六頁 本の羽音

 ――その羽音はきっと。

 ――耳元で喧しく鳴り響く羽音は鳴り止まない。

   羽音がする度に「私」は溶けていく。


 ■


 ――――。

 耳元で虫の羽音が喧しく鳴り響く。煩わしく喧しいその音は途切れることなく、されども単調だと言う訳でも無く、本当に虫が巣食ったかのような不快感を与えながら、鳴り響き続いている。


 ――――。

 最初にその音がしたのは、ある日の夕暮れ。斜陽の影に閉じ込められた図書室で『ドグラ・マグラ』を手に取った時であった。

 図書室の上の段に収まったその本は、平均の身長の私が手に取るにはあまりにも高く、図書室に備え付けられた脚立へと足を伸ばした。

 高すぎない脚立を三段登り、腕を軽く伸ばして、そして背表紙を軽く引っ掻くように指が触れた。瞬間。

 ――――。

 虫がたいして苦手でなくとも、虫の羽音と言う物はどうしてだか反射的に身体を飛びのかせる力が有るらしい。

 耳元で鳴った羽音に、私は反射的に手を振り回して大げさに飛びのいた。

 己が何の上に立っているのか、今居る場所を思い出した時には既に遅く、指先に引っ掛かった『ドグラ・マグラ』と共に重力に従い地面へと叩き付けられた。

 鈍い音と身体全体に伝わる鈍痛。咄嗟に庇いきれなかった頭は強かに打ち付けた事で軽く揺れる。指に引っ掛かった『ドグラ・マグラ』は人間が落ちたのとはまるで違う軽い音を立てて床で開いた。

「ぐっ……」

 強く頭を押さえ付けて痛みを和らげようとするが、どうにも上手くいかない。外側から内側に何かが割り込む様な酷い痛みに呻く。

「くっ……ぐぅ……」

 食いしばった口の端から痛みで飲み込めない唾液がたらたらと流れる。不快さに眉を寄せて、ゆっくりと息を吐く事に努める。

 痛みは一向に和らがず、もしかしたらこのまま死ぬのではないか、と言う酷い不安感まで襲って来る。

 私は頭を抑え込んだまま、せめて誰かが居ないだろうかと辺りを探す為にゆっくりと顔を上げた。しかし何処にも人影は無く、有るのは床に落ちて頁が開いた『ドグラ・マグラ』だけだった。

「……え?」

『――――――』

 『ドグラ・マグラ』の一説、『蜜蜂の唸るような音』と形容されるその一文。

 床に落ちて開いた頁のその一説を認めた瞬間、私の痛みはいとも容易く和らいだ。それまでの痛みが夢であったかのように霧散したのだ。

 耳に虫の羽音を残して。


 消えた痛みと継続して起こる虫の羽音に私は訳も分からず、手の中の『ドグラ・マグラ』を見つめた。

 そうして、そっと閉じてみる。

「あぐっ……」

 虫の羽音が金属を引っ掻いた時の何倍も喧しい音を立てて鳴り始める。それは何かの警報にも似ている。

 明らかに異常な騒音を立てた耳鳴りと同時に戻って来た身体の痛みに私は恐ろしくなって叫ぼうとした。けれども口から出るのは汚い濁音だけで、まともに声になってくれない。

 手からするりと本が落ちる。それがまるで決められていた動きみたいに、意志を持っているかのように。本はするりと落ちて、そうして頁が開いた。

 警報のような耳鳴りと激しい痛みは、ぴたりと止んだ。


 ――――。

 それからだ。この喧しい耳鳴りと共に生活をするようになったのは。

 最初は自分の脳みそが可笑しくなった事を疑ったが、病院での検査の結果はどれも「異状なし」だけであった。

 勿論、親にも病院にも事の顛末を全て語ったと言う訳では無い。脚立から落っこちて、頭を打ってから耳鳴りがする、という事だけだ。仮に全てを話したとしても夢を見ていたか、頭を打った拍子に何処かの頭の螺子が飛んだのではないかと笑われるのが落ちである。


 ――――。

 最初の羽音から数日経ったが喧しい耳鳴りは収まる気配を見せない。

 収まらない羽音とは違い、数日経って変わったものが二つある。

 一つは『ドグラ・マグラ』だ。

 本の頁を開かずとも警報のような耳鳴りも、全身を鈍く覆う痛みも訪れる事は無くなった。図書室で起こった事は唯の偶然だったのか、と図書室から帰った日の夜にベッドで首を捻った。

 偶然ではない事が分かったのは次の日の朝だ。私は夢から覚めると頭を抱えた。私は図書館で頁を捲っていた。それは紛れもなく『ドグラ・マグラ』であった。以前にも何度かこの本は借りている。だが、全てを暗記するほどではない。それなのに、私はそれを読んでいた。

 抱えていた頭を放して、恐る恐るベッド脇の勉強机に置かれた本を手に取る。頁を開いて目を通した私は、夢の中で読んでいたそれが一言一句、手の中の本の内容と違いない事を知った。

 もう一つは、日が経つ程「私」と言う物が溶けていく事だ。身体には問題が無い。表現としての比喩であるが、これ以上に説明する言葉が見つからない。私の中で「私」を形成する何かがどろどろと溶けているのだ。


 ――――。

 羽音がする度に「私」を形容する人格、記憶、或いはそれらに付随する何らかが、じくりじくりと小さな傷口から溢れる血のように、ゆったりと中心から溶けていく。脳が熱く溶けるその感覚は形容しがたい苦痛でもあったし、快楽でもあった。

 最初に違和感を覚えた時は春の陽気に囲まれたようにゆったりとした心地よさであったが、今はもう激しい快楽の波のようで、己では制御が到底利かない。

 ベッドの中で熱に浮かされた様にふらつく私を心配してくれる男女の顔さえ既に曖昧なのだ。先程部屋を尋ねた男女の顔も、彼等にもう何と言葉を返したのかすらも、ぼやけて溶けてしまった。

「珍しい表紙だね。この本、何?」

「何って『――――』」

「え?」

「……? 『――――』、俺が好きな冒険譚だよ」

 夢の中で私と誰かが話している。幾数の本の並ぶその部屋の、私では脚立を三段登らないと届かないその位置に収まった本。

 私はその本を知っている。けれども私が知っている本は、誰かが紡いだ言葉が羅列しているような本では無かった。本の題名だけが掠れている。

 羽音で夢が大きく弛む。誰かとは誰だったのか。本の名は何だったのか。私が手に取った本が本当は何なのか。「私」の意識は溶けてまた形を崩した。


 ――――。

 羽音は次第に大きくなる。羽音は一向に鳴り止まず「私」を溶かす。唯明確に、唯不自然に己と言う枠が滲んでいる。

 風に揺られて頁が捲れる。文字が浮かんでは消える。羽音が聞こえる。既に夢も現実も曖昧に溶け合ってしまっている。

 ――――。

 羽音がする度、私は溶けていく。私は「私」では無くなっていく。

 そうして恐らく、私では無い何かが生まれようとしている。羽音が鳴る度に、頭の中が白くうねる。どぽどぽと水音が木魂する。何かが脳みその内側から引っ掻く。

 それが何かは分らない。が、それはこの羽音の主だと私は漠然と思うのだ。

 ――――。

 幼虫が蛹となって蝶として羽ばたく為に繭の中で溶けているように、私の中で何かが羽ばたくために「私」を溶かしている。

 溶かして、解かして、そうして何かが生まれている。

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