第4話 厳島香苗

 厳島香苗は退屈していた。

 ひどく退屈していた。


 運動にあまり興味が湧かなかった厳島は、退屈を紛らわせるためにひたすら知識を蒐集した。それはまさに貪ると表現するに相応しい有様だった。


 しかし、皮肉なことに、厳島が知識を蒐集すればするほど退屈は堪え難いものになっていく。その痛苦から逃れるため、ただひたすらに没頭した。厳島という少女は、もはや知性の奴隷だった。


 そんな厳島にとって『奴ら』の出現は、生まれて初めての刺激といえた。


『1階はもうダメだ。パニックを起こした人と『奴ら』で身動きが取れなくなってるはず。なら、上に逃げて迎え撃ったほうが良い』


 厳島の決断は早かった。


 逃げ惑うクラスメイトの間をすり抜け、ひとりとにかく上を目指す。下から『奴ら』が上ってくることはあっても、上から『奴ら』が下りてくることはあり得ない。『奴ら』が1階の獲物に夢中になっている時間を利用して迎撃態勢を整える算段だ。


 階下から悲鳴が聞こえる。厳島は振り返らない。


『上に向かってくる人がいたら協力しよう。悪いけど、この状況で下に向かうような人がいても足手まといだわ』


 なるべく人手は多いに越したことない。しかし、猫の手は要らない。そんなものがいくら集まっても単なる烏合の衆になるだけで、犠牲者が増えるだけだ。

 厳島は生き延びたかった。生きてこの状況をもっともっと楽しみたかった。


『考えろ。何ができる。何が利用できる。『奴ら』は何を目標に定めている。観察して、考察して、回答を導け』


 答えが決まり切っている暗号に過ぎない試験に比べ、なんと刺激的でやりがいのある問題だろう。

 厳島の口角は吊り上がり、息を切らせて階段を駆け上がるその表情は幸せそうですらあった。


 厳島の通う学校の屋上は、平時は封鎖されている。つまり、現状では4階が最上階ということになる。2階から一気に4階へと駆け上がった厳島は窓に手をつき、しばらく呼吸を整えた。元来、運動が得意なほうではない。


「参ったわ、こんなことならもう少し体力をつけておくべきだった」


 独り言ちながら、頭の中で校内の見取り図を広げる。4階は3年生の教室が並び、東側に音楽室、西側に視聴覚室を備える。


『通常教室は論外。音楽室と視聴覚室なら視聴覚室のほうが収容人数が多い。なら、ここは視聴覚室に向かうべきか』


 西の端にある視聴覚室は非常階段が併設されていて、非常階段は体育館とプールの間を抜ける避難経路になっている。音楽室にも非常階段はあるが、そちらは校庭に繋がっているのでやや都合が悪い。


 厳島が『奴ら』を観察して得た確証のひとつとして、とにかく集団で行動するということだった。何をもってして団体行動を取っているのかは全く不明だが、とにかく『奴ら』は獲物を定めると周囲の『奴ら』を呼び寄せて集団戦を仕掛けてくる。


 狭い通路なら戦いようもあるが、だだっ広い校庭ではたちまち囲まれて呑み込まれてしまうだろう。その点も踏まえて、厳島は視聴覚室をとりあえずの防衛拠点と定めた。


 視聴覚室に厳島が辿り着くと、そこには既に先客がいた。授業で使っていた2年生のクラスと、3年生の一部。ざっと目算で120名ほどの女生徒が視聴覚室の片隅に身を寄せ合い、窓から外の様子を伺っている。


 引き戸を開けた厳島を全員が怯えたような目で見たが、すぐに興味を失くして外に視線を戻してしまった。厳島は多少の落胆を隠しもしなかったが、すぐに当初の目的に取り掛かることにした。


 まず、遮光カーテンで隠されている非常階段のガラス戸を確認する。しっかりと施錠されているがアルミとガラスでできたドアはいかにも頼りなく、『奴ら』の侵入を防ぐなら何かしらで補強する必要がある。


『今のところ、こっちから上ってくる『奴ら』はいない。か。なら、最優先じゃない』


 カーテンを引き、厳島は併設されている準備室を覗き込む。そこには机と椅子がきれいに積み上げられていて、これはバリケードの素材として使えるだろう。しかし、ただ机を積み上げるだけでは何の役にも立たない。それらを繋ぎ止めるものが必要だが、厳島の手持ちには無い。


 すぐに思い付くのは技術室の番線だが、技術室は1階にある。今さら下に戻るのは自殺行為でしかない。すぐさまその案を棄却した厳島は、各教室のカーテンに目を付けた。


「みんな、カーテンを外して、早く」


 最初はきょとんとしていた生徒たちだが、他に頼るもののない生徒たちは厳島の迷いのない言葉に盲目的に従った。


 生徒たちがカーテンを外している間に、厳島は片っ端から戸棚を開けて目当てのカッターナイフを取り出すと、縦に細くカーテンを引き裂いていく。そしてできた細切りのカーテンを何本か縒り合わせて丈夫なロープにした。


「私は他の教室を回ります。みんなはこれと同じものをできるだけたくさん作って」

「こんなもの、何に使うの?」

「机を繋げてバリケードを作ります。急いで」


 言うが早いか、厳島は漁ってきたカッターナイフをその場に広げ、自分も1本掴んで視聴覚室を飛び出した。とにかく時間との勝負だ。何の準備もないまま『奴ら』が雪崩れ込んで来たらもう逃げ場はない。


 走る厳島の隣に、一人の女生徒が並んだ。黄色いスカーフの2年生だ。

 明るいぼさぼさの茶髪を雑に幅広のゴムバンドで留め、眠そうな目と鼻の上に散ったそばかすが印象的だった。


「やあ、アンタもこの状況を楽しんでるクチだね」


 そう言って笑うと八重歯が覗く。


「別に楽しんでるわけじゃないわ。最善を尽くそうとしてるだけ」

「んーにゃ、アンタはその最善を尽くすことを楽しんでるのさ。みんなが教室の隅で震えておしっこちびりそうになってるのに、当たり前のように『奴ら』と戦うことを選んだ。それはフツーじゃないんだぜ」


 少女は歌うように言いながら、厳島と一緒に教室のカーテンを引き剥がし始めた。


「そんなに警戒しなさんな。少なくとも、あたしゃアンタとお友達になれる気がするね」

「そうかしら」

「そうとも」


 少なくとも教室に残った生徒よりも自主性はある。比較的安全とはいえ、外に出る度胸もある。友人になれるかどうかは別として、使えそうではある。と、厳島は結論付けた。


「厳島香苗。あなたは?」

「橘京子。親しみを込めてキョーコちゃんと呼んでくださいな」


 橘は終始ふざけた口調だったが、作業は早い。


「そう、じゃあ橘さんは机を集めてもらえる? 見てのとおり、私はあんまり肉体労働が得意じゃないから」

「クカカッ、あたしが肉体労働に向いてるように見えるかね。まあ、リョーカイリョーカイ」


 橘は心底愉快そうに笑うと、片手にひとつずつ机を掴んで教室を出て行った。


「変な子……」


 厳島は率直な感想を漏らしたが、その言葉はどこか楽しげでもあった。

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