第5話 橘京子

 橘京子は問題児だ。

 教材の代わりに鞄いっぱい怪しげなものを持ち歩き、ろくすっぼ授業にも参加せず、自由気ままにあちこち徘徊している。


 橘自身は別に何か主張があるわけでもなく、かといって不良を気取るわけでもない。ただ、学校で授業を受けるよりも面白そうなことがあればそちらを優先しているだけだ。今までずっとそうやって生きてきた。


 面白おかしく欲望のままに生きること。それだけが橘にとって何よりも優先される至上命題だ。


 そんな橘にとって『奴ら』の出現は最高に刺激的なイベントだった。

 たまたま気が向いて授業に参加していた橘は、すぐに異変に気付いた。ほどなくしてパニックが始まり、視聴覚室に3年生が逃げ込んできた頃には、橘自身は今後の算段を考えていた。


 すぐに行動を起こすのは得策ではない。鼻つまみ者の橘があれこれ言ったところでパニック状態の子供が言うことを聞くとは思えないし、まだ『奴ら』の襲撃規模も判然としない。差し当たって脅威が迫っていないなら、小康状態になるのを待ってから行動を開始するつもりだった。


 そんな時に現れたのが厳島だ。


 一目見て、橘は厳島の異常性を見抜いた。見た目こそ黒髪を丁寧に三つ編みにし、銀フレームの眼鏡と細い身体つきという優等生を絵に描いたような厳島だが、その目に宿る光は知性よりもむしろ野性を感じさせる。


『こいつぁ』


 橘の背筋を何かが駆け巡る。運命の出会いだとすら感じた。


 橘の直感を裏付けるように、厳島は呆然としている生徒たちにテキパキと指示を飛ばし始めた。もとより指示に従わない生徒を説得するつもりはないらしく、自身も率先して作業をこなしている。最悪、1人でもやる腹積もりだろう。


 もちろん、橘は協力を申し出た。逃がすものか。せっかく見つけた運命の相手を。


     ―      ―      ―


 厳島がカーテンを外している間に、橘は机の中身を外に掻きだし、階段の脇へと運んで積み上げていった。厳島が到着する前に素組だけ済ませてしまおうと橘が手を伸ばすと、階下に動く人影が視界の隅に映った。


 瞬間的に橘の身が硬直し、机の足を握る手にも冷や汗が浮かんだ。


『もう上ってきたのか。規模は? なにか武器になるものは?』


 咄嗟に身を隠しながら階下の様子を伺うと、食い破られてボロ布同然になった制服を身に纏った男子生徒だった。虚ろな表情でのろのろと歩くその姿は、既に生者のそれではない。


 1対1なら『奴ら』はそれほど驚異にならない。観察の結果、橘はそう結論付けた。十分な間合いを取り、スペースがあるならば、直線的かつ素早くもない『奴ら』を相手取るのはそう難しいことではない。


『まだこっちには気付いてない、なら……』


 橘は机の足を両手で握り締め、『奴ら』がこちらに背を向けた瞬間、階段を一気に駆け下りて机の角を頭部に振り下ろした。


 鈍い衝撃音に少し遅れて、橘の手に痺れるような手応えが通じる。『奴ら』はそのまま前のめりに倒れ、ピクリとも動かなくなった。


「よっし、スコア1――」


 血の滴る机を手にガッツポーズを取ろうとした橘の体が、凄まじい力で引き倒される。驚きに見開かれた橘の目が捉えたのは、下半身を失い、上半身だけで這いずってきた『奴ら』が自分の足首を掴んでいる光景だった。


「このっ!」


 机を振り上げようとするも、引き倒された体勢ではまるで力が入らない。度胸は人並み以上であっても筋力が平均レベルの橘では、地面に倒されるというのはほぼ死を意味する。


『焦るな、考えろ、あたしゃまだこの状況を楽しみたいんだ!』


 冷や汗を浮かべながら、とにかく噛みついてこようとする『奴ら』の額を、掴まれていない右足で押し返した。『奴ら』がいかに怪力を振るおうとも足の筋力は一般的に腕の筋力の3倍はある。


 その上で、『奴ら』の力は橘と拮抗していた。無理な体勢でいる上に極度の緊張状態で橘の呼吸にも乱れが生じる。


『どうする、助けを――ダメだ、声に反応して『奴ら』が集まってきたら、それこそ絶対に助からない。くそっ、足がしびれてきた』


 橘の脳内を様々な考えがグルグルとめぐる。この窮地を脱するための方策を求め、今までの記憶を総動員する様はまさしく走馬燈といえた。


 しかし、どうにもならなかった。


 橘の記憶の中に、この状況を単独で突破する方法は記録されていなかった。


『厳島さん、せっかく会えたのに。ちくしょう、せめて、せめて彼女にだけは――』


 喉の奥から溢れようとする、助けを求める悲鳴を必死に噛み殺した。せめて時間を稼いで1人で死のう。それが自分にできる最善だと橘は結論付けた。


「何を『覚悟を決めました』みたいな顔をしているのかしら」


 橘の足を掴んでいる『奴ら』の首にカーテンを巻き付けた厳島は、そう言いながら『奴ら』の頭に足を乗せて思い切りカーテンを引き絞った。『奴ら』の首が軋みをあげ、ほどなくして頸椎が外れる音と共に『奴ら』の体から力が抜ける。


「厳島、さん。どうして」


 スカートの裾を直している厳島を見上げ、尻餅をついたまま橘がたずねる。


「帰りが遅いから様子を見に来たらこのザマよ。頼りになりそうだと思っていたけれど、見込み違いだったかしら」

「ごめん」


 差し出された手を取りながら、橘は心底己の軽率さを恥じた。


 たまたま助かった。しかし、それは本当にたまたまだ。死んだら終わり。今の今まで、橘にとってどこか遠い出来事に過ぎなかった『死』という絶対のゲームオーバーを身近に感じていた。


「そうか、これはゲームじゃないんだ。油断したらあっさり死ぬし、死んだらもうリスポーンもコンティニューもできないんだ」

「別にゲームという認識でも構わないけれど、リスポーンもコンティニューもないし、クリアも保証されてないクソゲーだと思うことね」


 冷めた口調で意外な単語を吐き出す厳島に、橘は珍獣でも見るような視線を送った。


「何よ」

「いや、厳島さんから出てきそうもない言葉だったから」

「まあ、実際にプレイしたことはないけれど」

「そっか」


 橘は軽く笑った。


「おやおや、この状況で笑ってるとはね。ずいぶん頼りになりそうだ」


 階下からの声に、2人は同時にそちらに視線を送る。


 視線の先には、北見を背負った祐介と、その傍らに足立、木刀を携えた吉川の姿があった。


「上はどんな様子だい」

「4階までは上がってきてません。今、バリケードを作っているところです。そちらは?」

「下はダメだ。上はどのくらい残ってる」

「200名弱といったところです。実際には150近いかもしれません」

「へえ、想像より多いな。それならいけるかもしれないね」


 突然現れた祐介の言葉に、橘は厳島と似た匂いを感じていた。


 どうにかしようとしている。


 誰がどう見ても絶望的なこの状況を、裕介と厳島はどうにかする気でいる。


「僕は稲葉祐介。背中のは北見恵理さん。こっちは足立景さん。そっちは吉川千草さんだ」


 祐介に紹介された3人が会釈をする。吉川のことは橘も知っていた。何しろ有名人だ。


「厳島香苗です」

「橘京子です」

「うん、厳島さんと橘さんか、これからよろしく。それじゃ始めるか」


 そう言って祐介は階段を上り始めた。


「始める?」


 橘が首を傾げると、祐介は口の端を持ち上げる。中学生らしくない、自虐的な笑みだった。


「決まってるだろ、この状況を打破する」

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