第二章 リラクセーション・フェイク 4
すでに昼なのに、中央都市の外周部は、お互いの位置があまりにも近い建物のせいで、廊下や窓があるにもかかわらず、日差しがほとんど差してこないようになっている。
そんな、夕方のときと似た薄暗い廊下で、嵐司が遠慮がちに指で軽くドアをノックした。
ほどなくして、中から物音がする。一人の中年女性が扉に向かいながら声を上げるのが聞こえてきた。
「は、はい。あの……どち、ど、どちら様です……でしょうか」
弱々しく、辿々しい声だった。その頼りない声に、嵐司が鉛色の髪を揺らすように、軽く右足に置かれた重心を左足に変えて中に呼びかける。
「調波官だ。開けろ」
「は? 嵐司、お前何を――」
「芝居、付き合ってくれよ」
透矢の言葉を遮るように、流し目で笑ってくる嵐司の顔には、いつものいたずらっぽさも、子供っぽさもなく、どこか形容しがたい、笑顔らしくない柔らかい笑顔が浮かんでいる。
その態度に思わず黙り込むと、カチャリと、扉が開けられた。
中から中老の女性が顔を覗かせる。それを確認すると、嵐司が遠慮なく半開きの扉を全開にした。
「あ、あ、あの……あの、な、何かご用でしょうか。この家は、な、なにも……」
「調波官がうちに来ても、なんもねぇよ! うちは、配給品は自分たちの分しか受け取ってねぇ。捜索してもなんの出ねぇぞ! さっさと帰ってもらえないか」
奥から歩いてきた中老の男性が強く見せようと語気を強めているが、その表情はどこか怯えているのを、透矢や嵐司じゃなくても簡単に分かるだろう。
「あ、そ、あの、旦那はその、ちょっと……く、口が悪く、て、そ、その、どうか、許してください。その、捜索です、ね。ふ……その、不審な人、かく、隠してませんから、その、食べ物も配給品しかない、ですから、どうぞ、入ってください」
「あ……あ? い、入れなくていいだろう! ち、調波官なんて……っ!」
「宇多川さんだな」
怯えている二人に、嵐司がそのよく通る声で空気を震わせる。あまりにも真っ直ぐすぎる声に、二人は肩を震わせ嵐司に向き直る。
その視線の向く先に、嵐司が懐から取り出した封筒を見せた。
中身ですっかり太くなった封筒。今朝、嵐司が銀行から下ろしたお金だ。
「中央区から寄付だ。第三層で暮らせる金額だな。移住する手続きもこっちで済ませられるけど、どうする」
「え……え?」
問答無用に手渡された封筒を受け取り、中老の女性が状況をまったく理解できずに狼狽えている。背後にいた男性が嵐司の前まで歩いてくると、疑わしい目を向けてきた。
「寄付だ……? 誰からだ!」
「守秘義務があるんで」
「へっ、そんな胡散臭い金なんざ、受け取れねぇよ! どうせ、受け取らせて、あとでなんか罪でも着せる腹だろう!」
「んなこと、一度もされたことねぇだろう。ここはクソみてぇな場所のわりに、法はちゃんと機能してやがるからな。大方、根も葉もねぇ噂でも聞いたじゃねぇの?」
「なんだと……ッ!」
「いいから受け取れ。それと、さっきも言ったが、第三層で暮らせるだけの金額だ。手続きもこっちでなんとかできるから、お前らの意見を――」
「そんなところに行って、蔑まれてけって言いたいかよ! あんたらは――」
嵐司の言葉を遮るように、男性が嵐司の胸倉をつかんで、乱暴に引き寄せる。
しっかりした体を包む服が引っ張られると、首から左胸にかけて肩のあたりに入れた、フライングパイレーツの刺青が男性の目に入った。
ただし、嵐司は特に激しい反応を示さなかった。あまりにも乱暴な行動に、嵐司はただ淡々と赤い目で見下ろすだけで、罵倒されているにもかかわらず、どこか優しげな笑顔を浮かべている。
「じゃあ、ここで暮らしていくことだな。これだけ金がありゃ十分だろう。あとは適当に長生きしとけよ。難しいと思うが、できれば楽しくな」
そう言ってにぃっと笑って見せると、嵐司が鍛え上げた逞しい手で、胸倉を掴んだ心許ないほどに細い手を払うと踵を返した。
「そろそろ行こうか、透矢」
「あ、ああ」
まったく未練を見せずに足を踏み出す嵐司を見て、また視線を中老の夫婦に移す。すると、複雑そうな表情をしている男性の背後で、女性――嵐司の母親――が両目を見開いて、嵐司の背中を見つめているのが視界に入った。
「あ……」
その、鉛色の髪に目を見開いて、声を漏らす。
「嵐司……なの?」
ぴたりと、弱々しい女性の声に、嵐司が足を止めた。
「誰だ? それ」
「そ、その色の、髪のけ、毛……あ……あか、赤い、目。昔……私と、旦那と、似てない……から、い、今も覚え、てます。ぎん、ぎ、銀髪じゃなく、その、鉄みたいの……い、いろ……色が、その……。あと、その、とても、赤い目」
「別に髪色とか目の色とか、たまたま同じってことは少なくねぇだろう」
「で、でも、私たちに……寄付、なんて、く、くれる人、いるわけ、ないです、から……。その、それ……に、ちょっと、懐かしい感じが、して……。ほ、ほら、その……私、その、呪われ――」
「あんたらの息子は」
女性の話を強引に遮り、嵐司がこともなげに、けれど、絶対に振り向かないように、淡々と言葉を並べる。
「今は圏外、東京だったところで、仲間と一緒に墓守って組織を立てて、楽しそうに暮らしている。我々中央都市と同じ、災変に侵されることのねぇ街を作ってね。こっちに手ぇ出さねぇうちは、かまってやる余裕もねぇんで、死ぬまでずっとこのままで生きていくじゃなぇの?」
「嵐司……が……。そう、そっか。とも……だち、できた……ね。友達、ち……ちゃんと、できた、よね」
「それと、今の時代じゃあ呪われるなんてこったねぇだろう。論外次元で全部説明できちまうんだからな。あれは、ただ運悪く、災変が起こっただけだ」
何か遥か昔を見つめる目でそう言うと、嵐司は今度こそ階段に足を向けて歩き出した。
玄関で、中老の夫婦はまだ何かを言いかけたが、ついに声が出てこなかった。ただ、お金の入った封筒を手に、嵐司の背中が視界から消えるまで静かに眺めるだけだった。
「お前、今日は里帰りじゃなかったのか。なぜわざわざ赤の他人のふりをする。俺や加苗なんか、親が誰かも分からねぇぞ」
「だからだよ。これが一番いいんだ。ほかのどうでもいい人間ならいいが、お前は分かれ」
建物を離れて、嵐司が透矢の糾弾を軽くあしらって、一つあくびをかいた。口を覆う手が自然と目に入ってきて、手首に入れられた環状の刺青が強く存在感を放っている。
「PIRATE SHIP」。英語では、遊園地でよくあるアトラクション、フライングパイレーツを表現する言葉だ。
「あの二人にとっちゃ、俺はいねぇほうがいい。いるほうがいいみてぇなこと言ってるけど、それは罪悪感からくるもんだ。適当に嘘つけば、安心させられる」
「なんだ、それは」
「そういや、お前に言ってなかったな」
透矢の問いに、嵐司がこともなげに口を開いた。
「人ならざる者の子。『突発性生命事象』。聞いたことあるか?」
「初耳だ。変異生命体の類か」
「そうとも言える」
変異生命体。論外次元の乱れによって生み出された、いびつな生命現象の総称だ。圏外でうろつき、大地を覆いつくす泥がその代表格と言える。
なぜか、その言葉を聞いて、嵐司がどこか自嘲めいた笑いを浮かばせた。
「突発性生命事象なんざ大層な名前で呼ばれてるけど、要は昔の神話やら伝説やらによく出てくる、ヤってもいねぇのに、勝手に孕んじまう命のことだ。なんか竹とか桃から子供が生まれたり、ヨーロッパじゃ、神か悪魔の子がいたりすんだろう。あれのことだ」
「それがどうした」
「どうもこうも、俺だよ、俺。その人ならざる者の子ってのは」
「………。………は?」
あまりにもあっけなく、適当すぎる態度で、相当に重要に思える事柄を言われた。態度と内容のギャップで、一時的に反応できなかった。
何か言葉を返そうとして返事を考えていると、嵐司がゆっくりと、他人事みたいに淡々と説明する。
「昔、中央都市では唯一、災変が起こっちまったことがあってな。定礎になんかあってって話で、正直よくわからねぇけど、とにかく、論外次元が乱れたことが、一度あった。そんとき、外周部に災変が起こったんだ。泥や血霧はまあ、探索庁の基地はすぐ近くにあるから、よく圏外に出入りする熟練の調波官がすぐやってきて、防衛庁のやつと一緒に災変を抑えたらしい。定礎の修復もすぐ終わって、中央都市の文明に傷つくことはなかった」
「………」
「けど、災変は泥や血霧しかねぇってわけじゃねぇ。いつどこで何かが起こるか全く予想がつかねぇのが災変だ。そこで起こっちまったのは、この『突発性生命事象』だ。外周部で、新婚の女性の一人が、まだ処女なのに孕んじまったのだ」
その昔話に、透矢が眉をひそめた。
聞いたことのない災変ということは、しょっちゅう災変が起こっている圏外でも稀なケースなのだ。それが運悪くもこの中央都市で起こってしまったらしい。
「その女はすぐ管理省に行って検査を受けたって話だけど、出た結果は、幸いって言っちゃ皮肉だけどね、ギリギリ人間って結論が出された」
「ギリギリ人間ってなんだ」
「生命現象の概念が人間のそれと離れているけど、異なるもんじゃねぇってことだ。まあ、半血夜叉種なーんて呼ばれた時点で、人間として見られてねぇのは分かるから、んなややこしい定義はどれだけ無駄なのか、思い知らされたよ」
「そいつは……惨い話だな」
「いや? 別にそうでもねぇさ。少なくとも、生まれてこなきゃよかったなんて、俺ぁ一度も思ったことねぇ。それに、完璧に人間じゃねぇなら、腹から出るのを待たずに殺されただろう。母親にとっちゃ、生まれようが生まれなかろうが、どっちもたまったもんじゃねぇけど」
「だから、息子だって言わなかったのか」
「ああ、言ったら困らせるだけだ。金や楽にさせる嘘だけ置いといて、さっさと退散したほうが、親にとっても俺にとっても一番って話だ」
涼しい顔でそう言い切った嵐司に、透矢が微かに眉をひそめた。
「だったら、最初から戻らなくていいだろう。俺に言ってくれれば、金ぐらい届いてやったのに」
「いや、これは、ケジメをつけるっつーか、清算ってことだからな。俺が自分で来なきゃ意味がねぇ」
駅が見え始めたところでそう言い、不意に足を止めて振り返ってきた嵐司は、なるほど、意図せずとも獰猛さが漏れ出る顔や、その強大な攻性理論は確かに鬼らしい。
しかし、この楽しそうで、寂しそうで、いろんな感情が混ざってるのに、一つの気持ちしか表していないその表情は、ともすれば、人間よりも人間らしいかもしれない。
「中央都市を出たとき、俺は別に家族なんてどうでもいいって思っていた。けど、圏外じゃ悲劇を見すぎちまったせいか、情けねぇことに、ああ自分は持ってるほうだなって自覚されちまった。別に、俺がいると母親は呪われた妊婦呼ばわれりされちゃ、戻る気もしねぇけど、今までひどい目に遭わせた分は、ちゃんと返してやろうって思った」
「だから金を全部やったのか。お前らしい単純なやり方だな。普通、両親の前で悔い改めて、泣き合ったり抱き合ったりしてから、一緒に暮らすことになっただろう」
「俺がいねぇと、お前が寂しいだろうが」
「バカ言え」
「それに、一緒に暮らしたって、どうせ最後は同じことになる。両親が陰口叩かれて、恐れられる。そうなりゃ、俺はまた家を出るだろう。くだらないことを繰り返す趣味はねぇよ」
何もかも見通したような感じで肩をすくめると、そろそろこの話も飽きてきたのか、嵐司が一つ首を鳴らすと、いつもの豪快でどこか子供っぽい笑顔を浮かべた。
「ま、昔のことを一々話したってしょうがねぇしな。それより、お前、これからどうするつもりなんだ?」
「? 何が?」
「お前な……」
割と本気で聞いた透矢に、嵐司が呆気にとられたように、仕方なさそうに頭を掻いた。
「調波官の仕事だ。今のお前じゃ、やるって決めてるわりに、実際に始めたら、調波官とまともに連携取れねぇだろう」
「………」
嵐司のその言葉に、透矢が気まずそうに目を逸らしたのであった。
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