ごとり、と柘榴

九十九

一頁 ごとり、と柘榴

 ――はじけて、ころがったのは。

 ――ごとり、と柘榴がはじけて転がった。

   「私」は夢を見た。「私」は微睡みの中にいた。


 ■


 ごとり。

 朱い柘榴がはじけて、私は顔を覆った。



 長い夢を見ていた。長い、長い、其れはもう一つの人生なのではないだろうかと錯覚するほどに長い夢を見ていた。もしかしたら、あのまま目覚めなければ私の人生は、現実は、彼方の夢になっていたのかも知れなかったが、覚めてしまったのだから此方が現実で、彼方が夢だったのだろう。

 私は未だ夢から足を引き抜けぬまま、微睡む。

 夢の中で笑った顔が、触れた熱が、ふと心の中を撫ぜた。夢の中での出来事だ。どれだけ長くとも、どれだけもう一つの人生のように錯覚したとしても、夢の中での出来事だ。

 それでも「愛おしい」と、そう気持ちを抱いた。誰にも明け渡した事の無い感情を夢の中で唯一人に抱いたのだ。

 目覚めた此方でも未だに感じたことのない、暴力的で弱弱しく、掠れそうな声で喘ぐように心から吐き出された「愛おしい」は、目覚めてみると心に泥を残すだけで何も生み出してはくれない。唯、此方には愛おしい者が居ないのだという事実に、心の中で何かがざらりと這いずった。

「愛おしい」

 口に出したとて、虚しく呼気に紛れて消えた言葉に、吐き出した瞬間に後悔した。

 あぁ、居ないのだ。

 その事実だけが心を掻き乱す。夢の中での出来事だと言うのに可笑しな話ではあるが、私はそれが現実であるような気がしてならないのだ。

 長い夢であったからだろうか。長い夢であったから私はあれを現実のように感じるのだろうか。其れとも「愛おしい」と言う想いが独り歩きしているのだろうか。

 私は微睡みながら考える。


 ――ごとり。

 私ははっとして周囲を見渡した。

 心臓が五月蠅く早鐘を打ち、気持ちが悪いくらい甲高い耳鳴りが耳を塞ぐ。視線を右に左に、そうして床を這うように、ゆっくりと動かす。

 鈍く耳へと入った音の正体は何処にも見当たらなかった。

 浅く、早く、息を溢す。あぁ、きっと微睡んでいたから幻聴なんか聞こえたのだと、強く胸元を握りしめる。長い夢は、幾らもう一つの人生のようだと錯覚しそうになるほどの長い夢は、夢でしかない。現実では無いのだ。だから、あれは夢だ。

 私は必死に頭を振って、こびり付いた光景を振り落とした。

「あぁ、愛おしい」

 何かが囁くように呟いた。途端に泣きたいような、縋りたいような、どうしようもない虚無感に襲われる。しかしそれにも私は頭を必死に振って、虚無感が抜け落ちるように振り払う。私を酩酊させる感情は夢に対する物だ。其れは可笑しい。可笑しいのだ。だって現実では無いのだから可笑しいのだ。

 私は一度大きく息を吐いた。深く、長く、未だに早鐘を打つ心臓の音を頭の奥で聞きながら、自分が息を吐く音にだけ耳を傾ける。

 どうして、夢なのにこんなにも内側から揺れ動くのだろうか。

「愛おしい」

 雑音交じりのその囁きを、微睡みと一緒にそっと追い出した。

 

 朝の陽ざしが目に痛い。

 私は開け放った窓の外、丁度昇り始めた太陽を薄眼で眺める。目が痛くとも、この青空と陽ざしを見ておかないと一日が始まった気がしないから、私は目を細めて眺め続ける。

 葉と水の優しい匂いを吸い込んで大きく呼吸すると、気分がいくらか落ち着いた。朝の低い温度で、先程掻いた汗が冷たいけれど、その分頭が冷えて微睡まないから助かる。

 窓辺に身体を寄り添わせて、風の通り道に身体を預けた。目を伏せて、葉と水の匂いだけを鼻で追う。

 手を引かれた先、朝露が散りばめられたその場所で笑うその姿が――。

 目を開ける。考えかけた姿が消えていく事が少しだけ胸を引っ掻くけれど、見ない振りをして窓の冷たさから身体を引き剥がした。

 そうして其の侭の足で鏡の前に腰を下ろす。何時ものように微睡んで、何時ものように昇る陽ざしを眺めて、何時ものように身支度を始める為に鏡の前へと座る。何時ものように。何時も夢から目覚めた後にやっている事だ。だと言うのに、何故か何時もとは違うような、何かが欠けているような気がした。夢を引き摺っているのだろうか? 

 何時もは――。

 何かが囁こうとしている。けれど私はそれを聞きたくなくて、額を冷たい鏡面に張り付けた。無機質で冷たい鏡は熱を奪っていく。

 ふと、鏡に映る己の姿を見て疑問が頭を小突いた。

 私はこんな顔をしていたのだっけ?

 こんな顔をしていたような気もするし、違うような気もする。私の顔であるはずなのに、夢の中で違う誰かになって覗き込んだ鏡のような違和感が生まれる。

 私はどんな顔をしていたのだっけ?

 どんなも何も、鏡に映った姿が、そのままの姿であるのに可笑しな疑問だ。けれども何故かそんな風に思った。

 私の顔はどんな顔だったのだっけ?

 目も、鼻も、口も、眉の形も、何かが違う気がした。何処が如何とは言えないけれども、何処かが違う気がした。けれど幾ら見つめても小さな違和感の正体は掴めない。

 居心地の悪さは有ったがそれ以上如何する事も出来ずに、少しの違和感を残して、私は諦めて鏡の前で身支度を始める事にした。

 髪を梳き、肩に掛けていた布を取り払い、そうして服を捲って――唖然とした。

 傷が――無い。

 生唾を飲み込む音がやけに耳に付く。

 指をそっと這わせてみるが、傷跡のあの凹凸も引き攣った痕も何もない、滑らかな肌の感触だけが帰って来る。

 どうして。

 先程やっと戻ったばかりの呼吸が再び、浅くなる。有った物が無くなるなんて。其れも消えようが無いものが、最初から何も無かったように消えるなんて有り得ない。

 どうして、と唯それだけが頭の中をぐるぐると廻る。

 

 ――がたん。

 やがて辿り付いた答えに私は瞠目した。

 倒された椅子は抗議の声を上げる事も無く、倒れたまま静寂を刻んでいる。私は、倒れた椅子を気に掛ける事も出来ずに身体を抱きしめて縮こまる。

 何処からが夢で、どこからが現実だったのだろうか。

 獣のような息遣いで、震える指を必死に身体に食い込ませる。喰い込んだ肌も、震える指も痛々しいくらい白くなっているが、私は其れすら気が付かない。

 何が夢で、何が現実なのだろうか。

 私の身体は風に吹かれて冷たくなっていく。俯いてきつく目を閉じたまま、私は私の身体を掻き抱いた。外では日がどんどん上に昇って行く。

 震えて白くなった指はやがて痛みを与えるように、身体を掻き毟る。其処に温度が、痛みが有る事を確認するように掻き毟る。白かった肌はやがて赤い線が描かれ、うっすらと血が――。


 ――――?

 私は目を瞑っている。きつくきつく瞑っている。私は唖然としすぎて周りの事なんて何も目に入っていない。私は、ならばそれが目に入っている”私”は何?

 違う。その光景が目に入っているのではない。其れがまるで情景のように頭に浮かぶのだ。私としての視点と”私”としての視点が存在している。

 私はそっと瞼を上げた。恐る恐る身体を見ると浮かんだ情景其の侭の己の身体が映る。想像では無い。予想でも無い。二つの視点からはっきりと眺めているのとはまた違う。私と”私”の視点が存在するこの感覚は。


 

 違和感がぐにゃりと歪んだ。頭の中の情景が不安定に揺れて、私の見ている景色も歪に割れて。ぐにゃり、ぐにゃりと世界が溶けていく。

 目が痛い。次から次へと温かい物が溢れる両の目が痛い。


 ――私は目を覚ました。

 まるで現実なんじゃないかと思うような、そんな夢から、本当の人生へと目を覚ました。

 けれど両の目は何時までも光なんて映しはしない。唯々熱い物が流れ続けるだけだ。何も見えない。痛い。痛くて、恐ろしい。

 けれども、私の両の目が失われた事なんかよりも痛くて恐ろしいのは。私よりも、私が失われるよりも痛くて、恐ろしいのは。



 ――無音。或いは雑音。

 朱い柘榴が隣で弾けている。

 私は顔を覆うことを止めて、転がった柘榴を掻き抱いた。

「あぁ、いとおしい」

 あぁ、愛おしいのだとどれ程言葉を溢したとて、冷たくなった柘榴は私の手を引いてはくれないのだ。

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