四頁 がらんどうの祠
――其処には有るのはがらんどうの。
――祠の噂は不定形なままに消えて行く。
たった一人だけを噂の中に取り残して、次に語られるまで道は霧散する。
■
「噂と言うのは形が無いんだ」
夕日に照らされたその青年の横顔は、影を纏っていて表情が読めない。手も足も胴も、全てが明確なのに表情だけが不明瞭なのだ。
「噂を知っているかい?」
青年がもう一人、部屋の奥に立っていた青年へと振り向く。
窓際に凭れかかっているからか、夕日を背にした青年の顔は影に覆われていて見えない。青年の話を聞いていた、部屋奥の青年はただ不思議そうに首を傾げた。
「噂が有るんだ」
「どんな?」
「君も知って居る筈だよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「そうかも?」
附に落ちない様子で首を傾げながらも、素直に受け入れる部屋奥の青年に、窓際の青年はくっ、と喉奥を一度鳴らして言葉を続ける。
「違うかもよ」
「違うの?」
「君は知らない」
「そうなの?」
「嘘だよ」
「本当?」
打てば響く調子の会話に、窓際の青年が可笑しそうに小さく噴き出した。喉奥で笑う音が部屋の中に響く。
部屋奥の青年は人懐っこそうな顔を不思議そうに傾げて、窓際の青年を見つめた。
「面白い?」
「面白いね」
「それで噂って?」
「祠を知っているかい?」
「ほこら、って神様を祀った小さな?」
「そう、その祠」
『祠』と小さく口の中で呟いて、部屋奥の青年は考えた。
今一頼りない記憶力で過去の記憶を手繰ってみるが『噂の有る祠』に対して心当たりがない。アルバイト先の女性たちは様々な噂を流しているが、青年の記憶にある彼女たちの噂はどれもこれも人間関係だとか、芸能界事情とかそう言うものばかりだ。
『祠』ともう一度小さく呟いてみる。
母親や父親との会話で上がる噂と言えば近所のおじいさんが如何だったとか、誰々の奥さんが如何したとかそう言う話題ばかりだ。村と町の中間のような小さな田舎町故か、噂と言えば此方も人間関係やご近所話が主で『祠』に関しては思い当たる節が無かった。
そう言えば、と部屋奥の青年は首を傾げる。『祠』と『社』とは違うのだろうか。
『社』に関してなら記憶にある。噂になっているかどうかと言えば噂にはなっていないが、話題としてなら記憶にある。毎年、夏に町内で祭りをするのだが、その際に担がれるお神輿様が納められている『社』なら確かに青年には心当たりがある。
青年は顔を窺う事が出来ない窓際の青年に首を傾げながら尋ねた。
「社と祠は違うの?」
「違うね」
「じゃあ、祠の噂は僕には分らないなぁ」
「おや、そうなのかい?」
「うん」
「そっか、じゃあ嘘が嘘だったね。ごめんね」
相変わらず表情の読めない窓際の青年は小首を傾げながら、申し訳なさそうな声音で謝罪した。
「結局、噂って何?」
「ううん……」
「どうしたの?」
「知らないのに態々教えるのはどうかなって今考えてる」
「今更だね」
「うん今更だ」
「切欠を与えられた時点で興味を持つよ」
「君はそう言う奴だからね」
切欠を与えられてしまえば人間と言うものは大体が好奇心でその奥へ奥へと進んでしまう。望もうと、望まざろうと、好奇心は人を動かす。
部屋奥の青年はそれが特に顕著な人間だった。
「好奇心は猫を殺す?」
「君は人間だから死なないよ」
「人間だから死んでしまうんじゃない?」
「でも君は魂を百は持っていそうだもの」
「そうかな?」
「そうだよ」
肯定を口にした顔の見えない青年の声色は、何処か強張った様な響きがした。
一瞬、沈黙が部屋の中へと落ちる。何となく言葉を発してはいけない気がして、部屋奥の青年は人懐っこい顔を顰めて口を閉ざした。青年の顔には分かり易く『何を言えば良いのか分からない』と書いてあった。
「……そんな顔をさせたいわけじゃないんだ。唯、君は死なないよって事が言いたかったんだ」
窓際の青年は、暫くの沈黙の後にそう言った。その声色は、何処か寂しそうな、困った様な響きを持っていた。
部屋奥の青年には何だか其れが居た堪れなくて、敢えて話題を切り出した。彼も、窓際の青年にそんな事を言わせたく無かったのだ。
「それで、噂って?」
「……社の有る場所は知ってる?」
意図を汲み取ってくれたらしい窓際の青年は、息を短く漏らすと、そう話し始めた。
「御神輿様がある北の?」
「そう。その丁度反対側、真っ直ぐ南側に行ったところに祠が有るんだ。そこが噂の祠」
「その祠に何があるの?」
「何も無いんだ」
部屋奥の青年は、柴犬のような丸みがある目を更に丸めて、首を傾げた。
「何も無いの?」
「何も無い」
「えっと、神様とかは?」
部屋奥の青年は、本来祠に祀られているであろう存在を尋ねた。
「居ないんだ。木製のがらんどうな殿舎が有るだけで中には何も無い。しめ縄や紙垂を備えているわけでも無く、格子状の扉の先、殿舎の中に何かが納められているわけでも無い」
「祠なのに?」
「そう、祠なのに祀る神様が居ないんだ」
部屋奥の青年は再び首を傾げた
『祠』と聞いて部屋奥の青年が思い浮べるのは、中に何かしらの仏像様やお地蔵様が祀られている小さな神社だ。閉じた扉の先の中が見えないものも有るのだろうが、窓際の青年は『格子状の扉の先』に何も無いと言った。つまり、噂の祠は中が窺える状態なのだ。
「そう言う造りだとか、何かの事情で今は無い、とか?」
部屋奥の青年が首を傾げたまま呟く。
例えば、祠の下側に空間があって其処に祀ってあるとか、殿舎自体に何かしらの意味合いがあってそれでがらんどうだとか、雨風による風化で一時的に祀っていないとか。
「違うんだ。そう言うのじゃないんだ」
けれど、窓際の青年は首を振った。節くれだった指を口元に持って行き、口の辺りを覆うようにして撫ぜた。これは彼がどう言ったら良いのか考え込む時の癖だ。
「噂と言うのは形が無いんだ」
「うん」
「でも、噂は有る」
「うん?」
「不定形、或いは目に見えなくても存在している、って言えば良いかな。誰も彼もが噂と言う存在を知っているのに、噂は形を伴わないまま消えて行く事が多い」
『噂』を誰も彼もが知っているのに、『噂』の実体はあやふやだと窓際の青年は言う。
「噂は確実では無い、けれども噂が流れている間はそれが真実になる時もある」
「あんまりよく分らないけど、まぁ、何となく言いたいことは分るような?」
部屋奥の青年は、未だに少年のあどけなさの残る手で軽く拳を作ると、顎に当てた。
「祠も同じなんだ」
「噂の祠も?」
「そう。祠の中にはちゃんと有ったんだ。形を伴わなくても、不定形でも、有ったんだ。けれど今は何も無い。がらんどうだ」
何となく窓際の青年の顔を覆う影が濃くなったような気がして、部屋奥の青年はじっと窓際の青年の眼の辺りを見つめようとした。
けれども夕日が眩しすぎて、彼の色を窺う事が出来ない。
「どうして?」
「どうしてだろうね。でも確かに有った筈だったんだ」
「もう何処にも無いの?」
どうしてか妙に切なくなって、部屋奥の青年はいつの間にかそう尋ねていた。そんな部屋奥の青年の顔を窓際の青年はじっと見つめる。
何度か、迷って口を開いては閉じたような窓際の青年の呼気が聞こえてきたが、結局、彼は諦めた様に息を吐くと、曖昧に笑った。
「何処かには有る。でも何処にも無い」
何処かって何処にあるの?と部屋奥の青年は聞きかけて、何だか酷い事を尋ねているような気がして、口を閉じた。その代わりに違う問いを口にする。
「それが祠の噂?」
「そう。がらんどうな祠の噂」
部屋の中を赤い夕日が煌々と映す。深い赤色の絨毯も、漆の机と椅子も、焦げ茶色の本棚やそれに並ぶ色とりどりの褪せた表紙の本達も。影が出来ないくらいに煌々と赤く夕日は照らす。
それなのに窓際の青年の顔だけが見えない。
「祠……」
部屋の奥で青年はぽつりと呟く。
有った筈なのに何も無くなってしまった祠の噂。がらんどうな祠の噂。
不意に、つきり、と何かが部屋奥の青年の頭の片隅を刺した。
「あれ?」
「どうしたの」
「うん、何か変」
「何が変なんだろうね」
穏やかなのに、何処か後ろめたい事を隠している子供のような声で、窓際の青年は尋ねる。否、尋ねると言うよりは、窓際の青年は答えを既に知っていて、部屋奥の青年が答えを見つけるのを確認しようとするかのような聞き方だ。
「何が……?ん――」
部屋奥の青年は曖昧に『ん』の音を間延びさせたまま考える。頭の片隅を刺した何かは不定形に形を変えて、けれど唯の一度も形を定める事無く霧散する。
真っ赤な、影さえも煌々と照らす夕暮れ。夕日は何時までも窓際の青年の後ろに有って影が顔から剥がる事が無い。
部屋奥の青年は、頭の片隅で刺す何かが強くなった気がして、窓際の青年を見つめていた目を下へと落した。
見る角度によっては橙色にも見える、夕日が強く差し込んだ深い赤色の絨毯が敷かれた床。そこに落としていた視線の先に格子の影が見えた気がして、部屋奥の青年は目を何度か瞬かせた。もう一度青年が目を見開いた時には何の影も見えなかった。
部屋奥の青年はもう一度顔を上げて、窓際の青年の顔を覗き込む。しかし、何時もであれば何かしらの反応を声として発する窓際の青年は、珍しくずっと黙ったままだった。
窓際の彼は黙したまま部屋奥の青年の顔を見つめては、時折、窓の外にほんの少し注意を傾ける。
部屋奥の青年にはそれが何かを待っているようにも見えたし、何も訪れない事を望んでいる様にも見えた。
「……」
「大丈夫?」
沈黙に胸が騒いで部屋奥の青年は尋ねた。それでも、窓際の青年からは曖昧に笑う気配がするだけで、沈黙が破られることは無かった。
何処かで木々が騒めく音が聞こえたような気がして、部屋奥の青年は辺りを見渡す。
視線を移した先に色とりどりの、けれども色褪せた本が並ぶ焦げ茶色の本棚が目に留まった。棚に並ぶのは表紙が掠れていて題名が読めない本達だ。一瞬、題名が見えた気がして、部屋奥の青年は目を擦る。
再び目を開けると、やはりそこには何も書かれていなかった。並んでいた文字列に見覚えがあった様な気がしたけれど、それもまた考えようとすると曖昧に形を変えて霧散した。
何かが其処に有った様な気もするし、無かった様な気もする。部屋奥の青年は暫く右に左に、本棚にと何となく視線を移ろわせていたがやがて、相対する青年の顔を見つめるとやんわりと表情を和らげる。
「わかんないや」
へらりと、部屋奥の青年は相好を崩してそう言った。不定形な何かは確定した形にならずに消えてしまった。噂のように、がらんどうな祠のように。
「そっか」
安堵したような、けれどやはり後ろめたい様な、複雑な声音で窓際の青年は笑った。
「他の話をしようか」
「他の祠の話?」
「祠以外の話」
やがて、二人の話は違う話題へと移っていった。何時ものように取り止めのない話が始まる。煌々と赤く燃える夕日に染められた部屋の中、何の音もしない其処で青年の声だけが響いていた。
暫くそうして二人でのんびりと話していると、不意に、部屋奥の青年が舟を漕ぎ出した。沈黙が破られた事に安堵したのか、何時もより好奇心が赴く侭にお喋りだった彼は、どうやら喋り疲れてしまったらしい。
「眠い?」
「……うん」
「そっか、おやすみ」
「……うん、おやすみ」
眠りに落ちる直前、何故だかふと『祠』を思い描いた部屋奥の青年は、何となく『祠』は色鮮やかな気がした。
遠くで聞こえる声を窓際の青年は聞いていた。
「祠の噂って知ってる?」
「北の社じゃ無くて?」
未だ大人に成りきっていない女性の声が囁き合っている。ゴミ拾いでもしているのか、ビニール袋が風に吹かれる音と金属や紙が擦れるような音が、声に混ざって聞こえてくる。
「その正反対の位置に森があってね。その森の中に祠があったんだって」
「正反対って、待って、何その地面を指す指は……。祠の場所がまさか此処ら辺だとか言わないよね?」
「せいかーい」
「じゃ、帰ります。さようなら。御達者で」
片割れはそう言った話が苦手なのだろう。声を硬くすると、颯爽とその場を去ろうとした。が、すぐさまもう一人が引き止める。
「待って待って待って! 怖い話とかじゃないんだよ。ただ昔有りましたって噂」
「本当に?」
「本当。昔、此処には祠があったんだって。漆とか紅とか結構色鮮やかで綺麗だったみたい。でもなんだっけかな? 何かがあって無くなっちゃったんだって。森は迷子になる子とか、夕暮れ時に暗いとかで整理されてて、公園の木がその名残みたい」
「祠にあったその『何か』って?」
「うーん、確か噂を聞いた時に一緒に聞いたような気がするんだけど、忘れちゃった」
「そんなあやふやなのに何で噂の話を切り出したの?」
「何か、聞かないといけない気がして?」
「何それ?」
「うーん、そんな気がしたとしか……。あ、でもね。祠が無くなっちゃう前に一人だけ誰かが居なくなっちゃったって噂」
「怖い話じゃ無いって……」
「いや、多分普通に家出とかだと思うよ? 高校生くらいって話だったし。昔から神隠し、って言っても森の中で結構迷子になっちゃう子が居たんだけどね」
「整理された森?」
「うん。で、全員、森の中で一番開けた場所で見つけやすい祠で見つかったんだって。勿論皆、小学生に上がる前位の小さい子だよ? でも一人だけその高校生くらいの子が居なくなっちゃって、結局見つからなかったって」
「家出にしても両親は心配したでしょ」
「うん……そうなんだけどね」
「どうしたの?」
「覚えてなかったんだって、その子の事」
「……噂、でしょ?」
「うん、噂。多分私達もその内忘れちゃう噂」
「暗くなって来たから帰ろっか」
「うん」
話し声は何時しか遠くなる。
窓際の青年は声の音が途切れるまで耳を傾けていたが、やがて葉の騒めきだけの静寂が訪れると、視線を窓奥の青年の元に落とした。
部屋の中に差し込む夕日は何時までも、煌々と部屋の中を照らし続けている。
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