第59話
白い手が、空のコップを彰夫に差し出した。
しかし彰夫は、身体を硬直させてコップを受け取ることができない。飲んだら、自分はどうなってしまうんだろう。そう考えると眼の前の日本酒が心底恐ろしかった。
「屁理屈言って口ばっかりね、あんたは…。とテルミさんが言っています」
彰夫の声は恐怖で震えていた。
「そうだね…テルミの言う通りだ。…結局やってみなければ、何が本当の自分なのか、自分ではわからない」
彰夫はコップを受け取ると、なみなみと日本酒を注いだ。
「彰夫さん。無理しないで…」
心配する好美に、彰夫は死を覚悟して言った。
「さあ、本当の自分探しの旅に出発だ」
「何大げさなこと言ってんのよ。さっさと呑みな」
テルミの声に促されて、彰夫は一気にコップを飲み干した。
子供の頃の事故以来、初めてアルコールを身体に入れた彰夫。
コップを口にした瞬間、確かにわずかであるが清々しい香りがした。案外スムーズに酒がのどを通っていく。飲みきった瞬間は、美味しかったのかもしれないと思った。
なんだ、どうってことない。やっぱり、本当の自分って…。しかしそんな喜びも束の間、やがて心拍数が上がり、額の血管が音を立てて血液を運び始める。身体中の血液が顔に集まってきたような気がした。
頭痛が始まる。手首を見ると湿疹のようなものが見えた。やがて彰夫は、焦点が合わなくなった眼で、ゆっくりと部屋のドアが開くのを見た。
「彰夫って、本当に面白いわね」
「そうですね。生理的にダメなものは、ダメだと、誰でも解ることなのに…」
「こいつやっぱりひとりにしておけないわね」
「はい。私たちがしっかり面倒見ないと…」
彰夫はテルミと好美が話しあっている声を聞いたような気がした。それぞれの人格が、協力し合いながら俺を共有するなんてことがあるのだろうか…。薄れていく意識の中で、杉浦教授にどう報告したらいいかと心配する彰夫だった。
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