『汚れなき時』
その声を聞くまでは、何も感じない闇の中にいた。
キャロラインの声が轟音の中、千分の一に減衰され鼓膜を震わせた瞬間、五感が熱を帯びた。彼女の悲痛な「おとうちゃん」という言葉の響きは、たとえ万分に減衰されたとしても、届いた瞬間に魂に響いたことだろう。
すわ、「
「キャロ!」
「お、お義父さま……!」
「何故こんな前まで来たんだ! 下がるぞ!」
邪魔するような巨獣の腕が振られる寸前、術士は娘の体をひょいと抱え上げると後方斜め右に、悠々と跳躍、岩場に着地する。
「お、お義父さま!?」
「器用人といえども、肉体の力を解放すればこのくらいはできる。――ただし、ちょいと無理をした成果、ティエンさんには迷惑をかけたけどね」
術士は念話交感で、力を利用させてもらった水将へ「<状況ゆえに、失礼しました。現状はどのように?>」と短く告げる。
自分自身の魔力を契約越しに吸い取られながらも、ティエンはしっかりと現状を伝えた。そう、錬金術士は溢れんばかりの四天王が一角、水将ティエンの魔力を使い、自分自身のポテンシャルを一気に引き上げたのだ。
「通常、人の限界は緊急時に4倍ほど跳ね上がる。錬金術士の計算によると、肉体の限界自体はそのさらに4倍――」
ぶちぶちと耳に届くのは、筋肉が断裂し、みちみちと感じるのは、その筋繊維が修復している音だろう。
「だがしかしそれは、精神と肉体が協調したときの16分の1にすぎないというのが、この僕の研究だ」
「それを、四天王の力を利用し引き上げたと?」
「そゆこと」
それでもなお、ぶっつけ本番。愛娘のためにそのリミッターを無理矢理に突破したせいか、バランスそのものが崩れ、胃の腑が裂けたのか盛大に吐血する。
魔素の浄化はティエンが、肉体の再構成は術士が行っているが、間に合いそうもなかった。
「治療は私が」
銀狼の治癒力は、その肉体の強靱さが示す通り、相当な力だ。四天王もこの力なくしては、最後の戦いをくぐり抜けることはできなかっただろう。
「こいつはありがたい」
「もう、お義父さん。心配させないでください。お義父さんに何かあったら、私はこれからどう生きていけばいいんですか。いまもなお敵を抑えているふたりの力がなかったら、死んでいたのかもしれないんですよ」
「キャロだって、前に出て。あんな危ない真似して何かあったら、お父さん、どうしたらいいかわからなくなっちゃうよ」
軽く怒られ、彼女は耳を垂らすが、その耳先をくすぐるように撫でるように彼は振り返る。
「『おとうちゃん』か。懐かしい呼び方だった。あれが聞こえたから、落盤に潰されずに済んだよ」
「あ、あれは……その……」
ぽんぽんと彼女の頭を撫で叩き安心させる。術士は立ち上がり、口元の血液を拭うと残りを飲み下し、「さて」と地鳴り続く聖域の揺れそのものを感受し始める。
「<地殻まで、魔毒の根が届いた様子です>」
そのとき、ブラベアを補佐するティエンからの、比較的静かだが揺れる念話が届く。熱を帯びたそれは、瘴気に毒された周囲の洗浄と、ブラベアの解毒、おのれの浄化、それに術士の管理に伴い今もなお存分にすわれ続ける魔力の疲弊の表れだろうか。
「このままでは大熊の地が、一気に魔に占拠されることになる」
術士は「<ひとつ考えがあります>」と水将に提案する。
「<ブラベアさんといっしょにその巨獣を砕き、地の底へたたき落としてください。水龍水脈に乗せ、地脈を絡め、この大地の奥の奥まで存分に魔毒を浸透させてください>」
……なんと。ティエンは息をのむ。
そうなれば、この地はおろか、魔神門までもが開く事態に陥るのでは。
「<もとより術士どの、この悪鬼は地の底へと砕き落とします。しかし、そこまで混ぜる必要が……?>」
「<大気中で爆散するよりも、地中に浸透する方が都合がいい>」
この間、瞬きひとつほどの時間での遣り取りだった。
念話に虚飾は通じない。
術士の自信は具体的なプランをしまさぬままだが、そのままストンとティエンの胸に落ちた。
「<ただ、ティエンさん。あなたの魔力、遠慮なく貸してもらいます>」
「<わかりました。ご存分に>」
水将はブラベアと視線を交わし合う。
「地に落とす。砕いて混ぜて飲み込み、私が大地に循環させます」
「術士どのの提案か。よーし、お姉さん頑張っちゃうぞ!」
開き直りのようにも取れる大熊の咆吼が、巨獣の腕を砕き折る。
術士どのの提案。
その言葉に満ちた微かな微かな期待。
「破振掌、いけるよ!」
「では、行きますか――」
二将は攻め手を仕掛ける。
最後の攻防との覚悟を決めながら。
***
「ふふふ、よい。よいぞ。――ガディス」
「はは」
部下は見えぬところに。
サキュリスの前に跪くのはガディスのみだ。
場所は風穴の前。間欠泉すら吹き出せぬほど地中が砕けねじれ始めた曇天の下。意識を取り戻したガディスのもとに、サキュリスが自ら顔を出したのだ。
当然。
この魔素瘴気渦巻き大地鳴動する有様を前に、次元の狭間で構えていることなどのこ悪鬼にできようはずがなかった。
「瘴気獣五体分の、しかも合体自乗された魔毒! よもやこのような結果になろうとはな。ふふ、これは褒美をやらねばならんな」
「有難き幸せ!」
平伏する。
しかし、安堵はしない。
この悪鬼、魔神は利用できる者を自由にはさせない。ガディスは利用されつつ、力を得るまでは我慢を強いられるしかないのだ。
そこに、ズン、ズズンと、二度の轟音。
「四天王、ブラベアとティエンの技か」
サキュリスはそう分析した。地の鳴動、脈のうねり。
魔毒の獣はいままさに飲み込まれている最中だろう。
「ひと月もすれば、魔神門がひとりでに開くまで汚染されるだろう。ふふふ、そうなれば、戦が始まる。望まぬ者も、戦わねばならなくなる。ふふ、命は減衰し、ほどよく我らが生が産まれやすくなる。望む世よな」
「はは」
ふたりはしばし、大地に道行く魔の気配を期待を込めて見守っている。
が、少ししたときだ。
ビシリ。
短く高い音が、いちどだけ聞こえた気がした。
「あああああッ!」
「ああ、あああッ」
魔神と魔人の口から、悲鳴が上がる。
瞬間、大地がごうごうと唸りを上げ、一瞬の後にガバリとめくれ上がったのであった。
***
「んぁひぃぃいいいい……!!」
大地に飲み込まれた獣の
「んぁあっ――くふぅ~……!」
しかし、
肩幅に足を開いた術士が大地の魔毒、その亀裂の前に立ち、物質構成の魔力を練りに練り上げている。普段なら命を失うほどの魔力消費だが、供給元が背後で元気にアッハンウッフンしてるので問題がないのだ。
「ああああ、やめないでくださいいいい、もっと……もっと……」
「姫、ティエンは何を?」
「よく分からんが、自分の財産を男に吸い上げられてなお『私がいないとダメなんだから』っていってるタイプのオンナのような、初めて総てを捧げるべき男を見つけた忠臣のような顔をしている。気に食わんが、おしおきはあとだ。ブラベア、今のうちに退路を確保して置いてくれ。お前なら崩落した岩盤は砕けるしとかせるしどかせるだろう」
「承知の助!」
と、そんな遣り取りのなか、ティエンは胸をぎゅっとしながら横になってごろんごろんと悶えつつ、内股でヒィヒィいっている。
術士はある程度練り上げると、その手に例の白杭を構成し、ただの一本を、亀裂の中へと投げ入れた。
たった、それだけだった。
「解放」と術士が呟くや、ピシリ――と硬い音が響く。
「あぎぃいいいい…………!」
ティエンが感極まって果てると、「これは大変な負担を強いてしまったな」と術士は苦笑し、他のふたりを招き寄せる。
「こっちに来てください。キャロも」
「あ、はい」
作業中のブラベアは術士に駆け寄り、キャロラインはいっかいティエンのお尻を踏んづけてから亀裂の元に駆け寄る。
「……見事」
そう呟いたのは、ブラベアだった。
キャロラインも、義父の腕にぎゅっとしつつのぞき込み、同じ感想を漏らした。
「本来、五十数万本の白杭は長い年月で染みこんだ土地の点在箇所に作用するよう撒き埋める計画でした。が、一番重要な地脈龍穴を瘴気獣なる魔毒そのものが冒し、この地に遍く広がったことで、点在していた悪所がそれを通じてひとつに繋がったんです」
ここまでが、いまブラベアとティエンがしたことだ。
「なので、ひとつに纏まったら、やることは単純です。杭を打ち込む。それだけです。このように――」
亀裂の底を指し示す。
巨大な、甚大な質量の赤紫の結晶がキラキラと輝いている。白杭により結晶化された魔素に他ならない。今もなお、連鎖するように構成を反転させられ、各地にピシリピシリと広がっていることだろう。
「戦いには相性がある。瘴気獣にも杭は効くでしょう。魔核に打ち込めば、恐らくただの一撃かと」
「なんという」
それはそれとして、と術士は背後のティエンを伺う。紅潮した顔でハァハァいいながらだが、まだ起き上がれないでいる。
大丈夫かなと術士は心配したが、「あのくらい平気です」とキャロがいい、ブラベアも「まだ元気っすよ」と追従する。
「では、まあ。……問題はこれでも全体浄化には一歩届かないので、ダメ押しをしようかと」
「ダメ押しですか? 術士どの」
「数十万本の白杭は、材料を加工し大量生産できる故国に任せようと思いましたが、ほら、眼下にこんなにいっぱい素材があります。これを使いましょう」
つまり、この結晶を分解再構成し、白杭の大本として大地そのものに楔を打つのだと、彼はいっているのだ。
「まあ、汚染がひどすぎる場所はちょっと大地がひっくり返るところもありますが。荒療治になりますが、どうします?」
言葉はやや無責任だが、真摯な瞳がブラベアに向けられる。
迎える炎将は、ひとつ頷くだけだ。
「元に戻すのではなく、生まれ変われるのなら」
「承知いたしました」
術士はもう一度足を開き、術を練り上げ始める。ティエンが陸地で跳ね上がる魚のようにビクンビクンと熱い嬌声を上げ始めるが、そこは我慢してもらおう。
彼女がもう一度、しかし今度は白目を剥いて幸せそうによだれを垂らして失神すると、術式は完成した。
「しからば。――んッ」
技に詠唱は必要なく、先に穿たれた白杭から紫電が迸り、無毒の結晶がバシンバシンと形と質量を変えて真白に変じていく。白杭と同じような物質なのだろう。
規模は大きいが、いちどこなせば化学反応と同じ。立て続けだ。
「あとは大気の毒くらいでしょう。これも、地が落ち着けば自ずと綺麗になるでしょう。これからの研究次第ですが」
「術士どの」
びしりと、いちど大きく揺れる。
「おっと、地下の質量に偏りが出たからでしょう。ここも危ない。脱出しましょう」
「ティエンは私が。キャロラインさ――んは、術士どのを」
「承知!」
決まるや、速い。
彼女たちは隙間の空いた風穴を抜けるや、すぐさま参道へと躍り出た。
「……ここは、大丈夫」
ブラベアは、己が肉体に感じる地脈の悲鳴、転じ、産声を聞きながらそっと岩場に腰を下ろす。ティエンは抱えたままだ。
その声に疲弊の極みを感じたのか、術士もまた腰を下ろし、キャロラインも隣に腰を下ろしてフンフンと鼻を鳴らしている。
「壮観だなあ」
誰の呟きだろう。少なくとも術士は目の前で起きる壮絶な展開にぽかんとしている。自分がしでかしたことだが、ここまでのものになるとは思わなかったのだ。
つまり。
大地がめくれた。
汚染された土壌の核が結晶化し、持ち上げられた健康な土壌が浮き上がり、血栓のように塞がれていた水脈が活性化し、都合小一時間の激しい大地の鳴動により、大熊の大地は地図の書き換えが余儀なくされるほどの様変わりを果たしていた。
「壮絶、だなあ」
「帰り道、どうしましょうか」
そうだなあと、術士は一息ついて空を見上げる。
「温泉に入りながら考えましょう。疲れを癒やし、まずは鋭気を」
「ですね」
ブラベアは首肯し、キャロラインは「よっしゃ出番だ!」とばかりに追従するのでありました。
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