第3話
見えざる者に対して、今のアタシは普通の人々にも劣る状態だ。
カープ以外の幽霊を見ることが出来ず、普通の人々に備わる見えなき者を回避する勘も備わり始めたばかりで使い慣れていない。
「弱点だらけじゃないか」
目の前に居る歪みは力を失っているアタシにさえ、存在を分からせるぐらいにヤバイ存在だ。
せめて、姿を見ることが出来れば……。
「かつて忌み嫌っていた自分の力を、今は喉から手が出るほど欲してるって……。アタシは何処まで自分勝手な奴なんだよ」
右手を歪みに向けて伸ばし、殴りつける標準をじっくりと合わせる。利き手と逆の左手を握り込み、体を前傾姿勢に倒し、左足を後ろに地面を蹴る。
――コイツを殴れる力だけは残ってろよ!
そう念じ、歪みに向かって左拳を捻じ込む。
手に返る感触は昔と変わらない。歪みが後方に退き、アタシの幽霊に触れる力までが失われていないことを証明した。
アタシは唇の端を吊り上げる。
「まあ、カープを抱いたり愛でたり出来る時点で、八割方は予想の範疇なんだけどな――」
脂汗が額と頬を伝い、その場で左手に目を落として舌を打つ。
「――だけど、こっちの方は最悪の予想が当たっちまった」
左手の手首から肘までが、ジン……と痺れている。感覚で言えば、血液を止めて痺れた状態が一番近い。左手を握ると手首から先はしっかりと感覚があり、運動機能には何の支障もない。
アタシは歪みに視線を戻す。
「コイツは喰うタイプだ」
喰うタイプの霊……アタシが会って来た中でも、相当始末に困る類のものだ。言葉の通り、奴らは食べるのだ。
霊についての専門家ではないため、詳しく説明は出来ないが、それでも言葉にするなら、こうだ。
まず知っていて欲しいのは、アタシ達の体は大きく分けて二つ存在するということ。体を動かす肉体と体に重なっているエネルギー体。肉体については誰もが共通に動かして感じているため、説明は必要ないと思うが、後者のエネルギー体というものは説明が必要だろう。
誰しも肉体とエネルギー体を持ち、肉体とエネルギー体は重なり合って一つとして存在している。きっと、魂とか幽体とかと表わすように肉体とエネルギー体は二つで一つなんだと思う。
幽霊というのは肉体を失っているにも拘らず、エネルギー体だけが存在するものを言い、アタシが見ていたのは、そういうものだ。
断わっておくと、アタシもエネルギー体というのを正確には分かっていない。ただ普通の人と違い、アタシはエネルギー体を見ることができ、そのエネルギー体を見ることが出来る=幽霊が見えるということに繋がってくるのである。
そして、今居る幽霊はエネルギー体を食べるタイプの幽霊であるということだ。
「この喰われ方は拙いな」
喰われた左手を見ながら奥歯を噛み締める。
喰われている範囲が大き過ぎる。人間の大人の口角を遥かに凌駕した大きさだ。
「……何度か喰われたことはあるけど、コイツは別格だ」
アタシは鋭い視線を歪みへと向け、ますます持って失った力の存在を大きくする。
殴りつける際に相打ちで喰われる覚悟はしていたが、これは割に合わない。一回殴りつける度に片腕の肘から先を持っていかれていたら、いずれエネルギー体を全て喰い潰されてしまう。
「……何より、エネルギー体ってのを全部喰われるのは、死に直結する気がするんだよな」
肉体を動かすのに必要な栄養は、食べたものを肉体の糧として補給することにある。
――では、エネルギー体の栄養は、何処から持ってくるのか?
それが、よく分かっていない。分かってはいないが、アタシは昔からの言葉から予想をつけている。それは『病は気から』と『健全な肉体には健全な魂が宿る』である。
気持ちの持ちようによって病気になったりならなかったりと、気持ちが肉体に影響を与える『病は気から』。『健全な肉体には健全な魂が宿る』というように肉体と魂の在り方を一緒にする例え、これは肉体と密接に結びつくエネルギー体のことを言っていると思われる。
――気持ちや意思の強さが魂の強さとなって、エネルギー体へ栄養を持ってきているのではないだろうか?
故に、エネルギー体が魂に直結していると考えるなら、エネルギー体を全部喰われるということは第二の自分を食われるということになり、肉体とエネルギー体が二つで一つである以上、片方を失えば、もう片方も自然と死を迎える。
「まあ、例外があって、肉体が先になくなっても強い魂を持っていれば現世に留まり……幽霊なんていう見えざる者になるってことなんだろうよ」
これがアタシの導き出した答えである。
この答えに従って目の前の歪みを分析するなら、歪みはアタシのエネルギー体を食べて栄養を補給する存在で、自分の魂の強さで自分を保っていられない。
もしくは……。
「エネルギー体を採取する方法を覚えてしまった危険な幽霊か。間違いなく、こっちの方だよな。幽霊で何百年も居続ける奴も居るんだから補給なんていらない」
大きく息を吐き出し、自分が完全に気が緩んでいなかったことに少しだけ安堵する。戦闘方面に関しての分析段階では冷静でいられている。
利き腕は、今のところ無傷だ。コイツが喰うタイプかもしれないと、保険を掛けといて良かった。
「さて……見えない敵の見えない口を回避して、どうやって退治すればいいのか」
利き腕を守って左腕を喰われてまで得た情報は、状況が悪いことを伝えるだけで活路を見出すまでには至らない。歪みはゆっくりとアタシに近づいて来ている。
まるで好きなだけ抵抗しても構わないというように……。
…
右の頬の汗を右手で拭い、アタシは戦うための情報を整理する。
消え掛けている霊感の宿る目が伝える歪みの大きさは、アタシの身長とさして変わらないという曖昧な情報だけ。顔面を殴るつもりで突き出した左手の喰われ方から、殴った後で伸びきった腕を肘から手首まで一口で横からやられた。歪みの口角は鰐ぐらいあるのだろう。
また、歪みの揺れ具合から、歩き方は四足ではなく二足の直立歩行であることも、何となく判断が付く。
「イメージは鰐人間か――」
見えない者をイメージし、嫌な想像がアタシの頭を支配した。
「――でも、相手が人間型なら戦いようもあるか」
情報の整理を終えて、戦うべき相手に向きを直す。
「…………」
落ち着いている自分が分かる。不良少女のレッテルにより獲得した不必要な経験が役に立っている。
「行くか」
ゆっくりと歩み寄ってくる歪みに向かって駆け出し、慎重に歪みと自分の距離を確かめながらタイミングを計る。
頭を下げて……まだ……まだ……もう少し……。
お互いの近づくスピードは変わらない。不利な状況で唯一の漬け込む隙。歪みが、まだ油断しているところ。
「ここ!」
接触の刹那の一歩。同時に右膝を曲げ、アタシの体は沈み込む。
屈んだアタシに大きな口を届かせるためには、歪みは前かがみにならなければならない。歪みが前方に傾く。
――この瞬間を待っていた。
アタシは左足を前に滑らせ、地面に両手を着いて体を支える。
「ッラァ!」
右足を振り抜き、予想していた空間に歪みの両足を蹴り飛ばした衝撃が伝わる。
「やっぱり、自分の足までは口が届かない!」
地面を両手で押し上げて体を持ち上げ、直ぐに立ち上がって右足で倒れた歪みの背中を踏みつける。
そして、温存していた右手を振り上げる。
「いっけぇぇぇ!」
歪みの腹には地面。このまま体重を掛けて右拳を振り下ろせば全てが終わる。
倒れ込むように放たれた右拳は、何かを押し潰しながら歪みに減り込んで地面へ近づく。人間相手なら危なくて使えないぐらいにアタシの拳は深々と突き刺さっていた。
拳、肘、肩と真っ直ぐにロックした間接は一点に力を集約し、アタシの右腕には確実に重い何かを抉り抜いた衝撃が伝わっている。
ゆっくりと右足を上げ、右腕を引き上げたアタシは、よろめきながら左足で体を支えて、近くの壁に体重を預ける。
「……失敗した」
確かに右手の拳から肩に掛けて最高の一打を放った感触は残っているのに、右足のつま先から足首までの感覚が麻痺し、右腕に至っては肩口近くまで感覚がない。
「……っ!」
右手を顔の前に持っていき、手を開いて閉じる。肉体を動かすのには問題ないが、自分が力を入れているのかが分からない。右足も立っているのに、足首から先から返って来る感覚が何の情報も伝えてくれない。
「一体、アタシはどんなのと戦っているんだ……。仰向けに倒したはずなのに、背中にも口があるぞ?」
右足の感覚がなくなって素早い動きの出来なくなったアタシに、歪みがゆっくりと体を起こして体を向ける。
直後、アタシの腹部に鈍器で殴られたような衝撃が突き抜ける。
「ぐっ!」
無様に後ろに二、三歩後退して尻餅を付いた。
「……あの口、伸びるのか……!」
殴られたと思った腹部の感覚がなくなっている。
「サディストの霊め……! ゆっくりとアタシを仕留める気だな……!」
初めから口は何処までも届いていた。だけどそれをせず、状況を楽しんでアタシに一発入れさせたのだ。『お前など、いつでも倒せるのだ』とでも言うように。
左手で浅く抉られた腹部を押さえ、感覚のない右腕と右足で地面を支えて立ち上がる。
「体のあちこちで感覚がぼやけてやがる……。残った左足と左手で仕留めるには、感覚のない右足で無理にでも踏ん張らないと……な!」
さっきよりも、嫌な汗が流れ落ちている。疲れていないのに、体がぐったりと重い。
バランスを取るため、踏み込んだ右足首が正確な情報を返さない。ジンと痺れているという情報だけが返って来る。
バランスを取るために頼るなら、感覚の返る背筋の伸び方、両肩の水平感覚に頼る方がいい。手足の情報でバランスを取ろうとすると混乱する。
普段の自分を真似るような妙な感覚。普段通りを模倣し、背筋と両肩の位置がいつも通りの場所を意識して体を固定する。左手首から左肘は無視して、目視で左拳の位置を決める。右側は立っていることが分かればいい。
構えは出来た。あとは、このポンコツ寸前の体をどう動かすか、だ。
「拙いね……。アタシの身も危ないけど、こんなのを放っておけば誰かが傷つく。普通の人にいくら危険を回避する勘があっても、追って来られれば逃げられない」
ここで何とかしないといけない。
「……はは」
口から自嘲めいた笑いが零れる。
――どうなってんだろうね、アタシって……。
こんな状況なのに、まだ戦おうとしている。何を考えているのか。
「でもさ……。やっぱり、放っとけないんだ」
さっき口走った『誰かが傷つく』という言葉で、アタシは思い出してしまった。
――カープ以外にも、アタシを嘘つきと言わないで居てくれた人達のことを。
「誰にだって、大切な人が居るんだもんな……」
カープ以外の存在――言うまでもなく、いつもアタシと過ごしていた家族である。
「父さん、母さんに弟……」
アタシを受け入れてくれる人達。周りが嘘つき呼ばわりしてもアタシを信じてくれた父さんと母さんにアタシは救われ、無邪気に接してくれる弟のお蔭で自分が普通だと思うことが出来ていた。
父さんは見えない人が見えるというアタシの言葉を信じてくれて、インターネットで子供の頃には幽霊を見える子が居るという事例を探してくれた。アタシだけが特別じゃないと教えてくれた。
母さんは優しく言葉を掛けてくれて、この街には、偶々子供の頃に霊が見えてしまうのはアタシだけだと言ってくれた。
弟は、変わらず『お姉ちゃん』と慕ってくれている。周りがアタシを嘘つきだと言っているのをちゃんと知っていても……。
「カープに会った時から孤独じゃなくなったわけじゃないんだ……」
――その大切な人達が傷つけられるかもしれない時、アタシは傍観者で居られるだろうか?
――傷つけられて、心に深い傷を負うのはアタシだけだろうか?
「……っなわけない」
アタシに家族が居るように、他の知らない誰かにも大事な人が居る。
だから……。
「どうしても、コイツは野放しに出来ない――」
残った左拳を握り締めると、しっかりと手首から先は感覚を返してくれる。拳もしっかりと握り込めている。
「――まだ戦える!」
拙い(つたない)感覚しかない体でも、真っ直ぐに背筋を伸ばし立って見せる。アタシの闘志は些かも衰えていないことを証明するように視線を向ける。
再び戦う意思を目に宿したアタシに、薄ら笑いを浮かべているだろう歪みが動きを止めた。
「満身創痍の女子中学生に、何をビビッてんだ……。アタシは押せば倒れるぞ」
ついでに鼻で笑ってやると、歪みのプライドを傷つけたのか、歪みが小刻みに震え始めた。
更に歪みを挑発するようにアタシは痺れた右手で人差し指をクイッと動かし、掛かって来いとアタシを指差す。
その挑発に乗って、小刻みに震えていた歪みがアタシに飛び掛かって来た。
「ありがたいね……。これがイタチの最後っ屁ってヤツだ。取って置きを見せてやる」
どんなに頑張っても、動けるのは左足を軸に数歩分。アタシに出来るのは感覚を返さない右足を思いっ切り蹴って左足で最後の調整をして、次の攻撃に繋げるぐらいしか出来ない。
「……タイマンでも危ないから制限してるんだけど、言ってる場合じゃないからな」
動けないアタシに体をぶつける勢いで歪みが迫る。延びる歪みの何かを右前方に体を傾けるだけの最小限の動きで躱し、感覚のない右足を蹴って体を支えると同時に前方へ勢いをつける。
左肩と曲げた左腕を筋力でロックし、足、腰、肩と連動させて歪みの胸を巻き込む。
最後は上半身のバネを追加で加え、地面に向けて振り切るのみ!
「カープ直伝のカウンターだ!」
空気が弾け、地面で弾け、二連続の炸裂音が間を置かずに響く。
相手の向かう力を利用した分、さっき以上に、左手にはずっしりとした何倍も重い感覚が返る。男性教師をぶっ倒してからの第二弾のぶっそうな戦闘術だ。
ちなみにこれは体格の違い過ぎる男子上級生とタイマンする時にカープより伝授されたもので、使用後、『これ、危ない……。相手も自分の手首も……』と、封印したものでもある。
「どうだ、この野郎!」
啖呵を切ったが、感覚のない右足を踏み込んだのは悪かった。途端にバランスが崩れて千鳥足になる。
足元の歪みからフラフラと離れてアタシは尻餅をつき、両足を投げ出し、両手を後ろにして体を支えて空を仰ぐ。
「へへ……。アスファルトにキスさせてやったぞ……」
アタシは両肩を上下させて、荒く呼吸をした。
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