プロローグ




 中央都市C3・中央区。

 新紀元29年・十月二十五日。

 通常時間軸・日本標準時21:27。


「もぅ……動けまい……。食い過ぎたか、不覚……」

 調波官の寮の一室で、一人の少女が仰向けに倒れ、お腹を抱えながら唸っている。

 せっかくきれいな桜色をした髪はモップのようにだらしなく床に広がって、その絹のような繊細の美を台無しにしてしまう。髪の毛と同じ、少女の両目も同じく穏やかな桜色をしていて、桜の花びらで粉のような薄いピンクに染まった春の池を思わせる。が、それも仰向けの状態では照明が眩しいので、きつく閉じている。

 一応、軍服を着用していて、二本の小太刀型調波刀もちゃんと腕の中に収まっているとはいえ、サイズの合ていないだぼだぼした軍服と、適当に抱いている調波刀は、寝袋と抱き枕にしか見えない。

 芸術品じみた外見を上手に壊していくスタイルだ。

「仕方ないね。次の配給が届く前に、俺の分で我慢するしかないか」

 餅みたいに床でだらしなく伸びている少女の隣でしゃがみ込み、少年が仕方ない様子で苦笑いをこぼした。困った顔で茶色の髪を掻いているが、緑色の目は子供を見守るような優しいものだった。

「次はちゃんと我慢しろよ。調波官優先といっても、食べ物の量は少ないんだから」

「いつ死ぬか分からない世界で、せめて今日はお腹を満たしてあげたいぃ……」

「明日に任務はないから死なないよ。それに、何かがあっても、俺は照葉てりはを死なせない。だから、今度は一週間の食料を一度食べないでね」

 諭すように言いながら、照葉の肩と膝の裏に手を回す。それを察した照葉も、自然な動きで手を少年の首に回す。そのまま、木の上を移動するコアラのように少年の背中に移動して、おんぶされる体勢になった。

 照葉の体重のほか、二本の調波刀と体のあっちこっちの装着されている装備で、かなりな重さがあるのに、少年は何も感じないかのように、少女をよいしょっと背負い直すと、部屋の方向に足を向けた。

「く……大儀であった。晴斗はるとよ」

「なんだい、その上から目線」

「照葉なりの感謝だぞ。受け取るがいいぃ……」

 半ば眠りに落ちかけた照葉が力を振り絞って拳を突き上げる。が、まだ上げたばかりの拳が、すぐ眠気でだらりぃ~と、力なく落ちると、そのまま少年の胸元にパンチした。

「そういうことにしてあげよう。でも、感謝するぐらいなら、今度はちゃんと自分で部屋に行ってね。リビングで動けなくなっちゃうのはなしだよ」

「誰しも無理なことがあるものだぁぁ――」

 駄々こねるように語尾を伸ばし、頭を晴斗の肩に乗せる。

 疲れすぎたり食べ過ぎたりして、リビングで動きたくなると、いつもこうやって部屋に運んでもらっているのだ。今更直すつもりもない。

 でも、さっきの会話では、気になることがある。全体重を晴斗に預けたまま、耳元で呟く。

「でも明日、任務があるって、さっき通知がきた」

「ああ、それは任務というより、仕事かな。迎え任務だけだからね」

「むかえにんむ……?」

 半ば眠りにつきそうなのを我慢して、ふにゃふにゃした声で聞き返す。

「そう。ほら、この前に羽月が任務に出ただろう。ネームド退治と新人勧誘」

「は……っ! つ、つまり、凪乃お姉ちゃんが帰ってくる……!」

「そういや、お前羽月のこと好きだよな。同い年なのにお姉ちゃん呼びだし」

「凪乃お姉ちゃんがすごいから。たぶん、一生叶わない」

「お前も十分すごいから気にするなよ」

 ようやく部屋に辿り着くと、晴斗が照葉をベッドに降ろし、彼女が肘や膝に装着している肘当てや膝当てに似ている調波器を外す作業に取り掛かる。照葉のことだ。ちゃんと外してあげないと、めんどくさいというだけで、調波器をつけたまま寝るに違いない。寝ているとうっかり起動されては、ベッドが間違いなく壊れてしまうだろう。

 熟練した手付きで調波器を全部外してから、二本の調波刀も取り上げようとすると、照葉がお気に入りのぬいぐるみを手放さない子供のように、鞘に収まった二本の小太刀をきつく抱き締めて抵抗の様子を見せる。

「いやだぁー、あたち……私の霜月しもつきちゃんと二十九にくちゃんだぁー」

「そうは言ってもなぁ、寝ぼけてシンカーでも撃たれてしまったら、寮がなくなるよ?」

「大丈夫だ、霜月しもつきちゃんも二十九にくちゃんもいい子なんだ」

「そっか、なら、なおさらちゃんと自分のベッドで寝ないとね」

 言って、ぐたりと横になったせいでちらっとシャツの裾から覗かせる照葉のお腹を、容赦なくくすぐってやった。すると、照葉は本当に力が出ない様子で、抗おうとしても身をよじることしかできず、晴斗の手を退こうとする手にも力がこもっていない。

「な、なにするのだ……っ!」

「いや、ほら」

 くすぐり地獄から逃れようと抵抗する照葉が、二本の小太刀型調波刀を手放したのを狙って、その物騒な兵装を取り上げる。

「こうしないと、手放してくれないだろう」

「は……っ! か、返せー……っ! 私の……抱き枕だぁ……」

霜月しもつきちゃんも二十九にくちゃんもいい子だろう。いい子はちゃんと自分のベッドで寝るものだよ」

 子供に言い聞かせるように照葉をなだめながら、二本の調波刀を部屋の隅にある刀立架に置く。

「羽月だって、寝るときはちゃんと水銀を外すだろう」

「うう……でもぉ……」

「ま、霜月しもつきちゃんも二十九にくちゃんの代わりに、寝る前に、晴斗くんが物語を読んであげよう」

「おお……!」

 晴斗の話を聞いて、閉じていた目が見開かれ、キラキラと輝いた。

 そんな照葉を、妹の面倒を見ている兄のように微笑みを浮かべ、優しく頭を一撫でしてから、ベッドのふちに腰かける。

「昔々、まだ血霧も泥もない時代で、緑に満ちた森という植物の生息地があって……」

 そう語り出しながら、晴斗が一度も見たことのない、普通の地球で起きた物語を脳裏に思い浮かぶ。

 同時に、明日でこの中央都市C3に到着するという、圏外の所持者について思いを馳せる。

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