第3話 足立景

 女は家を守る。そのために強くあれ。足立景にとってその言葉は呪いそのものだった。


 生まれた時から足立の家を守るための道具として育てられ、家を守る女として必要な技術の全てを厳しく叩き込まれた。周囲から見ればあまりにも前時代的で異常な躾も、他の世界を知らない足立にとっては日常の1コマに過ぎない。


 それでも、足立は時々夢想した。


 果たして、この世界は自分が仕えるに足るのだろうか。自分の全てを捧げてもなお足りない、そんな伴侶が本当に存在するのだろうか。退屈な日常に生きる退屈な男に辟易しながらも、足立はいつか現れる自分を捧げるべき相手を求めていた。


 そんな日々も唐突に終わりを告げる。


     ・     ・     ・


「なんか、静かになったね……」

「そうね。まあ、外を見る限り事態がよくなったってことはないと思うけれど」


 ベッドの下に身を隠し、傍らで震えるクラスメイトの手を握り締めながら足立は呟く。


「先生、戻ってこないね」

「そうね」


 思考の邪魔になるので少し黙っていてほしいというのが正直な感想だったが、この善良なクラスメイトにとって『話し相手がいる』ということが最後の一線になっていることは容易に想像がついたので、足立は面倒でも必ず相槌を打った。


 足立が腕時計に視線を落とすと、既に騒ぎが発生してから10分が経過していた。いや、まだたった10分というべきか。

 ほんの10分足らずで蜂の巣をつついたようなあのパニックが終息してしまった。カーテンの隙間から見えた外の光景から見て、『奴ら』が1匹残らず駆逐されたとは考えにくい。それはつまり、『犠牲者』がいなくなってしまったということだ。


「私たち、死ぬのかな……なんでかな、なんにも悪いことしてないのにさぁ」


 クラスメイトの声が湿り気を帯びる。


「大丈夫。きっと何とかするから。今までに私が嘘を吐いたことある?」

「足立さぁん」


 涙ぐむクラスメイトに微笑みかけ、強く手を握り締める。


「ごめんね、私に付き合わせちゃったせいで足立さんまで逃げ遅れちゃって」

「あなたのせいじゃないわ。それに、もしかしたらそのおかげで命拾いしたのかもしれない。だとしたら命の恩人ね」


 刻一刻とクラスメイトの精神は削られている。足立の目には、まるで今にも燃え尽きようとしているロウソクの灯りのように見えた。その灯火を消さないように、足立は必死に守り続けていた。


 その時、保健室のドアを乱暴に叩く音が響き渡った。


 悲鳴をあげるクラスメイトの口を必死に塞ぎ、上に覆いかぶさるようにしながらじっと息を潜める。相手が人間ならば鍵が閉まっている室内に誰かいないか確認するはず。足立はそれを待っていた。


「んー! んんー!」

「静かに、大丈夫。静かにしていればやり過ごせる」


 言い聞かせるように、耳元で静かにささやきかける。いざとなったら絞め落としてでも黙らせるつもりだった。


 いまだにドアを叩く音は響き続けている。その音は次第に大きくなっており、理性はまったく感じられない。


 足立は息を潜め、ただじっと脅威が過ぎ去るのを待っていた。ただ、それは足立だからできた芸当であり、単なる善良な中学生に過ぎないクラスメイトには到底耐えられるものではなかった。


「もうイヤぁっ!」


 ついにクラスメイトの中で何かが切れ、口を塞いでいる足立の手に思い切り噛みつき、足立の拘束が緩んだ一瞬の隙に、普段からは想像もつかないほどの俊敏さを発揮して足立の拘束から抜け出したクラスメイトは、そのまま唯一の出入り口であるドアに突進した。


「ダメ!」


 足立の制止もむなしく、錯乱したクラスメイトがドアに手をかけた瞬間、木製の引き戸が内側に破られた。そうして室内に侵入してきたのは、ボロボロの白衣を身に纏った養護教諭だった。


 まだ若く、タイトスカートから覗くストッキングに包まれた足がきれいで、男女問わず人気があった。今は無残に破かれ、食い破られた傷口が痛々しく、見る影もない。


「やだ、先生、私だよ、わからないの?」


 倒れたドアに挟まれたクラスメイトが、完全に正気を失って『奴ら』と化した養護教諭に話しかける。その目に最期に映ったのは、ねばついた血に染まるきれいな歯並び。


「あ゛あ゛あ゛あ゛! いだ、いだいぃ! ぜんぜぇ、やめっ! ギアァァァァ!」


 身の毛もよだつような断末魔を聞きながら、足立は豊かな胸元に手を当てて静かに呼吸を整えていた。呼吸が乱れるとすべてが乱れる。パフォーマンスは落ち、切り抜けられる状況も切り抜けられなくなる。


 だから、どんなに恐ろしくとも深呼吸をする。骨折の痛みに泣きじゃくる足立に、父親が冷水のように浴びせ続けた絶対の教えだった。どんなにつらく苦しくとも、まずは向き合わなくてはならない。


『大丈夫。少なくとも今は、私に注意は向いていない』


 頭の芯が呼吸に合わせて冷えていくのを感じる。非情な判断を下しながら、足立はこの窮地を脱する手立てを自分の経験に問い詰める。いつだって今の自分を助けるのは過去の自分だ。


 そして、足立の決断は早かった。


『手足は動く。見たところ、そんなに動きも素早くない。なら、問題ない』


 クラスメイトを貪っていた『奴ら』が、地面を蹴って一気に距離を詰める足立の接近に気付くと同時に、その鼻の下の急所を正確に爪先が貫いた。


「ッシ!」


 伸ばした右足を素早く折り畳み、返す足先で顎を蹴り上げる。足立の力でも、常人なら十分に死に至らしめる連携。しかし、仰け反った『奴ら』は特にダメージを受けた様子もなく、倒れ込みながら足立の蹴り足を掴んだ。


 それに対して、足立は掴まれた足を軸にして体を空中で捻り、無理な方向にねじくれる『奴ら』の肘を蹴り折った。どういう原理で動いているかは不明だが、肘の関節が破壊された『奴ら』は握力を失い、その間に脱出した足立はもう一度距離を取る。


『関節を破壊すればその先は機能を失う。だけど顔面の急所は効果無し。つまり、狙うべきは首だ』


 折れていない腕を突き出して襲い掛かる『奴ら』の腕を掴み、一本背負いの要領で地面に叩き伏せると、高く掲げた踵を『奴ら』の首めがけて思い切り振り降ろした。


 ギロチンのように振り下ろされた踵に首の骨を踏み抜かれ、『奴ら』は一瞬四肢を大きく痙攣させてから完全に沈黙した。


「ふぅー」


 大きく息を吐き、乱れたスカートの裾をはたいた足立は、再び気配を感じて出入り口のほうに向き直る。


     ・     ・     ・


「これはまた、とんでもない現場に出くわしたな」


 騒ぎを聞き、北見を背負って吉川と共に保健室に駆けつけた裕介は口笛を吹いた。


 今しがた『奴ら』の首を踏み抜いたのは、顎のラインで綺麗に切り揃えられた黒いレイヤーボブに、祐介の学校では珍しい膝丈のスカートに三つ折りソックスという校則のモデルのような出で立ちの少女だった。

 丁寧に手入れされた整った眉に鼻筋の通った顔立ちは、好みによっては美人といえる。それよりも、中学生とは思えない立派な胸元が目を惹いた。


「ん、君は……確か足立のお嬢さんか」


 祐介の後ろから中を覗き込んだ吉川が足立の姿を見て言う。


「そう言うあなたは吉川さんね」


 足立は神経質そうにスカートの裾を直しながら答える。


「知り合いなのか?」


 祐介の言葉に吉川は軽く首を横に振った。


「知り合いというほどでは。ただ、親が同業なので面識がある程度です」

「なるほど、道理で」


 正直、吉川のような少女が2人もいるとは考えにくかったが、現に目の前で『奴ら』を屠るところを目撃してしまっては納得するしかない。


     ・      ・     ・


 足立は闖入者をじっと観察していた。


 足立の知る限り、吉川は間違いなく超人の領域にいる人物だった。その吉川を連れるこの男は何者だろう。


 ぱっと見は冴えない男だ。ただ、この状況において生存者をパニックにすることなく引き連れ、本人も至って冷静でいる。これは間違いなく一種の才能とでもいうべきものであり、そのことは足立自身が1番理解していた。


「ああ、神さま、この人ですか?」


 艶めいた吐息混じりの呟きが漏れる。

 この男ならば足立を使いこなしてくれるかもしれない。だとすれば、足立が恋焦がれた伴侶はついに現れた。


「2年、足立景です。お名前を伺ってもよろしいですか?」


 スカートを軽く摘み、胸に手を当てた足立は妖艶とすらいえる笑みを浮かべ、ゆったりと会釈した。

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