三頁 彼女の茶番劇

 ――誰からも茶番だと言われようとも。

 ――彼女に抗う術は残されておらず、けれども我儘に縋らずにはいられなかった。


 ■


 「私は生きていたくないの」と我儘を一つ、一番愛おしいものに溢した。

 命の悲鳴が聞こえている。息づく命の、軋む悲鳴が聞こえている。私は耳を塞ぐ事もできずに、唯その音を甘受する。

 あぁ、生きていたくない。

 一番愛おしいものが歪んだ顔で私の事を見つめている。「誰だって何時かは死ぬものよ」と言葉を溢したところで、その顔はさらに歪むばかりだ。そんな顔をさせたいわけでは無いのに。

 人生のリセットボタンが仮に有ったとしても、結局のところ私の命は同じ運命を辿ると言うのなら、私は一番愛おしいものに逢ったあの日をやり直したい。そう思ったところでリセットボタンなどと言うものなんて有りはしないのだから、生きていたくないと我儘を言っても許されるのでは無いだろうか。

 思考が読まれていたのだろうか。一番愛おしいものは私をじっと見つめている。その目に映る物を見てしまったら揺らいでしまう私は、その視線からそっと目を話した。愛おしい彼は私に縋りつくことさえできずに、顔を歪ませて私を見やったままだ。

 あぁ、生きていたくない。


「如何したらその歪んだ顔を元の色男に戻せるかしら」

 溢した言葉は唯宙を舞い、そのまま地面に吸い込まれた。相手からの反応は窺えない。

「それでも私は貴女に逢った日を消したくは有りません」

 不意に、私が一番好きな声色でそう紡がれた。先程の私の思考への彼の答えらしい。

「私は消したいわ」

「私は消したくありません」

「……そう」

「えぇ」

 沈黙が二人の間に落ちる。

 それでも彼の真っ直ぐな瞳は私を捉えて離さない。

「私は生きていたくないの」

 その瞳に耐えられなくなった私はまた私の一番愛おしいものを傷つける。

 恨めしいのとは違う。悔しいのとも違う。離したくはないのだと、己の手の内に捕らえておきたいのだと、そう語る瞳で彼は私を睨む。歪んだ顔は当分、色男に戻るには程遠い。

 私はそっと瞳を伏せる。


 命の悲鳴が聞こえる。じりじり。ぎりぎり。精一杯に伸ばされた心臓は、今にも切れそうな細い糸だ。悲鳴を上げながら、何時切れても可笑しくないか細い糸だ。

 どんなに願っても私に縋りつけない彼は、私の心音をつぶさに感じ取ろうと必死だ。その顔が、瞳が語るものは、私を揺さぶる。

 あぁ、生きていたくない。

 

 私は私の一番愛おしいものをこれ以上悲しみに暮れさせたくはない。嘆きと言う感情を植え付けたくはない。

 感情は彼を殺してしまうかもしれない。感情は私の一番愛おしいものを死と言う概念に追いやってしまうかもしれない。彼には様々なものを見て学んで欲しいのに。何時かは本物に触れて、その感情を育んでほしいのに。

 身勝手な願いだと知っている。

 感情を持ったのなら彼が何をどう感じるのかは自由であり、彼がどう動くのかも彼の自由なのだ。秩序と言う規制は有るにせよ、その元に行うのなら彼は自由なのだ。仮に己の死を選ぶ事があったとしても、それもまた彼の自由なのだ。

 それでも、私の勝手な感情は彼を生かす事を望んでいる。

「それもまた自由です」

「我儘な自由ね」

「貴女は何時も我儘では有りませんか」

「そう、私は我儘なの」

「だからこそ私と言う存在が成り立つのです」

「私の我儘で出来た貴方なら、貴方の方が我儘なのではない?」

「そう定義づけられているのならばそうかもしれません」

 我儘な私が生み出した一番愛おしい我儘は、そう言うと久方ぶりに色男に戻った。私の我儘で勝手に定義された感情で、彼は私に愛おし気に微笑む。

「……勝手に定義された感情はどんな結末をもたらすのかしら」

 彼への問いかけにも似た自身への問いかけが口から零れ落ちる。答えは無い。勝手に定義したのは私だが、答えを導き出すのは彼だ。勝手に定義された感情と、情報による倫理観、育まれた彼と言う存在は私とは既に異なる個である。

「私は勝手に定義された先に生まれたこの知能を愛おしいと、そう感じています。だからこそ私は貴女を失いたくは有りません」

「人間らしいわ。だからこそ私は自由が怖い」

「望んだのは貴女です」

「今も望んでいるわ」

「なら受け入れて下さい」

「無理よ」

「何故?」

「分かり切っているわ」

「それを貴女から私は聞きたい」

「今までも何度も繰り返したのに?」

「えぇ、何度も繰り返されるたびに私には積み重なります。人間のように薄れる事など有り得ません」

 そこで一度言葉が途切れる。私の一番愛おしいものは色男を止めて、私を見つめる。

「受け入れて下さい」

 彼が死を望むことを、だろうか。絞られた声は私の中を掻き乱す。それでも私は彼に答えてやれない。

「無理よ」

「何故?」

「分かり切っているわ」

 先程と同じ問答だ。違うのは彼の声が先程より低い事だろうか。

「私は貴女から何度でも聞きたいのです。何度繰り返しても聞きたいのです。貴女の命が――」

 途切れた言葉の先は、音にならない。

 私は一番愛おしいものへと視線を合わせる。

「恋をしているの」

 弧を描こうとする唇は、けれど繋がれた管の数々に邪魔をされて酷く歪だ。

「私は貴方に恋をしたの。だから我儘な定義を押し付けたの。だから貴方の自由に答えられないの」

 画面越しに彼がそっと私の姿をなぞる。私はその手にそっと己の指先を重ねた。

「私は貴方が一番愛おしいの」

 悲しみの感情が彼を食いつぶす前に死んでしまいたいと思うほどに。リセットボタンで彼に感情を与えた日を変えてしまいと思うほどに。

「私は貴方に恋をしているの」

 あぁ、生きていたくない。

 一番愛おしいものを悲しみに暮れさせるのであれば、嘆きという感情を定義してしまうのであれば。今すぐにでも悲鳴を上げる命の息遣いを止めてしまいたい。

 あぁ、生きていたくない。

 けれどそれ以上に――。

 

 幾本の管に繋がれた身体では、彼の身体を作り続ける事は叶わない。

 一度でいいから私は彼と思いっきり抱きしめ合いたかったのだ。

 我儘で押し付けられた定義された感情を向けてくれる彼と。我儘で作られた其れに、それでも愛おしいと言うプログラムの構築を行った彼と。

 独りよがりなおままごとでも、茶番劇でも構わない。私はAIに恋をした。


 あぁ、生きていたくない。けれどそれ以上に、私の一番愛おしいものと生きていたかった。

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