第58話

 久しぶりに見る彼女の白い肌だ。


 彰夫は一升瓶を傾けると、コップに半分だけ『風の森』を注いだ。

 コップ持った手がドアの向こうに引っ込むと、喉を鳴らして一気に飲む音のあとに『カーッ』という酒飲み特有のため息が聞こえた。

 久しぶりの酒がテルミのからだに染み渡っているのだろう。白く滑らかな手がまた出てきた。空のコップをゆすって、酒を催促する。

 彰夫は今度も半分だけ注ぎながら言った。


「テルミ、なんで急にいなくなったんだ。」


 部屋の中から返事はなかった。

 そのかわりに、また空になったコップに酒を催促する手が出てきた。


 今度は、彰夫はコップに酒を注がずに、その手を握った。

 手はドアの奥に逃げずに、彰夫の求めを拒むことなく動かなかった。久々に触れる彼女の肌。その白く、柔らかく、そして滑らかな肌に触れていると、肌の奥深くにある温かみが彰夫の手に伝わってくる。

 この柔らかさと暖かさは、憶えがあるぞと彰夫は思った。

 遥か昔に封印した記憶が蘇ってきた。そうだ、母親の手だ。彰夫が、好美やテルミとの暮らし中で、彼女たちから享受していたものを、やっと今気づくなんて…。


「テルミさんが…彰夫さんといると…本来の自分じゃなくなっていくようで…嫌だと言っています」


 中から好美の声がした。

 テルミは好美と対話するだと。

 彰夫は心底驚いた。その驚きと戸惑いをふたりに気づかれぬよう、こころを無理やり落ち着かせる。


「それは、テルミだけが言っているのではなく、好美も同じだろ」


 好美からの返事はなかった。


「でも…本来の自分ってどんなんだろうね?」


 彰夫は彼女の白い手を、指で優しく愛撫しながら言葉を繋げた。


「本来の自分じゃないと思っている自分が、もしかしたら本当の自分かもしれないよ」


 相変わらず部屋からは返事がない。


「恐れないで、その時の自分を受け入れればいいんじゃないかな」


 彰夫が握る白い手がわずかに動いた。


「彰夫さん」

「なんだい?」

「テルミさんが言うには…、自分が思い込んでいるわたしが、本当の私でないなら…」


 ドアから覗く白い手が、今度は彰夫の手を掴んだ。愛情の表現と言うよりは、逃がさないぞと言っているような握り方だった。


「酒が飲めないと思いこんでる彰夫は、本当は飲めるのかもしれない…。と言っています」

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