忘却の沼

nobuotto

第1話

 伯爵の前に現れたのはジャックと名乗る初老の男だった。

 聞き飽きた話しをまた聞かされるのかと思った伯爵だったが、この見すぼらしいなりをした男の話しは違った。

 ジャックは「沼地の砦」とは言わなかった。

 この国には、「忘却の沼」伝説があった。

 「忘却の沼」に入れば記憶が失くなる。失くしてしまいたい記憶だけを綺麗に消し去ってくれるという伝説であった。

 自分を「忘却の沼」に連れて行けば多額の礼金を出すと、伯爵は国中に告げた。

 それからというもの、伯爵のもとに国のあちらこちらから「伝説の真実を知っている」という者が現れた。

 そして誰もが「沼地の砦」にその沼があると言った。

 しかし、いざ沼に行くとなると、その場で逃げる者、旅の途中で姿をくらます者など賞金目当ての詐欺師ばかりだった。そうした輩のおかげで、今では「沼地の砦」の隅々まで伯爵は知っていた。

「忘却の沼」は、やはり伝説でしかないと諦めていた時にジャックが現れたのだった。

「なるほど、それでお前は沼の場所を覚えていられたのか」

「運、運がよかっただけでして」

 「忘却の沼」に入れば消したい記憶は亡くなるが、そのあとしばらくは魂を抜かれた亡者のようになると言われている。その間に沼の場所も、沼に入ったことも忘れてしまうのだ。だから、存在はしているが誰もその場所がわからない。

 ジャックは「忘却の沼」の横に「回顧の沼」があるという。

 「忘却の沼」で忘れた者もこの沼に入ると全てを思い出すのだと言う。「忘却の沼」から出て亡者のようにうつろになったジャックは、たまたま横にあった「回顧の沼」に落ちた。それで全てのことを思い出すことができるのだと言うのだった。

 伯爵はジャックの話しを信じ、召使いと三人で旅立った。

 幾度も来た「沼地の砦」を過ぎ、深い森の中を数日かけて通り抜け、国外れの海に逼った岸壁に辿りついた。

 そこから見下ろすと、崖下の海岸に二つの小さな窪みが見えた。

「あれが沼だと云うのか」

「こいつらは潮が引いたときだけ出てきます。沼と言って良いのか私なんぞには分かりません。ただ、あそこに入ると必ず忘れることができるってことです」

 三人は険しい壁を海岸まで降りた。

「どちらが忘却の沼だ」

 ジャックは左を指した。

 深い青色の水に満たされた沼を見ている伯爵にジャックは尋ねた。

「伯爵様は、昔の過ちでも忘れようとこの沼へ。いや、失礼なこと聞きまして、ほんに済みません」 

 ジャックのいう通り、確かに昔の過ちはあった。

 伯爵が治める小国と違い、隣国は明るく華やかな大国であった。代々隣国の大学に留学するのが、伯爵家の習いとなっていた。

 伯爵も親の命令で隣国の大学に通うことになった。そして、若さゆえか、自分の国では味わうことができない大都市の華やかな闇に飲まれ、荒れた毎日を送るようになった。

 伯爵は都で出会った娘と恋に落ちた。田舎からでてきたという純朴な娘だった。伯爵が間違った道に進んでいることを、娘は心から説いた。娘のおかげで目が覚めた伯爵は、学問に励み大学を卒業することができたのだった。

 娘とともに生きていこうと決心した伯爵は二人で故郷に帰った。しかし,二人の結婚は許されなかった。父は由緒ある家柄の女性と結婚させようとした。

 家を捨ててでも娘と結婚する気であった伯爵だったが、親の勧める女性に会って心変わりした。田舎出の娘とはやはり格が違った。

 伯爵の気持ちを悟った娘は伯爵の元を去った。都での自堕落な生活を救ってくれた娘を裏切ったことの後悔はある。しかし、消したい記憶はそのことではなかった。

 美しい妻をもらい伯爵は人間が変わったように働いた。父の時代以上に国は富み栄えた。全ての幸せが自分と家族にあると思った矢先に最愛の妻と娘が相次いで死んでしまった。

 若い時は自分を変える元気があった。しかし、昔と違い今ではこの哀しみを乗り越える元気はなかった。「忘却の沼」で忘れてしまいたかった。

「確かに忘れたい昔もある。だがな、私が忘れたいのは、そんな些細なことではない」

 伯爵に怒られたと思ったジャックは身体を小さくして壁際に逃げた。

 伯爵は、ジャックの指さした「忘却の沼」に入った。

 沼は心地よい暖かさであった。

 これで本当に妻と娘の死を忘れることができるのだろうかと思ったときに、記憶が蘇ってきた。

 それは、妻と結婚するために、娘をこの崖まで連れてきた時の記憶だ。

 どうしても別れようとしない娘を、伯爵は怒りに任せ崖下に突き落とそうとした。

 その時、一人の男が現れた。娘の兄だとその男は名乗っていた。三人でもみ合っているうちに三人とも崖から落ちた。

 伯爵は沼に落ちて助かったのだった。その記憶が甦った。

「お前は」

「そうだ。思い出してくれたかい」

 召使いが答えた。

「するとこの沼は」

「回顧の沼だ。崖から妹と落ちたあの日から復讐だけを考えて生きてきたよ」

「お前が私の妻と娘を」

「そうさ。ここでのことを忘却の沼で忘れたお前の召使いになり、お前の妻と娘を殺してやったさ。いつだってお前を殺すことはできた。だが、あの日のことを忘れたお前をそのまま殺したって、妹は報われない。それでこの男を使ってここに来たのだ」

 召使いは伯爵めがけて大きな石を投げつけた。

 伯爵はうめき声をあげながら「回顧の沼」に沈んでいった。

 召使いは壁際で怯えていたジャックを「忘却の沼」に投げ入れた。

 召使いは復讐を果たした。

 しかし、まるで何かに引き止められているかのように、そこに長く佇んでいた。

 召使いは大きく唸るように海に叫んだ。

「妹が死んだことが些細なことだと。なんて呪わしい。ああ、この言葉を背負って俺に生きて行けと言うのか」

 そして「忘却の沼」に入って行くのであった。 

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