モラトリアムが終わる

直人

きっと君は忘れるよ 僕との恋の物語を   きっと君は好きになるよ 新しい誰かを

「出ていけ」

 それは突然の宣告だった。

「は?」

 ここは安アパートの二階ドア前。彼は段ボール一つにまとめられた遙の荷物と布団の入った布袋を無理やり押し付けると安いぼろアパートのドアを閉めた。驚きすぎて何も言葉が出てこない。それくらいに急なことだった。遙と彼は昨日まで別れ直前のような冷え切ったカップルではなかったはずだ。おいしい?と聞いて。おいしいと返して食事をした仲だった。インターホンを押して、開けてよと叫ぶことは出来た。しかし、私のプライドがそんな惨めな捨てられた女のようなことを許さなかった。仕方なく、大荷物を持って階段を降りた。さてどうしようかと思いながら降りたところに、道路から遙を見ている人物がいた。遙より少し年上かと思われる顔の整った青年。髪が長いせいで一瞬女にも見えた。捨てられた女だと面白がっているのだろうか。こんなドラマみたいなシーンはめったに見られないだろう。

「何?見世物じゃないわよ」

 いらついていたこともあって言葉が口から出ていた。

「……良かったら、俺の家に来る?」

 捨てる神あれば拾う神あるとはまさにこのことだろうか。彼にどんな思惑があろうと構わない。顔もまあ好みだったし、滞在費の代わりに抱かれたとしてもいいかなくらいに考えていた。

「……行く」

 帰るところのない遙にとって彼はまさに救世主だった。全ての荷物も持って惨めなその場所から歩き出した。


 辿り着いたところは2LDKの真新しいおしゃれなマンションだった。この広さで一人暮らしとは。

「……か、金持ち」

「いや、恋人と住む予定で新しいとこ買ったんだけど、まだ引っ越してきてないだけ」

「それますますまずくないですか? 恋人と住むところに女連れ込むなんて」

「あ、大丈夫。俺ゲイだから。女に興味ないから」

「そうなんですか。なら良かったです。早速ですが、しばらくお世話になりたいんですけど良いですかね? もちろん家賃は払いますから」

 家賃代わりに体要求されるかなと思ったけど大丈夫らしい。ではお金で手を打ってもらおう。

「え? 君すっごいあっさりしてるけどいいの? 俺世間的には差別されてるホモだよ」

「それが何か問題になりますかね? 私は拾っていただいた身。感謝しかありませんよ」

 彼に世間とは違う部分があるように、私にも世間では受け入れられない秘密があった。だから決して家には帰れない。

「それに私も同じようなものですよ」

「え?」

「フェアじゃないから言ってしまいますが、私兄が好きなんです」

「家を追い出した男?」

「いえ、彼は私の恋人でしたよ。二十歳で学生で親の大反対を押し切って駆け落ちしたんです。でも彼にばれてしまったんですね、多分。兄と似ていたから付き合ったって」

「一応聞くけど義理の兄じゃないよね?」

「正真正銘血のつながった兄です。これで秘密の共有はできましたね。フェアです」

 この家に置いてもらうからにはフェアでなくては。ある程度の理由がなければ家に帰されてしまうかもしれない。

「兄と兄のくそ女がいる家にどうしても帰りたくないんです。だから家に置いてください。お願いします」

 頭を下げてお願いした。

「だいたい事情は把握した。いいよ、気が済むまで家にいればいいよ。恋人の許可は今からとるけど」

 遙も自分のことをかなりいい性格していると思っていたが、この人もなかなかな人物だと思った。


「真咲!」

 マンションの家主、真咲がメールしてから数分すると金髪でいかにも今風の男の子といった格好をした彼の恋人が泣きそうになりながら来た。

「何? わざわざ来ることなかったのに」

「来るよ! 来ますよ! 俺の部屋に女の子住まわせることになったからってどうゆうこと? 全然分からなかったよ!」

 それだけしか説明しなかったのか、この男は。

「初めまして。遙です。恋人に捨てられて居場所がなくなったところを拾っていただきました。しばらくの間お世話になります」

「初めましてー! 俺は真咲の彼氏の翔です。じゃなくて! なんかもう決定事項みたいになってるけど!」

「だって、もういいよって言っちゃったし」

 真咲はテンションが低いのに比べて、翔はテンションが高い。笑ったり泣いたり感情の移り変わりが激しい人だ。

「分かったよ分かりました。うん。真咲はそういう奴だ」

 これはもしや別れの危機か。普通に考えていくらゲイとはいえ自分の恋人が他の人と同居なんて嫌に決まってる。

「そんな真咲だから好きなんだ。だから許すしかないよね。ここで女の子を見捨てるような男じゃないよ、真咲は」

 変わり者の恋人はやっぱり変わり者らしい。頼んだ側である遙が思ってもいいことではないが。

「あ、ありがとう」

 無表情だった真咲が初めて少し照れたようにして、感情の動くところを見せた。

「ありがとうございます」

 幸せそうなカップルだな、いいなあなんて羨ましく見てしまった。遙自身の恋と比べて。いや、これが恋と呼べるものかは分からないが。


 翔が使う予定だった何もない部屋を貸してもらえることになった。少ない荷物ではあったが、一通りの荷物を出し終えてリビングに戻った。

「あ、遙ちゃん。終わった? ご飯食べよー」

 翔がキッチンから料理を盛り付けながら言った。真咲はせっせと皿や箸を机に並べている。そこには息ぴったりの二人の生活があった。

「はい。ありがとうございます」

 まさかこんな厚待遇をされるとは思っていなかったため面食らってしまう。部屋を貸してくれるだけかと。

「その敬語もやめない? なんか慣れないんだよねーお仕事柄結構軽い喋りしてるからかもだけど」

「ホストとかですか?」

 遙の呟きに真咲が噴出した。

「ホスト……お前が……」

 何がおかしいんだよと言ってから、

「残念。美容師だよ」

 と、教えてくれた。

 翔が作ってくれた晩御飯はとても美味しかった。チキン南蛮だと思うのだが、まるでカフェで出てくるようなお洒落な盛り付けがされていた。赤、黄色、緑と色とりどりの野菜のサラダ。色にも気を使っているのだろうか。

「おいしい」

「美容師やめてカフェ開いたらって言うんだけどね」

「いや、俺美容師やめないよ?」

 本当に仲が良さそうな雰囲気が二人からは漂っていた。こんな関係が築けたなら。

「二人はいつから付き合ってるの?」

「うーん……正式には一年くらい?」

「正式には? ですか?」

 ふと真咲が下を向いた。そしてしまったという顔をした翔。

「まあいろいろあってね。遙ちゃんは大学生だっけ?」

 明らかに話を変えられた。触れてはいけない部分だったのだ。私も気づかぬふりをして話を続けた。

「うん。大学二年だけど、かなりバイトもいれてるから家賃は払えるよ」

「あー、それはいいよー」

「ここは譲れないよ。払うから」

「遙も真咲に劣らずなかなか強情そう……」

 その後は楽しい夕食の時間が続いた。


 翔は泊まると言って聞かなかったが、明日も仕事が早いんだからと半ば強引に真咲に帰された。

「翔ってとても素敵な人だね。真咲が好きになるの分かるな」

「だろ。あいつくらいだろ。急に女の子住まわせるからって言って了承する奴」

 ああ、二人は本当に思いあっているのだと感じた。真咲は顔にあまり感情が出ないが言葉から愛しさを感じた。

「おやすみなさい」

「おやすみ、また明日」

 おやすみのあとにまた明日を付ける人なんて初めて出会ったな、そんなことを思いながら床についた。


「おはよう」

 朝起きると眠そうな真咲がリビングにいた。

「おはよう……」

「寝てないの?」

「ちょっと寝た。でも仕事がまだ途中だからご飯食べて終わらせたらめっちゃ寝る」

 すでにテーブルの上に二人分のパンと目玉焼き、カリカリに焼かれたベーコンが用意されていた。

「明日から家事は交代、分担にしようよ。私も何かする」

「分かった」

 席について、手を合わせる。いただきます。

「そういえば、真咲は何の仕事なの?」

「WEBデザイナー。自営業みたいなもんよ」

「ふーん」

 そういえば昨日は翔の話ばっかりで真咲の話を聞き忘れてしまっていたなと聞いてみた。 

「今日は大学のあとバイトだから九時過ぎくらいには帰れると思う」

「了解。基本家にいるからいつ帰っても大丈夫だよ」


 バイトを終えて家に帰るとギターの音がどこからか聴こえてきた。音の元を辿ると真咲の個室かららしい。ドアを三回ノックする。

「どうぞ」

 許可をもらって部屋のドアを開けて中に入る。

「ただいま」

「おかえり」

「真咲、ギター弾くの?」

 ここ数日一緒にいたがギターを弾くのは初めて見た。

「たまーにね。頭煮詰まった時に弾きたくなる曲があるんだよ」

「ふーん。聴いててもいい?」

 あまり何にも興味なさそうなこの男が弾きたくなるような曲とはいったいどんなものだろうか。

「うん」

 始まりはスローテンポで落ち着いた感じだったかが、サビの部分はテンポが速くなりギターをかき鳴らした。そこは何かを叫んでいるようで、訴えているようで。

「……聴いたことあるかも。なんとなく良い曲だなあって思った記憶がある。それくらいの知識だけど」

「そうなんだよね。俺も初めて聞いたとき流行っててなんとなく良い曲だなって思ってたんだけど、歳取ってもう一度聴いたら二十前の書いた子供っぽい曲だなって全然良さが分からなくなってさ。でももう一度最近聴いたらやっぱり良い曲だなって思ったんだよ」

 価値があると思っていたものに急に興味が失せる瞬間。振り返ってみると素晴らしかったと思えるもの。なんとなく分かる気がした。遙は今この曲に対して何も思えないけれどいつか良い曲だったと思える日が来るかもしれない。

 何度も何度も真咲はそのメロディーを弾いた。確かこの曲にはきちんと歌詞があったはずだ。遙は後でこの曲の歌詞を調べてみようと思った。

 それは何かを亡くしてしまったのに無くせない人の歌だった。泣きたいのに泣けない人の歌だった。


その夜、昔の夢を見た。兄がいて遙がいて幸せな家族の時間を過ごしている夢だった。もう二度と取り戻せないであろう過去がそこにはあった。私が兄に恋心を抱いたがために。はっとして起きると涙が流れていた。心を落ち着かせようと台所に水を取りに行くと、まだ居間の電気が点いていた。

「真咲?」

 リビングのテーブルの上にはパソコンが置かれていた。まだ仕事をしていたのだろうか。

「遙、どうしたの?」

「あー、ちょっと喉乾いたかなって」

「嘘でしょ。涙、出てるよ」

 必死に止めていたのに、まだ止まっていなかったらしい。

「俺、今から寝るんだけど。俺の部屋で一緒に寝る?」

 何かを察して、そんな提案をしてくれた。

「……うん」

 心の中で翔に謝る。断るべきだっただろう。でも今は寂しかったのだ、寂しくて誰かに傍にいて欲しかった。

 布団をずるずると引きずって隣の部屋まで持ってきて、真咲のベッドの隣に並べた。

「真咲、ありがとうね。お兄ちゃんの夢を見たんだ」

「いいよ。俺にできることならね」

「そんなこと言っていいのかな。私、翔に怒られちゃう」

「翔は怒らないよ」

 その言葉に彼らの間にある絶対の信頼関係を感じて、とても羨ましく思った。遙には手に入れられなかったものを持っていると。                                                                                                


「遙、別れたんだって?」

 大学に着いた途端、元彼氏との駆け落ち事件を知っている友人が声をかけてきた。

「うん」

「親と大喧嘩してまで家出たんでしょ? 今どうしてんの?」

「んー……友達の家でルームシェアさせてもらってる」

 そういうことにしておこう。男の家だとなるとまた話が長くなりそうだ。女の子は恋の話が大好きだから。

「ならいいけど。なんかあったら言ってね」

 彼女はいい友達なのだ。ある一つを除いては。

「そっちこそ大変でしょ。気にしないで大丈夫だよ。まだ続いてるんでしょ」

「……うん。もう止めようって言ったけどさ、やっぱり諦められなくて拒否もできなくて……」

 そう。彼女は不倫をしていた。結婚したばかりの男と。最初はそれとなくそんな男やめた方がいいと言ってみたりしたが、恋愛は本人の自由。遙に何かを言う権利はないと、今では悩み相談を聞くだけになっていた。それが憂鬱で仕方ないのだ。


「遙。おかえり」

「……ただいま」

「あれ? 遙機嫌悪い?」

 大学での一連の出来事を、友人の不倫事情をぶちまけてしまった。

「ヤった、ヤられた、別れた、付き合った言ってるあいつらよりあなたのが綺麗に見えるわ」

「それは同性愛者のが、ってこと?」

 頷く。

「男にはもううんざり。私も女の子を好きになってみようかな」

 真咲は私の意見に対して何かを言うことはなかった。その代わりに、

「紹介してやろうか。相手探してるやつ知ってる」

 あっさりと同性の相手を紹介してくれるという。


 遙、真咲、翔の三人でかの有名なチェーン店のカフェで待ち合わせをしていた。

「お待たせー!」

 現れたのはピンクのふりふりの服を着て、ロングの髪をくるっくるに巻いたまさにザ・女の子といった感じの子だった。

「お葬式以来じゃない? もう会ってくれないのかと思ったわ」

「律!」

 翔が、しーしーと人差し指を口に当てて黙るように促した。お葬式、誰のだろうか。気にはなったがとても聞ける雰囲気ではない。そもそも今日の目的は彼女を紹介してもらうことだ。

「はじめまして、遙です」

「はじめまして! 律だよー」

 テンションの感じが翔に似ている。喋らない真咲の周りには五月蠅い人物が集まるようにできているのだろうか。

「こいつ彼女ほしいんだって。お前探してただろ」

「そうなの。急にやっぱり結婚するねーって振られちゃって。絶賛新しい恋探し中です」

 結構重い話をあっさりと言われてしまった。手を額に持ってきて敬礼のような仕草をする。

「遙ちゃん可愛いし、めっちゃタイプだなー」

「だって、良かったな」

「私も律さんみたいな可愛らしい女の子大好きです」

 しばらくカフェでお互いのことを話した後、近くのショッピングモールでウィンドウショッピングを楽しんだ。律はとても話上手で、いつまでも遙を楽しませてくれたし、帰るころには傍にいて居心地がいいと感じていた。

「じゃ、またねー! 真咲が元気そうで安心した。遙ちゃん、良かったらまたデートしよ! 今度は二人でさ」

 最後の一言はこっそりと私に耳打ちした。

 律は私を楽しませてくれたが、なんとなく今回呼び出されてきてくれたのは真咲の様子を見たかったからなのではないかと感じていた。この三人の間には何かがあった。そして今まで会うことはなかった。そういうことなんだろう。

「真咲、紹介してくれてありがとうね。でも真咲私を会う口実に使ったでしょ」

「……それは認める。でも、利害の一致だろ」

「うん。いいよ、私は気にしてない。律さん本当にいい人だし、今日とっても楽しかったし付き合っちゃおうかな」

「好きになったのか?」

「好きだよ」

「それは友達としてじゃなくて?」

 その問いに私はすぐに応えられる術を持っていなかった。確かに律は最高の女の子だった。キスもできるだろう、だからと言ってセックスができるかと言われれば別だ。

「好きになってみよう、ではダメかしら?」

「そういうカップルもいるだろう。でも少なくとも俺は、俺の恋は好きになってみようってなるものじゃなくて気づいたら好きになってたよ」

「お前の兄に対する想いもそういうものだったんじゃないの? 好きになってみようで忘れられる程度の恋だったの?」

 違う。そんな程度の想いなんかじゃない。遙の頬を涙が伝った。それで諦められるなら家を出たりしなかった、兄にそっくりな恋人を求めたりしなかった。好きになってみようじゃない、本当の恋は気づいたら落ちてしまっているのだ。きっと不倫している友人もこんな気持ちなのだろう。なんだ、同じだった。真咲はこれを教えるために律に会わせたのだ。

「でもさ、これから遙が律を好きになる未来がないわけじゃないと思う。よく考えて答えを出してあげて」

 それから一呼吸置いて、昨日遙が言った言葉を出してきた。

「ゲイのが綺麗に見えるって昨日遙は言ったけどさ、そんなことないよ。俺達も同じようにヤった、ヤられた、別れた、付き合ったを繰り返してるよ。同じように悩んで苦しんでるよ、きっと」

「あれでも律は傷ついてる。だからよく考えて答えを出してあげて」

 真咲の言うことは全て正しかった。遙は自分がどこか彼らと自分を分けて考えてしまっていたのだ。無意識の差別とでも言うのだろうか。自分の行動を呪った。そして取るべき行動と見せるべき誠意を考える。


「律さん」

 あれからちょうど一週間、遙なりに全て考えて出した結論。遙は洗いざらい真咲の家に来た経緯や真咲との会話についても話した。そして、

「私、やっぱりまだ兄が好きです。本気で好きです。私から声をおかけしたくせにとんでもない大馬鹿野郎だとは思いますが、律さんのことはまだ好きになれないです。ごめんなさい」

 腰をしっかりを九十度に曲げて、頭を下げた。それを見た律は爆笑していた。

「あはは、遙ちゃんめっちゃ真面目! そりゃあ遙ちゃんのことは気に入ってたけど、こないだのは真咲に会いたかったてのもあったからねえ。気にしないで」

「あ、それはなんとなく分かってました。三人には何かあったんだろうなって」

「正確には四人だよ。私たち四人には何かあったの」

「お葬式の人ですか?」

 聞いてはならない気がした。でも聞きたかった。遙はただの同居人である自分が悔しく感じるようになっていた。いつも阻害されているこの感じ。彼らの力になれることが何かないかと思ったりしてしまうのだ。それほどに彼らを大切に思うようになっていた。

「そう。もっと知りたいって顔してるね」

 律にはばればれだったようである。

「そうだなあ、私一応姉だから話してもいい権利はあるよね。私が話せることだけは話してあげる」


 律は旋という二年ほど前に亡くなった青年の姉だった。同性愛者だとばれた姉弟は勘当されて家を追い出され、一緒に狭い部屋で住んでいたのだという。旋は夢だったマスコミ業界で働いていたらしい。仕事先で出会ったのが真咲と翔だった。先に出会ったのが翔、そのあと真咲。真咲もゲイだった。友達として最高だった彼らはきっと恋人としても上手くやっていけると付き合ったが、結局別れた。旋は職場でゲイなのがばれてひどい虐めを受けているようだった。そして入院したある日、旋はそのまま病院の屋上から飛び降りて死んでしまった。話はこんな感じだった。

「一番責任を感じてるのは真咲だろうね」

「真咲が付き合ってたのは翔じゃなかったんだ」

 あんなに熟年夫婦のような空気を醸し出していたのに。本当だ。みんな同じように悩んで苦しんでいる。見えないところで。あの言葉は真咲自身にも言っている言葉だったのだ。

「だって翔は普通に女の子が好きだったよ。真咲と付き合うまでは。二人の間に何があったかまでは知らないけどね。私、二年間真咲と会ってもらえなかったからさ。だから遙ちゃんには感謝してるんだ」

「ありがとうね、真咲を連れ出してくれて」

 遙は許された気がした。自分にできたことがあった気がした。

「ねえ、あなたにもし次好きな人ができたら教えてね。私も教えるから」


「律のこと、結論出したらしいじゃん。よく考えてくれてありがとうな」

 メールで遙と律のやり取りを知った真咲が言ってきた。もともと自分が考えなしだった結果招いたことではあったが、律から言われたありがとうと真咲から言われたありがとう、その言葉の価値を知った。

「黙っているのはフェアじゃないから言うけど、私律さんに律さんたち四人のお話ちょっと聞いちゃった」

 遙はフェアじゃないという言葉をよく使う。真面目で義理堅い遙らしいと言えばらしい。黙って知らぬふりもできただろうに。

「ああ」

 真咲が下を向いて頷いた。表情は分からない。暗いのか悲しいのか聞きたくなかったのか。

「それで私思ったの。決着付けようって」

「え?」

 何のことかと真咲の頭にははてなマークが浮かんでいるようだった。

「元彼氏の家追い出されてなあなあでここまで来ちゃったじゃない? だからまず元彼と話し合って、それからお兄ちゃんに告白しにいこうかなって」

「急にどうした?」

「明日があるとは限らないんだよなあって」

 真咲は何となく昨日律から聞いた旋の死が関わっているのかなと思った。

「見て」

 携帯のメール画面を差し出す。

「……結婚することにした! また詳しい話がしたいから家に戻ってこいよ」

 内容を読み上げる。

「結婚しちゃうの、お兄ちゃん。もう私のものじゃない、あのくそ女のものになってしまうのよ完全に。だから最後に、ね」

 どうやら明日があるとは限らないとはこっちのことでもあったらしい。

「……ついてきてくれる?」

「はい?」


 久しぶりに昔の安アパートの前に来ていた。もしかして引っ越してしまったかもと思ったが表札を見る限りまだ住んでいるらしい。今日は大学もなく、バイトもないはず。全ては一か月以上前の話ではあるが。

ピンポーン。昔ながらのチャイム音がなる。まだそんなに経ってはいないのに色々ありすぎてとても時間が過ぎたように感じる。

「はい」

 ドアの向こうから声が聞こえた。真咲は階段下で待っている。

「ちょっと話したいことがあるんだけど、出てきてくれるかしら」

「遙……」

 少し驚いたように名を呼んだあと、鍵を開けてくれた。

「……上がってくか?」

「ここでいい」

 なんて言おうか昨日から、いやここに来るまでもずっと考えていた。許しをこうべきか、いきなり追い出したことへの怒りは言ってもいいのか。

「出てきてくれてありがとう。兄の代わりにしていた私になんて二度と会いたくもなかったでしょ」

 兄の代わりにしていたことに間違いはない。

「気づいていたんでしょう?」

「お前の兄が心配してこっそり訪ねてきたんだよ。前からお前の兄に対する感情は異常だなって思っていたけど、会って顔を見てはっきりした。ああ、俺を選んだのは代わりかって。頭に血が上って、急に追い出したりして悪かったとは思ってるんだ。俺もずっと謝りたかった」

 初めて会ったとき運命だと思った。こんなに顔がそっくりなら愛せると思った。兄の代わりとして。でも、当たり前ではあるけれど似ているのは顔だけで中身は全くの別人。優しい人だった。

「確かに最初は顔が兄に似ていたから近づいたけれど、あなたの優しいところ好きだったよ。恋ではなかったかもしれないけれど、人としてあなたのこと好きだったよ。そんな優しいあなたを傷つけてごめんなさい」

「俺は本気で好きだったよ。君を君として。だけど、ごめん」

 もう戻れない今がそこにはあった。

「で、下で待ってる彼が新しい彼氏?」

「いや、そういうんじゃないけど……大切な人だよ」

 下に待っている真咲のことは気づかれていたらしい。

さようなら、優しい人。


全てをぶちまけてすっきりした気分になっていた。が、今日やることはこれだけではない。本日の目的はまだ半分しか果たされていなかった。これから人生最大の大勝負が残っていた。

一年ぶりぐらいに立つ実家のドアの前。今日はあのくそ女は来ているだろうか。顔を合わせたくないな。兄に自分の想いを告げたらどんな反応されるだろうか。いや、なんて言おうか。先ほどの元彼のときと同じように頭の中を様々な言葉がぐるぐるしていたが、それと同時に動悸が激しくなり、息苦しささえ感じるようになった。

ばんっ。

「!」

 真咲に背中を叩かれる。

「頑張れ、遙」

 驚きで一気に頭の中のぐちゃぐちゃが吹き飛んだ。

「……うん。いってくる」

 ピンポーン。機械音が一軒家の玄関に響いた。インターホン越しに兄の声が聞こえる。

「はーい」

「遙だけど」

 兄の声を聴けた嬉しさと今まで連絡を返さなかったことへの罪悪感からぶっきら棒な感じになってしまう。

「はーるーかー!」

 ばたばたと廊下を走る音がしたかと思うと、勢いよく玄関のドアが開いて兄が抱きついてきた。

「心配したんだぞ! 元気だったか? ちゃんと食べてたか?」

 矢継ぎ早に質問してくる。

「お兄ちゃん、私いくつだと思ってるの? ちゃんと生活できてるから」

「そうだよなあ。まあ、あがれあがれ」

「んー、あがれないの。人待たせてるし」

 その言い訳のための自分かと、家の外壁の陰に立ちながら真咲は思った。

「そうか。って、あの人お前彼氏と違うくないか?」

「あー、別れちゃって。今はあの人のお家でルームシェアしてるの。とってもいい人だから安心して。これからは連絡もするし」

 兄も相当なシスコン具合だなと考えていた。普通妹の彼氏事情をそこまで気にするだろうか。遙、可能性あるんじゃないの。

「それでね、お兄ちゃん。私、お兄ちゃんのこと大好きだよ」

 今までで一番の笑顔を作る意気込みで告げた。好き、その言葉に今まで全ての想いを乗せて。

「俺もだよ。大切な妹なんだから当たり前だろ」

 兄はいつもの笑顔でごく当然のセリフを返してくれた。涙が出そうになる。でももう少し頑張って。

「あと、お兄ちゃん。結婚おめでとう。幸せになって。誰よりも世界一幸せになってね」

 一番言いたくなかった言葉を言わなければならなかった。言った。言ってやった。

「ありがとうな」

 兄が子供のころからよくしてくれたように頭を撫でてくれた。温かく大きな手だった。さようなら、私の恋。さようなら、私のお兄ちゃんと心の中で呟いた。


 結婚式の詳しい話はまた今度になり、両親にも上手いこと兄が説明してくれることになって帰路についた。

「うわーんうわーん」

 実家が見えなくなるころまで耐えていたが、いよいよ限界がきてしまい遙が子供のように泣き散らかした。涙を手で振り払う力もない。

「頑張ったな」

 真咲が遙の頭を引き寄せて肩を貸してくれた。溢れた涙が真咲の着ている服に染みていく。

「頑張ったよ。伝わってないけど頑張ったよ」

「本当に本当に大好きだったんだよ」

「俺は知ってるよ」

 遙は見届けて欲しかったのだ。誰かに、自分の一世一代の大勝負を。

 真咲は遙の辛さを分かっていた。いつか経験したその痛みを知っていた。



 もう二度と取り戻せないあの時をあの痛みを今でもよく夢に見る。

 きっと遙のこの涙は自分の流してきた涙によく似ている。

自分はマイノリティーだと知ってからひっそりと隠れるように生きてきた。だからこそ人と関わらなくて済むWEBデザイナーなんて職に就いたわけだし。だからこれは運命だったと思う。珍しくテレビ局からの大きな仕事が入った。そこで出会ったのが旋だった。人付き合いを苦手とする真咲は仕事以外で付き合う気はなかったし仲良くする気もなかった。しかし旋はお構いなしに声をかけてきて、人懐っこい笑顔で飲みや遊びに誘ってくる。なんとなく波長が合いそうだったんだと。彼が言うように真咲と旋はとても気が合った。最高の親友になれた。そこにそのうち仕事で出会ったという美容師の翔も加わった。休みになれば三人いつも一緒だった。いつも旋の家で集まっていたので、必然的に同居人の姉である律とも親しくなる。それから旋はあっさり自分は男が好きなのだと大したことじゃないように打ち明けてきた。しばらくは自分のことを打ち明けられずにいたが、長くいるうちに彼になら秘密を打ち明けられると自分もゲイなのだと告白した。親友としてこんなに上手くいくなら付き合っても上手くいくんじゃないか、こんなにぴったり合う、しかも性的指向まで合う人間に出会えるなんてきっと運命だって思って付き合うことになった。どちらから好きと言ったかなんて覚えてない、言ったかすら分からない。でも気づいたらそんな関係になっていたのだ。でもそれは長くは続かなかった。親友としては完璧だったのに付き合うと上手くいかなかった。恋人なのに親友の域を越えられないのだ。旋のことは大好きだった、誰より大切に思っていた。なのに恋人と親友の時と何が違うのと聞かれても応えられない自分がいたのだ。結局最終的には旋に恋人としての好きじゃなかったね、と言われて別れた。それからも良い友人関係は続いていたが、彼は自分の性的指向を隠すような人間じゃなかった。だから職場の人間に蔑まれひどい虐めを受けていた。新しくできた職場の彼氏、いや彼氏といえるかは分からない、そいつは自分がゲイなのを隠したくて旋に冷たく当たったし、レイプまがいのことをしてくるらしかった。そんな奴やめろよと言っても彼は可哀想な人なのだ寂しい人なのだと旋は言った。そしてあるとき旋は自分のどこが好きか彼に聞いたのだと言う。彼は答えた、「顔」と。旋は顔を家のナイフで切って病院に運ばれた。そしてその晩、旋は病院の屋上から飛び降りて死んでしまった。できることはたくさんあった、どうしてもっと助けてあげなかったのだろう、もっと話を聞いてあげなかったのだろう。好きと伝えなかったんだろう。例え違う好きだったとしても旋のことを本当に本当に好きだったのだ愛していたのだ。泣いた。毎日毎日泣いた。彼との想い出が消えないように彼と行った場所にはもう二度と他の人とは行かないようにした。でも人の記憶とは残酷なもので、忘れていく。新しい人を好きになる。

こんな時に言うのはずるいと思うと翔は言った。だけど、ずっと前から好きだったのだと、旋と付き合っている時から真咲のことが好きだったのだと翔が言った。裏切るような罪悪感と彼への新しい恋心を抱えながらいつまでもずるずると答えを先延ばしにした。翔はいつまでも待ってくれた。一年前にやっと自分の恋心を打ち明けた。でも全ては捨てられないと、旋のことを忘れられないと。翔はそれでいいと言った、それを全部含めて真咲を好きになったから全部まるごともらうのだと。許された気がした。わんわん子供のように泣いた。今日の遙のように。

そして遙を拾った。なんとなく自分に似ているような気がした。可哀想で寂しそうに見えたから。自分も誰かを救いたかったのかもしれない。でも彼女はたった数か月の間に色んな経験をし、悩みを解決して、兄にまで想いを告げた。彼女は可哀想でも寂しい人でもなかった。強い女の子だった。真咲が拾わなくても立派に生きていけただろう。



 マンションに着くと翔がすでに来ていた。

「遙ちゃんどうしたの? 女の子がそんなに目を赤くしちゃって。可愛い顔が台無しだよー」

「さすが美容師。そうやって口説くのね。真咲―、翔が浮気してるよ」

「し、してないよ! 俺は真咲一筋だよー」

 話をそらして、真咲に振った。翔が急いで真咲に泣きついて言い訳をしていた。

「そうそう。そういえば今日は真咲にデートのお誘いで来たんだった! 真咲もうすぐ誕生日じゃん。ディズニーランド行こうよ!」

「え?」

 真咲とファンシーなディズニーランドという組み合わせが理解できず、驚いてしまった。

「ディズニー……」

「真咲こう見えて実は可愛いもの好きなんだよね。プーさんとか」

「あの何考えてるか分からない顔がいい……」

 新たな一面を知ってしまった。真咲にそんな可愛い趣味があったとは。部屋にお邪魔した時よく見たことがなかったが、もしかしたらあの私室には結構ファンタジーなものが置いてあったのかもしれない。

「でね、ホテルもレストランも予約取れたから行こうね!」

「泊まりかよ。遙どうするんだよ」

 そういえば真咲が家に帰ってこなかったことってなかったなあと思い出してみる。仕事も家でやることが多いのでほとんどいるし。

「あ! 遙も来る?」

 翔はごく普通においでよおいでよと誘ってくる。誕生日デートについてくる女とかどんな奴だ。遙を省かないところが二人らしいといえばらしいのだが。

「私のことは気にせず、二人でデートしてきなよ。普段から二人の邪魔しまくっちゃってるし」

 ただでさえ邪魔者なのにすっかり二人の間に馴染んでしまった。たまには二人だけの時間を作ってあげなければと反省する。


 お誕生日デートから帰ってきた真咲は普段と変わらないように見えた。

「デートどうだった? 楽しかった?」

「なんかあいつ誕生日のサプライズとかホテル側に頼んでてびっくりした」

 さすがロマンチスト美容師。左手薬指に昨日まではなかった指輪がはまっているのを見る。

「で、その指輪ももらったわけだ。お熱いことで」

 からかう感じで言ってみると、ほのかに真咲の顔に赤みがさす。ちょっと可愛いと思ってしまった。

「うん……」

 素直に頷いてしまうところもまた可愛い。翔はこういうところが堪らないんだろうな、なんて考える。真咲は基本的に無表情だ。だが、翔のこととなると違う。赤くなったり笑ったり、ころころ表情を変えることに気付いた。遙では変えることができないのかと悔しくも思った。

「指輪見せてよ」

「へ? い、いやちょっと」

 何か見られるとまずいことでもあるのだろうか。

「いいじゃない。えい!」

 と、真咲の左手に飛び掛かると横に手を避けられてしまい、必然的に彼の胸のなかへダイブすることになる。ふと、数日前にこの胸に縋って泣いていたことをフラッシュバックし、やっぱり彼は男の人だったなと感じたりして、そのときの体温を思い出してかっと体が熱くなった。

いやいや自分はこの間まで兄が好きではなかったかと問い詰める。これではまるで彼に恋をしているようではないか。

「遙、分かったから。見せるから一旦俺の上から降りて」

「ご、ごめん」

 はっとしてすぐに離れる。

指輪には永遠の愛を、と英語で刻まれ、相手のイニシャルが入っていた。

「はー、さすが翔はやることが違うわ」

「恥ずかしいから見せたくなかったの」

 横を向いてしまった真咲が言う。羨ましいと思った。でもそれが翔に対してなのか、真咲に対してなのか分からなかった。


 あれから、つまり真咲にダイブ事件から数日。律を前にも会ったカフェに呼び出していた。

「遙ちゃん久しぶりー」

 彼女のトレードマークであるふりふりの服を着て登場した。今日は黒で決めている。

「お久しぶりです。急に呼び出してすみません」

 席を取って待っていたので、立って挨拶をし、空いている席を案内する。

「で、お話って何かな? またデートする?」

 彼女は本気で言っているのかそれとも冗談なのか。

「律さん、次に好きな人ができたら教えてって言ったじゃないですか」

「もしかして、新しい恋! 残念だなあ。結構遙ちゃん狙ってたのになあ」

 食い気味に聞いてくる。女の子は本当に恋の話が好きだ。

「私、真咲のこと好きになっちゃいました」

「ふーん、真咲ね……」

 うんうんと頷きながら、ちょっと考えているかのような間が空く。

「ま、さ、き! って、あの真咲?」

 そして一気に目が覚めたかのようにぐっと顔を近づけて聞いてきた。

「多分ですけど」

「こないだ兄に告白したんですけど」

「お姉さん、君のその勇気にもびっくりだよ」

「その時に抱きしめて慰めてくれたんですけど、ああ真咲も男の人だったんだなあって気づいたというか。今まで支えてもらっていたこととかアドバイスとか思い出してぶわーって。私、薄情ですよね。こないだまで兄が好きだったんですよ。なのに今違う人が気になるなんて」

「いいんじゃない。てか、それ真咲に言うの? 真咲はついちょっと前まで旋と付き合ってたのに翔と付き合った男だよ。薄情だねって言う?」

「言わないです」

「でしょ。私も姉だけどそんなことは思わない。そういうことだよ」

 やっぱり律の言うことは正しくて、数年しか生きている年数は違わないのにとても大人に思えた。それぞれ本人にしか分からない葛藤があって今がある。それにとやかく言うことはできないのだ。きっと真咲も自分を薄情だと呪っただろう、でも外から見たら彼が悩んで出した答えなら尊いと思う。きっと私も自分では許せなくても彼らは許して選んだ結果を許してくれるだろう。

「まあ、私は翔のことも好きだし、遙も好きだからどっちも応援できないけど。また頑張りなよ。どんな結果になろうと」

「はい。私も律さんと約束したから言っておきたかっただけで特にどうしようとかはあんまり考えてないんですけど。だって私も翔が大好きだから」

 律はその律儀なところが遙らしいと言った。


 さて、次の勝負どころ。律と別れたあと今度は違う人物と待ち合わせをしていた。

「翔」

 言わずもがな、真咲の彼氏である。真咲と三人で出かけることはあっても二人きりで待ち合わせをするのは初めてだった。

「遙ちゃん、どしたの? 家じゃ話せないこと?」

 一回、大きく息を吸い込んで吐く。

「はっきり言うわ。私、真咲のこと好きになっちゃった」

「それはもちろん恋愛的な意味でですよね?」

「うん」

 驚くか、そらみたことかと怒られるかと思いきや全くいつも通りの翔の顔だった。

「まあ、分かるよ。真咲いいやつだもん」

 うんうんと一人で頷いている。彼には盗られるはずがないという絶対的な自信があるのかもしれない。

「だから、家を出るね。好きになっちゃったから。そうと分かっていて傍にいるのはフェアじゃないわ」

「や、でも遙ちゃん学生でしょ? 家賃どうするの?」

「初期費用としばらくの家賃ぐらいは貯めたから。安心して」

 その辺は突っ込まれるだろうと、抜かりない。

「うん。遙ちゃんらしいね。きっと君は真咲によく似てる」

 あんな善人の塊みたいな人間にどこが似ているというのだ。兄の代わりにした男に捨てられて、あっさり他の男を好きになるような屑が。

「それで、翔には新しいお家探しを手伝ってもらおうと思って。よろしくね」

 真咲の彼氏に自分の気持ちを打ち明けるのが一番の目的だったが、二番目は家探しのついでに翔のことをもっと知ることだった。遙はきっと翔のことを真咲を通してしか知らないと思ったから。

 何件も不動産屋さんを歩き回り、いくつか目ぼしい物件の資料をもらってきた。この辺りから決めれば問題ないだろう。

「今日はありがとうね」

 景色はすっかり薄暗くなっていた。今日はいろいろあったなあと振り返る。

「あのさ、やっぱり遙は真咲に似てるよ」

 初めて翔に名前を呼び捨てで呼ばれた。

「黙っていればいいことを言っちゃうところ」

 翔は悲しそうに笑って見せた。

「遙は律に俺たちのこと聞いたんだろ?」

 旋たちのことを指していると分かり、頷いた。

「最初、真咲と出会ったとき俺には彼女がいたし、俺の大好きな親友二人が付き合いだしたと聞いた時も俺はとても嬉しかった。本当に幸せになってほしいと思ったよ。でも、だんだん真咲に惹かれていった。ずるいと思った。だけど言わずにはいられなかった。旋がいる真咲に好きだと言った。旋を失って落ち込んでる真咲にもう一度好きだって言った。ずっと好きだったって」

 ずるいよねと泣きそうに笑って言った。

「そうしたら真咲が全てを言ったんだ。俺のことは確かに好きだ、惹かれてる。でももしもう一度過去をやり直せたとして今度はきっと旋と別れないって。もしもう一度旋が真咲の前に現れたとしたらまた好きになるよって」

 言わなくては真咲は自分を許せなかったんだろう。そして振られることを想像したはずだ。

「俺は全てを受け入れるよ。その全てを含めて真咲だから。全てを愛すよ」

 だけど翔はそれを裏切る答えを出した。本当になんてお似合いな二人。遙に勝ち目があるだろうか。

「俺その覚悟で真咲を愛してるよ。だから遙も全力でかかってきなよ」

 翔は遙をライバルと認めて名前を呼び捨てにしたのだ。翔の覚悟だった。遙はそれに全てを賭けて応えると誓った。


 さっさと物件を決めてしまって、真咲の家を出ることにした。真咲にもまだいてもいい、急にどうしたなんて聞かれはしたが、お金も貯まったし、いつまでもお世話になるわけにはいかないとそれらしいことを言って納得してもらった。

「真咲、本当にありがとう。でもこれからもご飯食べに来てもいいかな? どっかまた出かけたりもしたい」

 本当に幸せな数か月だった。おかえりと言ってくれる人、温かいご飯、隣に誰かがいるという安心感。泣いてしまいそう。

「当たり前だろ」

 頭をくしゃっと撫でられた。そういうことをするから女の子は誤解するんだぞと遙は思いつつ、そんなこと全く考えてないんだろうなと悔しくなったりする。

「ありがとう。拾ってくれたのが真咲で良かった」

 最高の笑顔を見せた、つもりだった。

 新しい門出。真咲に遙の笑顔はまぶしく輝いて見えた。


 それから遙と真咲と翔の三人で遊園地に行ったり、ご飯を真咲の家に食べに行ったりそんな関係は続いていた。遙が律さんに付き合ってもらって気合を入れて選んだレースをふんだんにあしらったワンピースはかなり真咲にうけた。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、それから堪えるように笑っていた。顔を真っ赤にして怒ると、「可愛いよ」と言ってくれた。髪を巻いていったこともある。自分でもなかなかいけると思ったのだが、真咲はその日一切触れることなくため息をつきながら帰ろうとしたところに、「そういえば今日の髪型可愛かったね」ときたものだから、この男は罪深い。手作りのお菓子を何度も何度も渡してみたが多分真咲は一切気持ちには気づいていない。

 というわけで、

「真咲!」

「はい」

 やれることはやった。こういう人は言わなければ気づかないと正攻法でいくことにした。緊張からつい声を荒げてしまった。

「あなたが好きです。大好きです。だから付き合ってください」

二度目の告白。

「……え?」

 頭の中で理解が追い付いていないという顔をしている。

「二度は言わないから。考えて、考えてから答えを出して」

 いつか彼が言った言葉を返した。これで本気だということは伝わったはずだ。恥ずかしさに耐えられずその場を走り去った。玉砕覚悟の告白を。


「翔……」

 放心状態で気づいたら翔に電話していた。そして家に呼び出していた。

「どしたの? 遙に告白でもされた?」

「お前知ってたのか?」

「いやー、あんな分かりやすい態度してたらねー。嘘嘘。遙が自分から言ってきたんだよ。フェアじゃないからって。だから家を出るって」

 なるほど。あの急な家出にはそんな意味があったとは。

「遙って真咲に似てるよねえー」

「?」

「言わなくても良いこと言っちゃうとこ」

 自分の彼氏が告白されたというのにこの男はあっけらかんとしている。

「俺は言えない派だからさ。俺、お前に言ってないことがあるのよ。旋とお前が別れた時、旋は真咲のこと恋人としての好きじゃないからって言っただろ。あれ嘘でさ、真咲が俺のこと好きになってるのに気付いたから振ったんだって。だから幸せにしろって。旋は本当に真咲が好きだったよ」

 長いこと旋の話はしていなかった。真咲を気遣ってのこともあっただろう。なのに、

「何で今更言うの」

 本当に何で今更そんなことを言うのだ。自分だけ知らなかった。旋の気持ちを。全てを分かったつもりでいたのに。きっと彼から別れを切り出されなければ別れることはなかっただろう。翔に惹かれていることは確かだったが、旋を捨ててまで結ばれようとは思わなかったし、本当に彼のことが好きだったから。それが例え恋とは違っても、そうやって成り立つ関係もあると思った。でも全て彼は察していたのだ。ぽたぽたと涙が床に落ちていく。

「何でだろうね。でも遙が現れなかったら絶対に言うことはなかったと思うよ。遙が俺達三人の前に現れてくれて良かったよね」

 告白してきた相手を褒めるなんて、遠まわしに振られているのだろうか。遙と付き合えとでも言うのだろうか。

「まあでも、ずっと黙ってずるいことをしてまで手に入れた真咲を渡す気は全然ないので! もし振られたとしても取り戻せる自信ありますから」

 翔が拳をぎゅっと握ってみせる。なんとも翔らしい言葉だと思った。愛されているのだ。自分は絶対に旋を忘れてはならないと戒めてきた。他の誰も彼以上に大切には思わないと。でも人の心は止められない。悲しいことに、もしもう一度彼が現れたとして真咲は旋を選ぶ世界は。

ない。


「遙、ごめん。俺はやっぱり翔が好きだよ。だから君とは付き合えない。ずるいだろうけど、でも遙のことは友達として大好きだよ」

 想像した台詞そのままだった。思ったよりもショックは受けていない。むしろどこかでほっとしていた。負け戦と分かっていたからだろうか。違う。

「ありがとう。真剣に考えてくれて。私ね、真咲のこと大好きだったけど翔のことが好きな真咲が好きだったの。二人の関係に勝手に憧れてたんだ。ああ、なんて素敵な関係なんだろうって。辛いことが何もなかったなんて分からないのにね」

 そういえば遙は旋とのことを律から聞いているんだったかと思い出していた。

「真咲と翔がこれからも幸せでいてくれたら私は本当に嬉しい」

 一粒の涙を流して、満面の笑みで告げた遙の今の気持ちだった。

「いつか私にも旋さんのこと話してよ、四人で」

「うん」

「じゃあ、また」

 くるっと踵を返す。ロングスカートがひらりと舞った。今は後ろを振り返らない。小さく「またな」が聞こえた。

「遙が俺の前に現れてくれて良かったよ。あの時出会えて良かった」

 真咲が背中に向けて叫ぶ。遙にとって最大の賛辞だ。

 

 真咲と出会うまで、惨めったらしくずっと兄を好きでいるんだろうと思っていた。小さい頃からずっと好きだった兄、これは一生をかけた恋だと。でも真咲を好きになった。少し歪な恋だったかもしれない、横恋慕しただけかもしれない。でも確かにもう一度恋をした。そしてきっとまた新しい恋をする。一生に一度の美しい恋、なんて糞くらえ。美しい想い出に浸りたい症候群は終わったのだ。

 モラトリアムが終わる。

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モラトリアムが終わる 直人 @naoto-nipo

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