとはいえ勢いと重さで、ジレインのひときわ太い頭髪からの毛針が三本、肺を貫き、心臓を掠め、胃と共に脊髄を砕き貫いた。


「――術士どの!?」


 それでも術士の腕は強く彼女を抱きしめていた。

 この落下の中、彼女の身を守るために自分にできるあらゆる事を為したのだろう。


「た、たいへん。お離しください、すぐに手当を!」

「――……」


 しかし、術士はすぐには離さず、ゆっくり柔らかさを取り戻し始めた髪の毛をぽんぽんと優しく撫でながらごぽりと血を吐き出す。

 意識の光は消えてはいない。

 ジレインはそんな術士が、残りの力を使い自分の肉体の修復に取り掛かっていることを知った。


「術士どの……いまフェイニを呼びます。ご安心ください、キャロラインさんも無事でしょう」

「キャ……」


 術士の口が微かに開く。「キャロライン」と、そう動く唇に、彼女はひとつ頷いた。それでジレインが唇を読めると判断した術士は、ゆっくりと唇を分かりやすく動かし始める。


『治療はひとまず大丈夫。急所は修復しました』

「ですが――なぜ私を助けたのです。こんな、死ぬかもしれないのに。私の毛針をその身に刺し穿ちながらなぜ……抱きしめたりしたんです! 死んでましたよ!? なぜ」


 その疑問に、『理由は色々ありますが』と前置きし、術士は虚空を、落ちてきた谷から月を望む。


『体が動いてしまいまして』

「理由になってません……」

『あとは』


 術士はひとつ頷く。


『戦えるのが、あなたしかいなかったから』

「え?」


 そこで、ジレインは背後に気配を感じた。

 なるほど、と、毛針を分離して、優しく立ち上がる。術士のぬくもりが離れるにつれ、その意識は四天王陸将ジレインのものへと切り替わる。


「その術、我が物としようと思うたが、殺す。ここで始末する。貴様、どこで私の、魔神たるこの身の血液を解析した!」


 憤怒に燃えるサキュリスだった。

 術士は応えられない。気力が尽きかけているのだ。


「魔神軍が四天王の一角、大淫魔サキュリスどのとお見受けいたします。あんなご時世でしたが、お会いするのは初めてですね」


 ジレインがゆっくりと振り返る。

 その姿にサキュリスは無意識に一歩後じさってしまう。

 下着姿、豪猪の体毛は獣人の本性の目覚めか。霊峰の空気の中でなお火照るその身を己で抱きしめながら、ジレインは静かに問う。


「あなた、その首。術士どのに噛みつかれましたね?」

「!?」


 大淫魔は血が滲む程度の、あのときの彼の反撃を思い出した。ほんの一滴にも満たない滲み。そして、汗。体表のありとあらゆるもの。

 それを、術士は口にしたのだ。

 体内に取り込み、あの短時間で解析し、彼女の右腕の血液を爆発損壊たらしめたのだ。そう気がついてサキュリスは恐怖に体を震わせ、すぐに憤怒で覆い尽くし、一歩、二歩と踏み込む。


「術をものにしようとはもはや思わぬ。その精気をいただき力に変えようとも思わぬ。そいつは殺す。まだ生きてるな? ああ、直々に殺してやる」

「できますか? 力を失いつつある魔神が。このジレインを退けることが」


 魔女の右腕は破裂したままだ。

 魔力も少ないだろう。

 ここから登り拠点に戻るには、あの銀狼のいる基地のそばを通らねばならない。時間は貴重だったが、それでもなお、己を分解しうる術士を生かしておくのは危険すぎた。

 心の天秤は、戦いに傾いた。


「ふふ……」


 そんな魔女の葛藤の中、ジレインは恍惚の表情でぞくぞくと毛針を逆立て始める。


「危ないなあ、と思ったり。興奮したりすると、全身が毛針で覆われてしまうんです。好きな人ができても、愛する人ができても、抱き合うことがいままで一度も適いませんでした。ふふ。ふふふ。でも」


 ジレインは背後の男のぬくもりを思い出す。


「抱きしめられちゃいました。私と一緒に串刺しになってくれるヒトが現われたんです。あなたに渡すなんてできませんわ。ふふ。ふふふ」


 いいようのない迫力に、サキュリスの憤怒が揺らぎ始める。


「この嗜虐ネズミめ」

「この方が死ぬとき、私も一緒に串刺しになって死ぬと決めました。ええ、ナイショですよ? 誰にも言わないでくださいね? でも信じられないからいまここで――殺します」


 毛針の先がぬらりと光る。

 毒だ。


「お覚悟」


 地を蹴り、陸将は風のように間合いを詰める。

 銀光が二度閃く。

 渓谷の戦いが始まったのだ。

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