機械人形でかまわない

よしづき一

機械人形でかまわない

「気持ちは嬉しいけど、ごめん。子供が欲しいんだ、俺」

 そう言うと哲夫は背を向ける。

 ああ。行ってしまう。行ってしまうのに。

 ここに至ってミカにできることは何一つなかった。諦めの気持ちを代弁するように、次第に辺りが暗くなる。もう彼の後姿も見えない。全てが闇に飲み込まれたところで、目の前に青色のウィンドウが現れた。

 『プログラム終了。復帰します』

 メッセージの下に「はい」のボタンひとつ。わかってるわよ。ミカは頷いた。すぐにウィンドウは消え、襟首を掴まれるような感覚とともに、彼女の意識は失われた。


 ――『いいえ』があればいいのに。

 ヘッドセットを外してため息をつく。仮想現実環境、いわゆるヴァーチャルリアリティを使った告白劇も今日で百戦、百敗だ。なんて屈辱的な記録。

 そして、実るはずのない茶番と分かっていても、痛いものは痛い。

「精がでるな。明日の準備?」

 不意に呼びかけられる。

 最悪だ。いま一番会いたくない相手が仮装環境VRルームの入り口で微笑んでいる。

 ヘッドセットをもとの位置に戻しながら、ミカは「ええ、ちょっと」と答えを濁した。

「無理するなよ」

 追及するでもなく、哲夫は隣のマシンに腰を下ろす。アナログ時計の針は今日の残りが僅かであることを示していた。

「あなたこそ、明日の準備?」

 二人が担当する大場夫妻の顔が浮かぶ。

 哲夫は営業部の期待の星だ。任される仕事が多いのは承知しているが、今から疑似入居体験のリハーサルだろうか。マシンを私的利用したミカに文句を言う筋合いはないが、少し働きすぎではないか。

「ああ。ちょっと、な」

 曖昧に笑うと、哲夫はあっけなく仮想世界むこうに飛んでいってしまった。清清しいほどにつれない態度。ミカは部屋を後にした。


 彼女が機械人形アンドロイドだという事実を哲夫は知らない。

 見た目はヒトそのものでも、ミカは故人〈真田美香〉の継承用機械人形アンドロイドだ。

 ミカが生まれるおよそ三十年前、つまりは二十一世紀の中頃に、ヒトと自然な会話のできる機械人形が一般向けに販売され始めた。今では高度な知的作業を難なくこなし、社会に欠かせない存在となった機械人形だが、中でも「継承用」は特別と言っていい。


「故人のままであること」


 それが彼らの存在意義だ。

 喪われては困る人物の内面・外見を精巧に模写して作られた彼ら、継承用機械人形は、故人そのままの振る舞いを見せ、物を言う。一方、周囲は彼らを亡き人そのものとして受け入れることで、故人の生前に近い状態がコミュニティにおいて維持される。社会の変化を緩やかにする便のような存在だ。

 その性質上「継承用」は積極的に正体を打ち明けはしない。ミカの場合も、事情を知るのは社長を始め最低限の関係者と、ごく近しい者だけだ。

 無論、誰一人知らずとも機械である事実が消えるわけではなく、その事実が度々ミカを悩ませていた。

 

 

 ミカは心を持っていた。


 それは内定式の日のことだ。盛大な二次会の後、一部の女子は真弓の部屋で女子会という名の三次会に突入した。

 自然と話は会社の男性陣に及ぶ。アルコールの効かないミカはひたすら聞き流していた。手の届かぬ話に素面で付き合うほど辛いことはない。なまじっか興味があるなら尚更だ。

「ね、ミカなら、誰が一番良いと思う?」

 酒臭さを纏いながら真弓が絡んでくる。肩に回された腕に眉をひそめていると、酔いの浅い子が見かねて声をかけてきた。

「真弓、あんた飲みすぎ」

「いいじゃない。ちょっとした好き嫌いくらい。同期でつがいになる可能性だってあるでしょ」

 つがい、か。

 私が機械であることを告白カミングアウトしたらどんな反応を示すだろう。


 ――人間と機械人形のつがい。

 確かに在る。恋人と死別した者が、相手の「継承用」と暮らす場合だ。だが、その例が唯一で全て。機械人形と知った上で対等なパートナーとして選ぶ者は皆無と言っていい。ミカの思う「つがい」とは、ハウスキーパーや暇つぶしのゲーム相手で成り立つものではないのだ。

「そうね、芦原さんかな」

 一番人気にあわせたとも、そうでないとも言える。自分が生身なら選ぶだろうと何気なく口にしたが、言ったそばから腑に落ちなかった。

 芦原哲夫は〈美香〉の好みとは程遠い。彼女から引き継いだ記憶に風貌の似た男性との遭遇経験はなく、数少ない交際相手にも似通うものは見当たらなかった。

「そっか、やっぱり芦原君か。でもねぇ」

「でも?」

「あの人、いるみたいだし。彼女」

 真弓の一言に場がざわめく。どこかで小さく悲鳴もあがった。

 そうか、恋人がいるのか。重心をおきかけた足を払われるような喪失感。それは、ミカとして初めての感覚だった。

「でも本気なら狙ってもいいんじゃない?」

「やだ、真弓。それって略奪愛?」

 誰かが茶化す。真弓は笑っていなかった。

「まだ結婚前じゃない。セーフよセーフ」

「まぁね。ミカなら美人だし、いけるかも」

 アルコールが支配し始めたのか、一同の盛り上がりは下卑た方向に加速する。ミカは苦笑いを浮かべつつ、早くこの剣呑な場が終わることを願った。


 その日以降、頭のどこかで哲夫のことを気にかけている自分に気づき、ミカは戸惑った。〈美香〉の意識なるものが存在し、ミカに干渉しているのか。ミカ自身のがそう感じているのか。胸を騒がせるもどかしい感覚、その源が掴めないのが苛立たしかった。


「『継承用』に自我を主張する個体がいる」

 著名な科学雑誌に発表されたその研究結果が扇情的センセーショナルに取り上げられたとき、ミカの驚きは周囲とは全く異なるものだった。

「私達には心があるものじゃないの?」

 それがすぐに少数派マイノリティの意見であることに気づき、ミカは口を噤んだ。

 人々は、機械人形をあくまで人工物として捉えていた。

 「継承用」とはいえ同じこと。膨大な知識を蓄えたデータベースと、行動原理を学んだ人工知能によって、外部からの刺激に故人同様の振る舞いを返すだけ――つまるところ機械ではないか、と。

 ミカには、人々の否定的な意見がヒステリーにすら見えた。

 言ってはいけない。心があるなんて。


 それから数年。

 自我を主張する機械人形について、未だ社会は扱いを決めかねていた。そこに人権は認められるのか。責任能力はあるのか。

 継承用であることだけでなく、心を持つことも秘密にする。思った以上に窮屈なことだった。このうえ、その心とやらに苦しめられるなんて。

 だから哲夫が入籍すると聞いたとき、ミカは心からほっとした。

 ほっとすることにしたのだ。


「お客さん、十時半だよね。大丈夫?」

「用意できてる」

 図面を整えながらミカは答えた。

 大場夫妻には何度かプランを提案済みだが、同業他社とも並行で話が進んでいることだろう。打合せやプラン作成にかけたコストを思えば決め時ではあった。

「今回の疑似入居、上の決裁早かったわね」

「また金利上がりそうだし早めに勝負かけておきたいんだろ」

 家が人生最大の買い物であることは昔から変わりないが、ここ数年金利は上がり続け、新築の需要を着実に押し下げていた。近頃はそれなりに裕福な世帯しか注文住宅に手を出そうとはしない。同業者はどこも必死だ。

「うまくいくといいけど」

 思った以上に悲観的な呟きになった。


 擬似入居体験自体は目新しいサービスではない。だが、当初は視覚的・音響的な体験に限られていた仮装環境も、いまでは嗅覚や触覚に働きかけるほどに進化した。屋内を吹き抜ける風の匂いや、足裏をなでるナラの無垢材の肌触りは、初めて味わう者にはそれなりの感動を呼び起こすレベルに達している。

 一方、現実と見紛うほどの環境を実現するために、使用するデータは膨大になり体験者にかかる精神的な負担も増えている。事前の準備や精神衛生にまつわる保険加入などかかるコストは低くない。ミカは及び腰だった。

「大丈夫。打合せ通りに操作してくれたら」

 哲夫は憎たらしいほど落ち着いている。

 駄目ね、私は。オリジナルの性格を忠実に引き継いで、慎重で物静か、ついでに自己主張が苦手。ミカは小さく息をついた。


 〈美香〉。オリジナルの彼女は生まれつき病弱だった。小学生になるのも難しいって言われたのよ、彼女の母がそう語る記憶があった。

 父母ともに覚悟を決めていたようだが、なんだかんだありつつもしぶとく生き続けた結果、独り立ちするまで育つことが出来た。内定を得たときの両親の喜び様といったらない。だからこそ、直後にミカが倒れたのは不運としか言いようがなかった。

 積もる心労のためか、若年性の認知症を患った母、定年直前で家事も覚束ない父。

 二人を残しては逝けないと、〈美香〉は病床の身ながら父を説き伏せ、医療保険の給付金をはたいて機械人形ミカに自分を継承した。入れ替わった後も、母には〈美香〉の死は伏せたままだ。

 ふと、ガラス戸に反射した仏頂面と目が合う。愛想の無い顔。

 人間味ホスピタリティ溢れる接遇は快活な哲夫に任せておけば良い。ミカはこの能面を背負って、出来ることをやるだけだ。


仮想現実VRの経験はございましたよね?」

「ええ、ちょっとだけ。長時間は怖くて」

 夫人は肩をすくめながら座席に腰を下ろす。花弁のようなまろみを持つ背もたれが、重みを検知して最適な形へと調整される。夫人の鼻から小さく息が漏れた。

「私は結構好きな口でね。映画なんか大体これで、二時間じっくり」

「あなた」

 お茶らけた口調を夫人が咎めた。はいはい、と口ずさんで氏も腰を下ろす。

 二人が落ち着いたことを確認すると、哲夫も案内人の席にすべり込んだ。身体を預ける間際、顔だけ振り向いてミカに微笑みかける。

 ――分かってる。

 相槌を打ちながら、ミカは哲夫の左手から視線を外せなかった。

 外されている。左手のリング。

 考えないと決めたのに、見るたびミカの心をかき乱し続けたものが。

「お二人とも、よろしいでしょうか?」

 哲夫の声に、慌ててミカはバイザーを装着した。仮想現実VR操作用のバイザーは頭に対して水平方向にドーナツ型で、内側が三百六十度、まるまるモニタになっている。視界をすべて覆わないのは、手元の別端末を扱うためだ。

「ご気分はいかがですか? 気持ちが悪かったりはしませんか?」

 哲夫の声が聞こえてきた。

 ミカの視界に広がるのは、大場夫妻の建築候補地だ。何度か現地を訪れたこともある。

「僕は大丈夫。君は?」

「問題ないわ。あら、造成始まってるのね」

 長時間は怖いという夫人の言葉を思い出し、ミカは顧客二人のバイタルをモニタでチェックした。穏やかな環境のためか、心拍をはじめ、みな問題はなさそうだ。

 ミカも長時間のVRは苦手だ。現実と見紛うほどの環境は埋没感が強く、底のない温水プールに飲み込まれるような感覚は恐怖以外の何物でもない。

「第一希望の土地を仮想立地としてあてがっておりますが、お望みに応じて候補地を変えることも可能です。このように」

 哲夫の声に合わせてミカが手元を操作すると、風景が目まぐるしく変わる。

 海の見える高台。繁華街そばの下町。緑ゆたかな郊外の農地。そしてふりだしに戻る。そこは、二十四時間営業のスーパーにほど近い、閑静な住宅街だ。区画も美しく整理されている。

「やっぱりここが一番だわ」

 夫人の感想に、氏も頷く。

「いつでも歩いて買い物に行けるからね。冷蔵庫要らずだよ」

 ははは、という氏の独り笑いをよそに「早速プランを」と哲夫が切り出す。ミカが設計データを起動すると、造成途中の土地が薄茶色のマサ土で覆われ、その上に白塗りの家屋が忽然と現れた。

 氏の口笛が部屋に響いた。仮初めと分かっていてもこの瞬間は胸が高鳴る。

「いいね、いいじゃない」と陽気な夫に相槌を打ちながらも、夫人は慎重だ。

「あら。外構は? 検討してなかったかしら」

「ご希望は確か、吉本造園ですよね。いささか事情がございまして。一応、出してみましょうか」

 外構に「吉本造園」を指定して更新する。

 にわかに芝地に枕木を埋め込んだ斜めのアプローチと、周囲を覆う石垣、下草、そして雑木が現れ、白塗りの和風建築を美しくあしらった。

「いいわあ。ね、あなた、やっぱりこの外構でいきましょうよ」

「そのことですが」哲夫が口を挟む。

「吉本は予約でいっぱいでして。最低でも一年半待ちで施工となります」

「それじゃ、引っ越して一年以上吹きっさらしってこと?」

「割り込みでの作業も可能ですが」

 哲夫はすかさず見積書を提示する。夫妻は「ふーむ」と腕を抱えた。吉本は人気の造園業者で、初期工程にねじ込むとなれば人足費用でそれなりにかかる。

 ミカは夫妻の源泉徴収票を思い返す。共働きでそれなりの収入だが、ミカの工務店が扱う規模では少ないほうに入る。静まりかけた空気に、哲夫が明るく声を掛ける。

「まずは中へどうぞ。プラン次第で予算はいかようにも変わりますよ」

 決まって予算オーバーするけどね。心で呟いて、ミカは視点を先に進めた。


 玄関を抜けると、磁器タイルを埋め込んだモルタルの三和土が広がる。正面には夫妻が友人から貰い受けるという予定のデッサン画がかかり、天井に埋め込まれた可動式のダウンライトに柔らかく照らし出されている。

 小上がりで丁寧に靴をぬぐ夫人を横目に、早速大場氏は中に上がり込む。「ほお」やら「はぁ」やら細かい感嘆がミカの視界の外から漏れ聞こえてきた。

「ね、あなたちょっと待って」

 先行した大場氏は哲夫がエスコートしている。ミカは念のため夫人を待った。

「せっかちなんだから」

 張りのあるふくらはぎが彼女の体を廊下の先へと進ませる。ふと気になって、夫人の経歴を確認する。〈美香〉よりやや年上だ。

 

 ――〈美香〉が健在なら似たような境遇にあったのだろうか。

 自分の生を〈美香〉の延長線上の生だとは思えないように、伴侶パートナーがいる未来を想像することはミカには出来ない。

 ――違う。「思う」とか「想像」なんてする必要ないことなのに。

 居室から聞こえる歓声に我に返ると、ミカは視点を前進させた。いつの間にか拳を握りしめていた。


「お二人は自由操作をご希望ということで、こちらが操作端末でございます」

 ソファに腰かけた大場氏に、哲夫がカタログを渡す。外見は電話帳大の冊子だが、歴とした仮想現実の操作端末である。様々な条件がカテゴリごとに見開き一頁分にまとめられ、細かく環境を調整することが可能だ。

 例えば「気象」のページ。気温・気圧・湿度から、晴れ・雨・くもり・雪・雷・台風といった天候まで用意されており、複合的に組み合わせることもできる。なんならダイヤモンドダストの再現だってたやすい。

「おお、いいね。選びたい放題じゃないか」

「あら。この壁紙素敵ね」

「まてまて、まずは全体の設定をだな」

 盛り上がる二人に「ごゆっくり」とだけ言い置き、哲夫は一歩下がった。この後の成り行きをすっかりお見通しといった具合だ。

 実際的な問題として、擬似入居体験で再現できる環境の組み合わせは無限に等しく、「気象」はその一条件に過ぎない。

 時間帯や季節を変えることも、外壁から壁紙まで細かに調整することも、地震や火災を再現して耐久性を見ることだってできる。将来的な見通しのため、仮の子供や両親を実体化させて、共同生活を体験することも可能だ。老いた体での住み心地を味わうことも容易い。

 そのような至れり尽くせりなシステムだからこそ、自由操作は難しいのだ。

 洗面台の蛇口一つとっても、幾百の選択肢が存在する。ある夫婦は初っ端に畳を選ぶところで挫折し、別のハウスメーカーの建て売りへと流れてしまった。

 そういった失敗を糧として、ミカの工務店では「案内人が推奨する環境」を提示したうえで、好みやプランに沿った最低限の変更を行うに留めているのだ。

 ――ちゃんと説明したんだけどね。

 ミカは息をついた。

 それでも自由操作を望む顧客がいるのだ。大場夫妻もそうだった。自分たちの判断に自信があるのだろう。うまくいけばいいけど。

 ミカが考えを巡らせている間に、場は期待とは真逆の姿を見せつつあった。

「だから、最初から細かい点を考えてもしょうがないよ。まずは一番長く過ごすリビングで、春夏秋冬、朝昼晩、晴れ曇りのち雨の状況をじっくりと味わってだな」

「それひとつずつ味わっていくの? それだけで三十六通り、ひとつ五分でも三時間かかるわ。そういう移り変わるものに影響されにくい部分から見ていくのが絶対良いわよ。例えばキッチンとか」

「君が見てるのはキッチンに貼るタイルだろ? それだって、十ミリ角から百ミリ角までミリ刻みで見ていくのかい? そっちの方が時間が足りないよ」

 いずれも譲らない。哲夫が仲裁に入る。

「部分的であれば同時並行での操作も可能ですので、もう一つ端末をお出ししましょうか」

「二人で見ないと意味無いだろ?」

「でしょう?」

 息のあった切り返し。仲が良いのか悪いのかわからない。きっと良いのだろう。

「ねえ、こっちの予備室って必要かしら。ここを削っちゃえば基礎も減るから、ほら値段がぐっと安く」

「人数が増えたらどうするんだよ。増築は不恰好だぞ。君の嫌いなやり方だ」

「子供一人二人くらいなら入り口の和室を改装できるようにしておけばいいじゃない。小さい頃は一緒の寝室で良いんだし」

「そうじゃなくてほら、親父とかお袋とか」

「――同居?」

 夫妻が視線を交錯させたまま固まる。

 手元の資料に拠れば大場氏は一人っ子だ。避けることのできない話だが、いま議論することではない。

「土地の購入もまだですし、間取りはギリギリまで柔軟に対応させていただきますよ」

 哲夫のフォローも空しく、夫妻は喧々諤々の論戦に突入した。こうなると、大抵時間がかかる。

 嘆息しながらミカの視線は自然と哲夫の左手に行きついた。薬指の跡は、こういった夫婦喧嘩の産物だろうか。

 指輪を外すほどの諍いって? 胸に沸き上がる暗い喜びを、ミカは首を振って追い出した。いけない、こんなこと考えちゃ。しかも仕事中に。

 ミカは装置を外して深呼吸した。生身の体より自律神経のコントロールは容易い。もうすぐ副交感神経系が優位になって、乱れた気持ちを整えてくれるはず。

 だけど。

 ミカは思う。この波立った気持ちこそが、ミカそのものではないのか。いつだって平静さに近づけば近づくほどミカは〈美香〉で塗りつぶされていくような、安心感と寂しさがない交ぜになった感覚にとらわれる。

「結局、あなたって自分のことしか考えてないじゃない! 何かと言えば書斎とガレージのことばっかり。家はあなたの趣味のためにあるんじゃないのよ?」

 漏れ聞こえる喧騒にミカはバイザーを被りなおした。口論はいよいよ白熱していた。

「デザインは任せてって言ったのは君だろ? 良かれと思ってたまにアドバイスすればすぐむくれるし」

「あなたの指摘はいつも的外れなのよ。とりあえず『かわいいね』って言ってれば済むと思ってるし」

「それは、君の好みが抽象的だから」

「ほら、すぐ人のせいにする!」

 いつの間にか、仮想空間は当初の面影を完全に失いつつあった。

 建蔽率の限界まで間取りは拡張され、窓は無暗に大きく、間接照明がところ狭しと配置されている。キッチンは高級仕様なのに、背面収納は自作出来そうなスチールラックだ。無垢材の床と漆喰の壁がリビングを満たしているかと思えば、寝室はコンクリート打ちっぱなし、なぜか床はワンルームにありそうなクッションマットが引かれている。

 なんてちぐはぐな空間。ミカが呆れて眺めていると、夫人がやおら氏に詰め寄った。操作端末の取り合いだ。

「もう、それ貸して! 私が全部やるから」

「書斎だけ先にやらせろよ。後は任せるから」

「引っ張らないで! 変になるでしょ?」

「それは君が引っ張るから!」

 言い合っているうちに妙なところを触ったのか、端末を奪い合う二人の周囲で、世界はめまぐるしく変化する。

 外は煌々と日が照る中で雷雨となり、たちどころに夜が来たかと思えば、子供のはしゃぎ声に小鳥のさえずりがハミングする。庭の雑木で蝉が羽を震わす中、葉には雪が積もり、ダイニングでは見知らぬ老夫婦が凍ったままの食パンを旨そうにかじっている。和室の天井が膝丈くらいまで下がり、中からニャアと鳴く木魚が這い出てくると、玄関口のカーテンに突進していく。

 場は混沌を極めていた。

 と、哲夫がにわかに振り向くと、その右手を軽く振った。合図だ。

 ミカは手元のボタンを押下した。


 春の陽光が窓際の床に反射されて柔らかに室内を照らす。L字型に組まれたソファに大場夫妻が肩を寄せ合っていた。

「お客様。お客様?」

「うーん」

「あら?」

 哲夫の呼びかけに二人が目を覚ます。室内は初期状態に戻され、先程までの騒ぎが嘘のように静まりかえっている。

「これは、どうしたことだ」

「全部戻ってるの?」

 憑き物が落ちたように二人は室内を見回し、最後にお互い顔をつきあわせた。

「仮想現実への命令が輻輳して、マシンが熱暴走してしまいました。申し訳ありません」

 嘘だ。

 強制終了して初期状態に戻したのはミカ。事前に哲夫から指示をもらっていた。

合図をしたら止めて、戻せ、と。

「バックアップを取っていますので、先ほどの状態に戻せますが」

 いかがいたしましょう、と哲夫が微笑む。

 夫妻は吹き出し、しばらくのあいだ笑いあっていたが、やがて穏やかな室内の様子を黙って眺め、ひそひそと言葉を交わしはじめる。実に仲睦まじそうに。

 何よ、さっきの喧嘩は。静かに流れる時間に、ミカはひとり焦れていた。

 ややあって、大場氏が口を開く。

「いや、失礼しました。何だか最初の状態がとても快適で。変にいじるのもバカバカしいと思えちゃって」

「もう少し話し合うことはありそうですけど、このプラン気に入りましたわ。ね、あなた」

 夫人が差し出した手を、氏が優しく握る。そこに髪を振り乱して争った面影は露も無かった。肩透かしをくらったように、ミカは呆然とモニタを眺めていた。

「これは紛うことなく、お二人が望まれたプランですよ」

 哲夫の穏やかな口調が遠くに聞こえた。


 夫妻の帰宅後、ヘッドセットの調整をしながらミカは尋ねた。

「うまくいくって、確信があったの?」

「いやぁ、なんとなく」

 夫妻の記録映像を何度もリピートしながら、哲夫は楽しそうに笑っている。「悪趣味」と指摘しても意に介さない。その手にはサイン済みの施工契約書があった。

「ひどいことになるのは予想できたからね。最後に一番のお勧めシーンを見せてあげれば、気に入るかな、と」

「待って。じゃあ、あの初期状態って」

 ミカは目を剥いた。

「そう、大場夫妻向けの推奨環境。プロデュースドバイ、俺」

「あきれた」

 両手を挙げておどけたが、哲夫は真顔だ。

「VRはあくまでVRさ」

「だからって」

「選択肢を全て検討したって、現実は一通りだけ。それだって確実じゃない。手ひどく裏切られることすらある」

 その目は既にモニタを見ていなかった。

「ねえ――」

 『何かあったの?』とは聞けなかった。だが、左手に向けられた視線に気づいたのか、ひとつ苦笑して哲夫は口を開いた。

「俺さ。プロポーズの前、何度もシミュレートしたのさ。こいつで」

 指で突かれて、モニタが軽い音を立てる。

「全戦全勝だった」

「そう」

 ミカは視線を背けた。真逆の結果が苦く思いだされる。

「現実でも彼女は結婚を承諾してくれた。この結婚に落とし穴なんてないって、そう信じていたさ」

 信じていた?

「仕事柄、若いうちに家を持とうかって相談して、一度使ってみたんだよ。二人で」

「それ、正規ルートかしら」

「内緒な」

 二人して、少しだけ笑う。

「途中までは問題なかった。でも予備室を作るあたりから妻の様子がおかしくなってね。言われたのさ、『私はあなたとの子供を授かれないの』ってね」

 背筋が凍るようなひと言。その原因が二人のどちらに拠るものなのか、想像することも憚られた。

 子供が欲しいんだ、俺。

 ミカは目を閉じる。あの哲夫は虚像だと分かっていても。

「VRから覚めてもわだかまりは消えなかった。それから何度か衝突して。つい先週さ。別れたのは」

 ミカは息をのんだ。胸の奥がせりあがってくるような、吐き気にも似た感覚がある。

「それからまた何度か試したんだけどさ、やっぱり全戦全勝なんだよ。笑っちゃうだろ」

 そう言って哲夫はまた微笑む。こいつは、ともう一度マシンを小突くと「未来を約束してくれるわけじゃない」と口を結んだ。

 その横顔に突き動かされるように「ねえ」とミカは呼びかけた。

 もう止まらなかった。この想いが〈美香〉にまつわるものだろうとそうでなかろうと、何か口にしなければ収まらないものがあった。

 まくしたてるミカの前で、哲夫の顔が仮想現実と同じように戸惑い、曇り、俯き、やがてその口が開いた。

「気持ちは嬉しいけど、ごめん」

「うん」

 分かっていたことだ。

「子供が作れないんだ、俺」

 同じようで、違う答え。

 ミカは思わずこぼしていた。私は子供が欲しいんじゃない、あなたのパートナーになりたいの、と。

 哲夫が僅かに目を見開き、そしてまた俯いて首を振った。

「俺は、機械人形なんだ。継承用の」


《了》


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