2.In the rain, at the bus stop(4)

「……、 ……!」


 私は、声の方を反射的に向いてしまった。その男性の顔。知らない人だということは分かる。もしかして、いや、もしかしなくとも、聴かれていた?

 恥ずかしさと動揺のあまり頭の中が混乱、そしてパニックと言う言葉がふさわしい状態になる。私は慌ててイヤフォンを外し、改めてそちらを見た。

 若い男性は、真っ黒なビニール傘を差している、まさに黒ずくめの男性だった。男性は、あくまでも穏やかな表情だった。彼が口を開く。


「すみません。 驚かせてしまったでしょうか」

「え? あ、えっと、まあ、はい……」


 私は、脊髄反射的に肯定してしまう。違うだろ、もっとやりようがあるだろ、と脳内のもう一人の私が語りかけるも、このような状況になった事がないから仕様がない。

 何より、この男が何者なのか分からないという不信感と警戒心もあり、上手く言葉が出てこなかった。

 今の時代、小さな女の子に見知らぬ人が話しかけたら気をつけなさい、なんて言われもするくらいだ。もっとも、私はいい加減「小さな女の子」と言える年齢ではないというのは自他共に認めている事ではあるが、それでも私は、この男が何者なのか分からない以上、警戒と怯えを表に出す他なかった。


「……あの、私に何か……」


 その男の顔から視線を落とし、雨が降る風景を見ながら、必死に言葉を紡ぐ。声のトーンも大分上ずり気味で、か細く弱々しい印象を抱かせてしまったかもしれない。

 けれども、その男はそんな私の様子に動揺する素振りを見せる事もなく、その口を開いた。


「ああ、いえ……、気持ちよさそうに歌っていたので、つい」

「そう、ですか……」

「そう、怯えないでください。 ……貴方に、一つお礼が言いたくて」

「お礼?」


 何の話だろう、と思った。この男と私が出会った記憶はないし、私も彼に何かよいことをした覚えもない。


「はい。 ……たった今、救われたんです。貴方の歌に」

「どういうこと、ですか」

「大したことではないです。 ……僕は今、立ち止まっていて。 迷っていて。 いろんな決断、しなくちゃいけなくて。 全てが嫌になっていたんです。 そう、僕の心には、止まない雨が降り続いていました……」


 そう言って、男は空を見上げる。……つられて私もまだ降り続く雨雲を、霞ヶ丘にかかる雨雲を、眺めた。止む気配のない雨は、人の心を貫くようだった。晴れが来るときは、まだまだ先だろう。


「けれど」


 男は再び、こちらを向き直る。


「貴方の歌、透き通るような貴方の歌が、耳に響いたとき。 迷っていたことや、嫌になっていた気持ちが、少しだけ、晴れた気がするんです」

「えっ……?」

「気がつけば、夢中で聴いていました。 本当に、心に響く歌だと思ったので。 だから……お礼を言おう、と思って」

「そ、そんな! 私、大したことしてないです!! そ、それに、は、恥ずかしい……です」


 私は、そう言って手をぶんぶんと横に振り、否定の言葉を紡いだ。……恥ずかしい。その言葉は事実であり、出来ることなら褒められたという事よりも、歌を聴かれた羞恥心で、今すぐ逃げ出してしまいたかったところをぐっとこらえる。


「恥ずかしい……、ですか」


 男は、そう言って、少しだけ寂しそうな顔をする。少しばかり、沈黙が流れる。降り続く雨の音を背景に、まだ来そうにないバスを待つ二人。何か、まずいことを言ってしまっただろうか、と私は不安に駆られる。

 そう考えていた時、男が口を開いた。


「歌は、嫌いですか?」


 私は、目をぱちくりとさせた。この男は、なぜそんな事を聴くのだろう。歌が嫌いか、好きか、そんなの答えは決まっている。決まっている、のだが……。

 なんて返そうか、しばし迷っていたが、私は、ぎゅっと拳を握りしめて、この男に、「本心」を言ってしまおう、と思った。何より、こういうときに嘘をつけないのが、鈴代有遠のいい部分であり悪い部分であった。


「……嫌いじゃないです。 むしろ好きです。 それこそ、音楽で生きることが出来るなら、これ以上の幸せはないと思っています。 それくらい好きです、けど……」

「……けど?」

「……」


 私は、しばし沈黙した後に、口を開いた。


「……無理なんです。 私なんかじゃ」


 私は、俯きながら、そう答えた。

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