七頁 影留
――影に留まる
――とある日の夕暮れに貴方は死にました。
貴方が何に怯えていたのか、私には分らないままです。
■
貴方が死んだ。私は生きている。
貴方が死んだのはとある日の夕暮れでした。
その頃の貴方は、酷く怯えていたのを今でも覚えています。
貴方が何に怯えていたのか、私には一つの心当たりがありました。暗闇です。もっと正確に言うのならば、ほんの少し開いた扉の向こうに見える暗闇です。
そこに何かが居るのかも知れない。そう言った未知に対する恐怖心を抱く影落ちた所に貴方は怯えていました。
貴方には何かが見えていたのかどうかは定かではありません。もしかしたら、貴方は貴方の想像力によって殺されたのかも知れません。唯一つ重要なのは、貴方が何かしらの可能性を秘めた暗闇に対して、酷く恐怖心を覚えていたという事です。
貴方の死体が見つかったのは、貴方が酷く怯えていた場所でした。つまり、貴方はほんの僅かに開いた扉の先に転がっていたのです。貴方の周りは暗闇で満ちていました。まるで影が寄り添っているようだと、貴方の死体をぼんやりと眺めながら思ったのを覚えています。
影は貴方としての輪郭を塗りつぶしていました。見つけた当初の私は、影の中で転がる大きな物体が貴方であると気が付く事も無かったほどです。
転がっていた物を確かめたら何だか人の形をしていたので、慌てて救急車を呼んだ際に、隊員に光の下に引っ張り出された貴方を見て、ようやく私は気付いたのです。
信じたくなかったとか、理解が追い付かなかったとか、そう言うものではありませんでした。転がっているのが貴方だと、本当に分からなかったのです。ですから、影に塗りつぶされた輪郭が浮き上がって来た時は、心臓が縮み上がってしまいました。
貴方の死因は未だ不明のままです。心臓発作らしい、とだけ聞きましたが、詳しい所は未だ不明のままです。
その事だけが、今でも私の心を引っ掻き回します。底知れぬ不安が襲うのです。
死因が不明だという事はどうして死んでしまったのか、私にも、誰にも、分からないままなのです。貴方がどうして死んだのか、或いは死なざるをえなかったのか、分らないままなのです。死への道筋が分からない、その事が私には酷く恐ろしく映るのです。
私達が住んでいた地域では不審死が多く、そのどれもが心臓発作らしいとしか言えない物でした。それ以上は何も分からない、そう言う死が蔓延していました。
共通点と言えば、影の中で死んでいたことくらいでしょう。ですが、影の中で死ぬなんて事は珍しくありません。
例えば一人暮らしの男性、彼が帰宅した夜、家の電気を探る玄関先で心臓発作を起こしてそのまま亡くなってしまったのならば、それは影の中で死んだ事になります。
例えば片づけをしていた老婦人、彼女が陽の光が届かない蔵の奥で心臓発作を起こして亡くなってしまったのならば、やはり影の中で死んだ事になります。
貴方の死の手がかりとも成り得る些細な共通点は、その他大勢の共通点でもあったので、結局手がかりには成り得ませんでした。
親しい者の不審死について調べていた極僅かな人々も、余りにも枠が大きすぎる共通点を前に、何人もが死の道筋を調べることを止めました。共通点はそれだけしか無かったのですから、それ以上「どうして」と疑問を重ねても、答えの導きようが無かったのです。
私も結局、「どうして」を探すのを止めてしまいました。
最近私は、影の中に何かを見るようになりました。
何か、は分りません。ただ何となく、扉が薄く開かれたの向こうの暗闇に何かの気配を感じるのです。
分る事はと言えば、それらは私に恐怖心を植え付けるという事と、貴方では無いという事だけです。
胸の中を得体の知れないもので逆撫でされているような恐怖心は、私を酷く追い込みました。まるで刃物の切っ先を、常に目の前に突き付けられているかのような心地で、私は疲弊しました。
時折、脈が変な具合でとぶので、もしかしたら貴方が心臓発作を起こした原因はこれなのかも知れない、とぼんやりと考えています。
今日もまた、暗闇がやってきます。家の中に影が潜み、太陽すらも隠された夜がやってきます。
私もその内、影の中で死ぬのでしょうか。貴方が感じた恐怖は、貴方が辿った死への道筋は、今私が歩んで居るものと同じなのでしょうか。
貴方と一緒であると言う事実だけが、私の心を安らかにしてくれます。だから私は己を宥めて、影を想うのです。貴方を連れて行った影を想うのです。
願わくは「私を連れて行くものがあるとするのならば、貴方と同じものであれば良い」と、そう思うのです。
結局、暗闇が私のことを連れて行くことはありませんでした。
恐れていた扉の先の暗闇には、私を連れて行ってくれるものなど居ませんでした。
そこに居たのは影でした。ただそこにあるだけの、在るように在るだけの静かな影でした。
扉の先にいた影は、とても静かなものでした。
恐れと、疲れと、貴方への願望。それらで綯交ぜになった私は、ある日の夜、薄く開いていた扉に手を伸ばしました。
怯えていたのは確かです。それでもそれ以上に疲れていたのです。疲れて、疲れ果てて、貴方が居るなら良いのにと、手を伸ばしました。いっそのこと、とも思っていたような気がします。
私が取っ手に指を引っ掛けて、扉を軽やかに開けると、そこには影がいました。影には定まった形は無く、私の事を包み込みました。
例えば、田と川と蛍だけが居るあぜ道の、月夜の下を歩いている時の静寂。例えば、幼い頃、花火の後に親に背負われて戻る帰路の安らぎ。例えば、貴方に手を引かれて歩いた満月の夜の恋しさ。
影はそういうものでした。
影はただ、そういうものとしてそこに佇んでいました。
私はいつの間にか、滲んだ視界で影を見つめていました。
怯えていた暗闇は、ただただ静かな夜でした。己の手の内よりも遠いものに対する畏れはあっても、怯え震えた恐れは、もう既に抱いてはいませんでした。
むしろ、影の中に留まってしまいたいと願う大きな憧憬に、私は戸惑っていました。
影が私の顔を覗き込んだ気がして、私はほんの少し目線を上げて影を見つめ返しました。実際、見つめ返せていたのかは分かりませんが、何となく私はそこに影の眼があるような気がしたのです。
私は影に「留まるか、否か」を尋ねられたような気がしました。
私は少しだけ月の出ている外を見つめて、それから首を振りました。それはしてはならないと、そして望まれてはいないと、何となくそう思ったのです。
「否」を答えた私に、影がどこか安堵した様に感じられました。
その時ふと、気付いたのです。
貴方は留まることを望んだのだ、と。恐らく一人暮らしの男性も、蔵にいた老婦人も、留まる事を望んだのだと。
影の中で死んだ者は皆、影の静寂に、安らぎに、恋しさに、包まれて眠ることを望んだのだと、不意に気が付きました。
私はそっと窺うように影を見上げました。
影の見えない眼が伏せられて、緩く項垂れたような気配がしました。それが答えでした。貴方の死への「どうして」の答えでした。
貴方はとある日の夕暮れ時に、影の中に留まりました。
その頃の貴方が何に怯えていたのか、私にはもう想像するほかありません。貴方が酷く怯えていたのに、私にはどうする事も出来なかったことが、今もずっと胸を引っ掻きます。
貴方が何によって安寧を得たのか、私は一つの答えに辿り付きました。暗闇の中に在った影です。ただ在るようにそこに佇んでいた影です。
貴方は影によって得た安らぎの中で、何かに怯えることもなく静かに眠るのでしょう。
留まることを望んだ他の人達と同じように。静寂や安らぎや恋しさや、そう言う情景に焦がれたままに、そこに居たいと言う憧憬の果てで、影に留まることを望んだのでしょう。
願わくは、貴方がほんの少しの寂しさを私に遺してくれていたのなら。眠った果てで、傍らの気配を手繰ってくれているのなら。
私はそれだけで幸せなのです。
貴方は留まった。私は月夜を歩いている。
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