八頁 夏に散る向日葵
――散りゆく向日葵の中で幸せを抱く
――「私」に与えられた幸せは、慎ましやかに嫁ぐことであった。
美しい着物を着て、美しく紅を引いて、美しく嫁ぐことが「私」の幸せだった。
■
君は幸せか、なんて薄っぺらい問いかけを前に、私はただ静かに目の前の男を見下ろした。
笑おうとして結局、頬が引き攣っただけの男の顔が、踏みつけた椿の花のように散っていく。
嘘吐き、と潰れて動かなくなった椿の花に呟いて、私はひしゃげた鉈を振り上げた。
嘘吐き。
私に与えられた幸せは、慎ましやかに嫁ぐことであった。
美しい着物を着て、美しく紅を引いて、美しかったと讃えられるような微笑みを浮かべて、そうして慎ましかに嫁ぐことが私に与えられた幸せだった。私は私の幸せの形に異論はない。違和感もない。
嫁ぐ相手は優しいと聞く。実際、幾度目かの手紙の中に同封されていた花弁を綴じた栞を見て、この人とならば幸せになれるのだろうと漠然と思った。
だから私には、与えられた幸せがどんな正体を持っていようが、まるで関係無かったのだ。例え家のための婚姻でも。例え爪弾きの婚姻でも。美しいまま手紙の主に嫁ぐことが幸せである私には、どんな正体を伴おうが些細なことだった。
転機は恐らく私の嫁入りが迫った初夏。
庭に咲く向日葵が美しく好きなのだと言う婚約相手の言葉に一も二もなく頷いて、婚礼の日取りを決めた頃。
婚約を結ぶにあたって、私には一人顔馴染みが出来た。
特別親しいと言うわけではなかったが、自然と顔を合わせる機会が多く、世間話をするくらいには見知った相手になった。
名を夏彦。庭の向日葵を扱う庭師にして、婚約者殿の幼馴染の男であった。
夏彦はなかなか外に出る事ができない幼馴染に代わり、式の運びや両家の話の擦り合わせをするためによく私の家へと訪れた。
式の打ち合わせの仲介役であった夏彦との関わりは、身体が弱く寝込むことも多かった婚約者殿よりも多く、彼からはよく婚約者殿の幼い頃の話や最近の様子などを伺い、反対に私は世間話として私の身の周りの話をした。
話をするに、夏彦という男は夏の空模様のような男で、感情がくるくるとよく変わるらしいことが分かった。
向日葵畑での婚礼を必ず成功させるのだ、と情熱的な瞳で語ったかと思えば、婚姻に絡んだ両家の事情に痛々し気に眉根を寄せる。話の内容は私達自身のことではあったけれど、随分と感情の振れ幅の大きい男だと他人事のように思ったものである。
「向日葵の中で一等美しく、幸せを掴みましょう」
それが夏彦の口癖であった。穏やかに言葉にする様子は嵐の前の静けさにも似ていた。
打ち合わせの話途中、帰路につく間際、向日葵畑を下見に行った時も、夏彦は「向日葵の中で一等美しく、幸せを掴みましょう」と穏やかに口にした。
私と話すたびに必ず一度は口に出すその言葉には、何らかの強い意志が感じられた。それはそう、真夏に照り付ける日差しの様な、目が眩むほどに強く、焼けるような意志であった。
夏彦がいったい何を思って、夏の日差しを灯した眼差しで「幸せを掴みましょう」と言葉にしていたのか、焼き切らんばかりの眼差しで微笑んでいたのか、私には分からない。
初めて婚礼の仲介役として私の下へと来た頃の夏彦は確かに、庭師としての矜持や幼馴染のための決意を胸に秘めた、朝顔咲く快晴のような男であった。それがどうして、草木が干上がるほどの日差しを灯すような男になったのか、私には推測することしか出来ない。
ただ分ることは、夏彦は己の日差しの眩しさに目を眩ませてしまったと言うことだけだ。
ある時、婚約者殿に夏彦のことを聞かれたことがある。私はただ、夏を思わせる男であるとだけ告げた。
婚約者殿は良い方へと捉えたのであろう。笑いながら、私の言葉に安堵した様子で頷いた。
婚約者殿は夏彦のことを誰よりも信頼していた。
たった一人の幼馴染が、小さな婚約者殿の世界と外の世界との繋ぎ目だったからと言うのもあったのだろうし、長年傍に居てくれた幼馴染に人よりも強く情があったと言うのもあるだろう。
話をする度に零れ出る夏彦との思い出話を、私は傍に寄り添い聞いていた。思えば、私達の話の大凡は夏彦の話だったように思う。互いの話は夏彦や手紙を通して話していたし、二人共通の話題となると自然と見知った相手の話になった。
「友の話ばかりになってしまう」と申し訳なさそうな様子の婚約者殿に、私が笑って「大事な方なのでしょう」と返す。
それがいつもの婚約者殿との話の流れであった。
夏彦との思い出話をする度に、はにかみ笑う彼の照れくさそうな優しい笑みが、私の心に小さな花を咲かせたことを覚えている。
轟々と。
赤く、夏の日よりも眩く燃える向日葵畑をぼんやりと眺めながら私は、私の膝へと横たわる頭を撫でた。婚礼の為に切り揃えた髪は、持ち主に似て柔らかい。
嫁入り前とは言え、もう少し触れ合えていたのならば良かったのにと思う。親たちはもうどのような形になろうとも婚礼を決めていたのだし、私ももう幸せの形を決めていたのだから、ほんの少し慎ましさを忘れて触れてしまえば良かった、とそう思う。
後頭部が平らな頭は軽く、辺りの熱に晒されて生温い。
私は幸せだったのだ。
美しく嫁ぐことが、彼に嫁ぐことが、幸せだったのだ。
美しいと言ってくれた着物を着て、共に見た美しい夕日色の紅を引いて、一等美しいと褒めて貰えた微笑みを浮かべて、そうして優しい彼に嫁ぐことが私には幸せだったのだ。
与えられた幸せがどんな正体を持っていようが、そんなものはどうでも良く。
例え家のための婚姻でも、例え爪弾きの婚姻でも、彼が美しいと言ってくれるままに彼の下へ嫁ぐことが出来るのならば、それが私の幸せの形だった。
どんな正体を伴おうがそんなもの、彼と契り、共に居られる日々が来るのであれば些細なことだった。
「君は幸せか?」
きっと幸せではないだろう、と男はーー夏彦は私に赤く塗れた手を差しだした。
ふつ、と何かが己の中で冷えて行くのを感じながら、私は差し出された手を一瞥だけすると、夏彦の左手へと視線をやった。
男の左手に握られた季節を終えた向日葵を切り払うためのひしゃげた鉈が、鋭く光りを照り返しながら、小さく赤い水溜りを作っている。鮮やかに塗れる赤色と鋭い反射光で、鉈の刃に私の顔は映らない。
次いで、小さな水溜りから点々と続く赤色を目で追っていく。視界の端では熱を伴った花びらが、煌々と輝きながら散っていた。
式のために敷かれた道の先、燃える向日葵畑の中心に黒い羽織に覆われた影が横たわっているのが見えて、私は縁側から飛び降りた。
重い白無垢の裾が、走ることを知らない足を絡めてもつれさせ、足を進める度に靡く白打掛が散った向日葵の花びらで煤ける。
美しく透き通った白色が濁るように色を変えることさえも気にならず、私は焼け崩れる向日葵の中心に横たわる影の下へと走り抜けた。
必至に取り込もうと吸う空気は熱く、呼吸が侭ならないほど喉を焼くのに、私の臓腑はどこまでもつめたく冷えていく。
「これで君は幸せになれる」
佇む私の背後から夏の日差しの声がした。草木を焼き切り目が眩んだ日差しの、穏やかな声がした。
「幸せ……」
「家の事情に従って、自らの境遇に嘆いて。そうして無理に嫁ぐこともなく、君は自由になった」
「……大事な幼馴染ではなかったの?」
「大事な幼馴染だ。もう先は長くなく、ずっと苦しんでいた。美しい君との婚礼を終え、そうして好きだった向日葵畑の中で生を終えた」
「そう……。……彼は、幸せになった?」
「……」
どこか遠くで聞いていた会話の中、私が尋ねると、夏彦は押し黙った。
きっと罪悪感からでは無い。大事な幼馴染の幸せを、本人の代わりに口に出せないのだ。
振り返ると、夏の日差しを灯した眼差しと目が合った。ああ、けれど。振り返った一瞬は、かつての朝顔咲く快晴の日が覗いていた。
私は不意に夏彦の懐へと飛び込む。
全てを投げ出すように己の身体を夏彦の身体へと突き当てると、左手に握られた鉈を両手で掴み、勢いのまま振り払うように夏彦を押し倒した。
鉈はするりと手に入り、男の身体は呆気なく地に倒れる。隣で茎が焼き切れた向日葵の花がぼたりと、地に落ちた。
見下ろした先、初めて夏彦から夏の面影が消える様を見た。
「君は幸せか?」
潰れた椿の花に私は呟く。
「嘘吐き。向日葵の中で一等美しくするのだと言った癖に。幸せを掴ませてみせるのだと言った癖に」
嘘吐き。
共に過ごす日々の中で、散り際まで見守る筈だった向日葵畑は燃えてしまった。
私を一等美しくしてくれる彼は、もう私に微笑んでくれない。
「次は夏彦の幸せを探そうか」なんて、彼と冗談めかして描いていた未来さえ潰えてしまった。
幸せであったのだ。どんな形であろうとも私は幸せであったのだ。どのように見えようとも、私と彼の幸せはそこにあったのだ。
幸せだったのに。
嘘吐き。
潰れて動かなくなった椿の花の隣で、私は夫の頭を膝に乗せながら空を見上げた。向日葵も、風薫る夏の空も、轟々と燃える炎に包まれて見えない。
炎に包まれた向日葵から散った花びらが、熱い風に揺れて私と夫の下へと降り注ぐと、色を変えた黒と白が熱を伴い溶けていく。
「共に、散る向日葵を見届けると。最期までお傍に居りますと。そう貴方へと契りを結びましたのに」
嘘吐き。
私はひしゃげた鉈を振り上げた。
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