第4話

 全身、到るところの感覚が抜け落ちている。肉体的に辛かったのは下腹の一発だけで、傷も負っていないのに怪我でもしたような気分で体が怠い。

 アタシは体を支える後ろ手に力を込める。

「あとは、アイツにどうやってとどめを――」

 上半身を真っ直ぐに起こそうとするのを中止して、ゆっくりと目の前に左手を持ってくる。

「――左手首から先も持ってかれてる……?」

 アタシの放ったカウンターは刹那の時間だったはずだ。あの直後に持っていかれていた。

「納得いかないぞ……」

 手首に残った感覚しかないため、どれだけのダメージを与えたかは分からないが、アスファルトの地面に歪みを叩きつけたのは間違いないはずだ。

「右手は体重を掛けて打ち貫いて、左手は相手のスピードを利用したカウンター。両者とも地面を利用して衝撃が逃げないようにした……」

 カープに教わった物騒な戦い方の中でも、危険極まりないものを選んで使ったはずだった。人間相手ではないから手心だって加えていない。

 しかし、相手にしていた幽霊は、こちらの予想を遥かに超えた存在だった。

「人間なら確実に病院送りにしている威力なのに……!」

 歯を食い縛り、感覚のない左手と右手を視認しながら動かし、感覚のある左足を軸に立ち上がる。


 ――残った左足だけで延髄蹴りなんて叩き込めないぞ。感覚のない右足でバランスを取って体を支えて戦うなんて出来ない。


 普段していることが肉体の感覚から抜けるだけで、立つことを維持するのも頼りない。動いているはずの自分の身体がまるで信用できない。

 もぞもぞと緩慢に動き出した歪みに視線を向けるが、こっちはアレ以上に身動きが取れなさそうだ。両手は使えない。右足も使えない。奥の手のカウンターでも動きを止められなかった。

「……不良五人に囲まれる方が、よっぽど勝ち目があるな」

 感覚を返さない両手に視線を落とす。普段通りに脳から命令を出して動くことは動く。感覚を無視すれば、だが。

 それよりも……。

「この状態で殴れるのか?」

 両手を頭の上に居るカープに持っていくと、両手はスカスカと空を切る。僅かに喰い残された左手首に残るエネルギー体がカープの体に僅かだけ引っ掛かるだけだ。

「やっぱり……か」

 幽霊であるカープに触れられなくなっている。

 つまり、あの歪みにも触れられない。

「エネルギー体が残ってる頭で……頭突きでもしてみるか」

 見えない口の中に頭を突っ込む?

 手足の感覚がなくなるのと違い、頭には視覚、嗅覚、聴覚と、感覚の中でも大事な器官が密集している。その器官がなくなれば、今度こそ、もう何も出来ない。

「それは、しちゃいけないだろ。考えろ……」

 眉間に皺を寄せ、目蓋を閉じて思考する。

「考えろ、アタシ……」

 しかし、目を閉じても集中できない。目を閉じることで無くなった感覚の方へ意識が引っ張られてしまう。

 頭を振って目を開け、歪みへと視線を向ける。

「こっちの方が、まだマシか」

 体はスクラップ寸前だ。肉体は傷ついてないのに、エネルギー体を喰われて魂と肉体の一体が維持できなくなっている。

 しかし、それでも胸の奥の方は熱く、頭で分かっても戦う意思を捨てていない。

「コイツに触れられるのはアタシだけなんだ……」

 だけど、戦う手段がない。

「っ!」

 何も出来ないことに奥歯を噛む。コイツを野放しにすると、エネルギー体を喰うために誰かを襲うに違いない。

「しっかりと立てよ! アタシ!」

 感覚のない両手で両膝を叩く。喝を入れ、左足は力が入るが、右足の足首から先の反応が返らない。

「それでも、立て! 動け!」

 左足に体重を乗せ、右足は支えるだけ。でも、無理をすれば動くのだ。

「普段していることをするだけだ! 感覚はなくても信頼して信用して動いてくれた体なんだ! アイツを止めるために、もう一度だけ動いてくれ!」

 いくら思っても、思い通りには動かない。例え動いても、左足一本で何が出来るわけでもない。


 ――でも、放っておけない。放っとけないのに……。


 悔しさに、唇を噛むことしか出来ない。


 ――その時、誰かが頭に手を置いたような気がした。


 だけど、置かれたのではない。アタシの頭を蹴ったそれは、突然、目の前に舞い降りる。ちょこんとしながらもふてぶてしい後ろ姿は、アタシが弱気を見せるといつも見せていた。普段は無愛想で何もしないくせに、ここぞという時には守るように小さな背中を向けるのだ。例え、自分が相手に分からず、触れられたことに気付かれないとしても……。

 それは振り向き様に小さくゲップをすると、『自分を見ていろ』と言わんばかりに視線を歪みに向けた。

 呆然とアタシはそれ――カープの背中を見続け、ハッと我に返る。

「カープ? いや、そんなことよりも……ゲップ?」

 カープがそんな御行儀の悪いところを見せるのは初めてだ。そもそもこんな時に、何がカープのお腹を満たして満腹にしたのか?

 混乱気味のアタシを無視し、カープは戦闘体勢に入っていた。小さな体を震わせ、子猫でありながら牙を向き、獲物を見据えて威嚇する。

 そして、剥き出しの闘争本能から放たれる気を表わすように、いつの間にか、辺りはカープから噴出される霧のようなもので蔽い尽くされていた。

「一体、何が……」

 カープと歪みがどうなっているのかを必死に確認しようとアタシは目を凝らし、そこに一陣の風が吹き抜ける……。


 ――霧が吹き飛ぶと、そこには翠色の瞳に揺らめきを灯す、雄々しい肉食獣の姿があった。


「……その姿は――」

 どう見ても、子猫ではなかった。カープが成長した姿と思えば、しっくりと来る白い体に黒い縞。だけど、成長した姿は猫ではない。

「――虎だ」

 アタシの口から漏れた言葉と同時に、カープが歪みへと飛び掛かる。大きな体で歪みに体当たりをすると、前足で歪みを踏みつける。

「カープ、ダメ! そいつは踏みつけた足を食べ――」

 言葉が止まった。

 カープの力強い足が爪を立てて踏み潰すような動きをしている。アタシを食い破っていたであろう口の中にカープは自ら足を突っ込み、爪を立てているのだ。

「そうか……本来、口の中なんて一番無防備なところなんだ。そんなところに爪なんか立てられたら――」

 そう、口を閉じるどころではない。

 カープの体躯は見た目からも重そうで、跳ね飛ばすなんて出来そうにない。鰐人間のような姿をしていた歪みがカープを退かすには、人の腕ではあまりに細い。

 大きく口を開き、カープは足元で暴れる歪みを見定めると牙を突き立てた。捕食する動きではない。あくまで戦いのための、息の根を止めるための動き。首を振り、歪みに決定的なダメージを与えるとカープは歪みを空中に放り投げる。そして、落下する歪みを鋭く伸びた右の前足の爪で切り裂いた。

「あの前足……虎のものじゃない」

 爪が飛び出る仕組みは猫科のものと同じと思うが、収まっていた爪は強靭で刃物のようだった。

 数瞬後、何者かの断末魔が響き、アタシは耳を塞ぐ。

「っ! 霊の声が聞こえるなんて……!」

 幽霊の声が耳に届いたのは初めてだった。ビリビリと空気が震え、視線の先では歪みが黒い霧に変わって風に流されて運ばれているところだった。

 カープは、それの行く先を確認するように目で追っていた。

「終わった……の?」

 あれだけ苦戦していたのに終わりはあまりに呆気なく、アタシは事の終わりを認識できないでいた。

 しかし、アタシが認識できなくとも終わりを迎えた通学路は重い空気を祓って、いつもの通学路へと戻り始めている。目覚めたばかりの危険回避の勘も、歪みの消滅に合わせるように危険レベルを下げていっている。

 やがて黒い霧が完全に流れきり、呆然と佇むアタシのところに敵を仕留めた白い獣がゆっくりと近づいて来る。

「カープ……」

 そのカープの姿が徐々にハッキリしてくる。薄っすらと透けていたカープの体が動物の毛皮と変わらない質感に変わり、向こう側が見えなくなる。

 アタシは自分の右手に目を落とし、無くなっていた霊感が戻ってきているのに気付いた。

「……何で?」

 視線を前に戻せば、大きな姿に変わってしまったカープが以前と同じくふてぶてしい態度で瞳に映っていた。後ろ足を折り畳み、前足を地面に着け、アタシと視線を合わせている。

 変わったようで、何も変わっていないように見える。

「……違う」

 アタシは首を振る。姿以外に大きな違いがある。

「カープ、あの癖は?」

 カープは口を閉じて、ただ静かにアタシを見詰めていた。

「いつも、口をパクンパクンってしてたよね?」

 カープは目を逸らさずにアタシを見続けるだけだった。

「……あ」

 カープを見続けていたアタシは視線を自分に戻し、右手を見て、左手を見て、右足を見る。

「どういうこと? 異常な速さで喰われた手足の感覚が戻ってきてる」

 過去、喰われた箇所の感覚が戻るのには数日を要していた。こんなに直ぐには戻らない。それなのに、両手も、右足も、腹部も、既に薄いエネルギー体が覆い始めていた。

 しかも、それ以外の体の箇所は、エネルギー体の厚みが増している。

「昔よりも霊感が強くなってる気がする……。まさか――」

 アタシはカープを見る。

「――カープがアタシの力を食べていたから幽霊が見えなくなっていた?」

 それ以外に考えられない。全てが終わって、足りないピースが埋まって辻褄が合う感じがした。

 アタシは両手を両膝に当ててカープに顔を近づける。

「カープ、君のせいなの?」

 カープは何も言わない。いつも通りのふてぶてしい目を向ける。

「カープが助けてくれたんだよね?」

 カープは何も言わない。『当然だ』というようなふてぶてしい目を向けている。

「またアタシの味方になってくれたんだ……」

 何も出来なくなってしまったアタシのために戦ってくれたカープに目を向けられなかった。少し自分が情けなくて、反面、カープが助けてくれたことが嬉しくて……恥ずかしい。

 でも、自分の気持ちを言葉にしないと……。

「カープ……ありがとう」

 その言葉に、カープが口を開く。

「わん!」

 初めて聞くカープの鳴き声に、アタシは思わず顔を上げて固まる。

「…………」

 バッチリとカープと視線が合い、その沈黙の間、カープの鳴き声が頭の中をリフレインし続ける。

 やがて、アタシは笑いを堪えることが出来なくなった。

「フ…ハハハ……。何だよ、それ」

 完全な不意打ちだ。何年も鳴かず語らずで居たのに、『わん!』と鳴くだなんて。

「一体、君は何なんだろうね?」

 腕を伸ばしてカープの喉元をゴロゴロと撫でると、カープは目を細めて尻尾を揺らす。

「詰まらない質問だったね。そんなことは決まってる。アタシ達は最高の友達……だよね」

 無愛想な君が側に居てくれるだけで、アタシは嬉しいんだ。

 アタシはアタシにしか見えない友達に笑みを浮かべた。

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