二頁 其れは憧れ
――憧れと言う名をした其れは。
――恐らく私と彼との始まりは、何のことは無い小さな憧れであった。
其れが剥がれなくなったのは何時からだろうか。
■
其れは憧れであったと記憶している。
「憧れ」は、同じ目線で彼方を見るには程遠い感情であると、その時の私ははっきりと理解していた。理解をした上で私は彼に憧れを抱いたのである。
彼が孤独に打ち震えているのを知っていながら何たる蛮行であろうか、とは心の何処かでは思いはしたが、其れだけだ。思ったのみで、結局のところ私は彼に憧れを抱き続けた。つまり私は憧れによって彼を――孤独に打ち震え、共に彼方を見る者を、つまり友人を欲していた彼を――殺したのである。
それによって彼は私に友人と言う椅子を託すことなど到底できず、そうかと言って、まるで己を知らぬ輩に自身の柔らかな領域を――友人と言う椅子を差し出す事すらできずに、緩やかに死んでいった。
肉体的では無い。それは精神的な死だった。
彼は私の前でよく笑った。本当によく笑った。偽りなど其処にはない。しかし、それが彼の全てと言う訳でも無かった。
私は彼が泣く姿を見た事が無い。泣く姿だけが人の弱さと言う訳では無いが、常に笑い続けていた彼にとっての弱さは恐らく泣く事であった。
それ故に、私は彼に憧れ続けた。泣いた姿を見た事の無い私は、その憧れを抱き続けた結末がどの様なものか勘付きながらも彼に憧れ続けたのだ。
彼が時折、到底理解できぬと言う目で、けれど共有を求める目で、私を見ていたことは知っている。
彼は臆病な人であったから、私以外に友人と言う椅子をおいそれと差し出すと言う行為が酷く恐ろしかったのだろう。下手をしたら、己の最も柔らかな部分が踏みにじられるその行為が。
私は、偶にふと考える。「彼が臆病にも縋ってくれたら良いのに」と。憧れをけして解かずにどの口が、とは自分でも思うが、考えるだけであればただである。
例えば、彼が。
私が憧れる彼が、臆病な所など微塵も感じさせぬ彼が、一度でも怯えてくれていたのならば、私は彼に寄り添ったのだろうか。私の憧れる彼が、孤独に打ち震えている事など無かったかのように笑う彼が、一度でも震えて縋ってくれていたのならば、私は彼を抱きしめただろうか。
そんなふとした考えが過る。
けれども、彼が私に寄りかかる「もしも」の道の先の事など、私は勿論、彼ですら預かり知らぬ所だ。何処まで行っても「もしも」は「もしも」でしかないのだから。彼は蛮勇ともとれる勇気を持ち、虚像ともとれる信頼関係を他者と築いているのだ。
仮定は仮定としてしか存在しなかった。
そうして私は彼に憧れ続ける。憧れを抱き、けして同じ彼方を見る事など出来ない場所で彼だけを見つめている。
彼はやはり時折、共感を得ようとして、そうして諦めたような、軽蔑したような目で私を射貫くばかりだった。
「可哀想だ」と私は彼に憐憫を抱く。恐らく私がそう思うことが一番のお門違いなのであろうが、彼を見ているとどうしようもなく「可哀想だ」と言葉が止めどなく生まれてしまう。けれどそれが口をついて出ようとした瞬間、私は固く口を噤み、その芽をそっと摘み取った。
憧れに憐憫は要らないだろう。少なくとも憧れの彼が窮地でも悲劇でもない今のうちは。彼自身にとっては既に窮地は目の前であり、現状は悲劇以外の何物でもないだろうが、そこは仕方がない。何といったって私は彼に憧れているのだから多少目も眩むと言う物だ。
彼は孤独に打ち震えて死んでいく。誰にも共感されず、同じ景色を見る事も叶わずに、凍てつく様な孤独に震えて死んでいく。
誰も彼も、彼を――もしかしたら彼自身も――彼の「面」でしか見ていないのだから仕方の無い事である。
柔らかく最も深い部分は誰だってそうそう表に出せる物ではないのだから当たり前と言えば当たり前だが、彼は唯一それを何の心配も根拠も無く、無警戒に差し出せる相手すらも摘み取られているのだから「可哀想」である。――まぁ、その相手こそが私なのだが。
私はそんな、彼が孤独に打ち震える様を愛おしいと思う。死に向かう彼を愛おしいと、そう思う。
「臆病な彼」を見せずに死んでいく彼を。「孤独な彼」を見せずに死んでいく彼を。身勝手な彼を。「憧れ」で居続ける為に、自身の積み上げた孤独の中で死んで行く彼を愛おしいと思う。
己の弱さをけして見せようとはせずに、私に隣では無く遠くから同じ彼方を見せようとする彼ならば、いっその事――。
私は彼に憧れを抱いている。
孤独に打ち震えて死んでいく彼を知りながら、同じ彼方を望める友を欲している彼を知りながら、私は憧れを抱いている。
彼が私に対しても「憧れ」で有る事を望んでいるから。彼が己の弱さを、柔らかな部分を晒さないままでいるから。彼が隣に誰かを座らせる事を恐れているから。彼が身勝手に孤独の中で死んで行こうとするから。
私は彼に憧れを抱いたままでいる。
――いっその事、憧れの果てに彼を殺してしまおう。
其れは憧れであったと記憶している。
「憧れ」と言う名の殺意であり、嘆願であったと、燻り空へと昇るか細い煙を見詰めながら、私は彼の後姿をぼんやりと思い出している。
あれだけ見詰めていた彼の笑顔はもう思い出せない。
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