第57話

 テルミの部屋の前に立った彰夫はしばし考えた。


 ことを始める前にまず中に居るのが今、テルミなのか、好美なのか確認する必要がある。すると彰夫が策を弄する必要もなく、中からテルミの声がした。


「彰夫なんかに会いたくないわ。帰って」


 彰夫は意外だった。なんで自分が来たことを知っている?縁側での義父との会話に聞き耳を立てていたのか?

 実は自分の世界に籠っているのではなく、何かを待っていたのか?


「テルミ、久しぶりだな」


 テルミからの反応は無かった。


「もうずっと部屋に籠ってるんだって…ご苦労さんなこった。しかし、そろそろお酒が切れてる頃じゃないか?」


 あいかわらず返事が無い。彰夫は言葉を続けた。


「今日ね、お義父さんが注文していた酒が入ったんだって」


 彰夫は一升瓶を指ではじく。


「聞いたら、『風の森』とかいう幻の銘酒らしいよ。へぇー、奈良の蔵元の酒なんだ…。1719年 享保4年創業、油長酒造か…」


 部屋の中で人の動く気配がした。


「あれ、一升瓶に解説の書いたタグが下がってら。なになに…金剛渇城山系地下100mの湧水を用いられ、最初の飲み口では協会7号酵母ならではのフルーティーな上立ち香と含み香が出現します…か。俺にはまったく意味がわからん…」


 ドアのすぐ向こうにテルミがいる気配がする。


「ほかは何と書いてあるんだ…。飲むほどに、丸みのあるなめらかな飲み口、そしてソフトな甘みがゆっくりと広がります。山田錦の親、雄町という米の特徴である、豊な甘みと優しい酸味を楽しめるお酒です。だって…」


 彰夫は、中で唾を飲み込む音を聞いた。


「あれ、透明じゃないんだな。ああ、これが無濾過生原酒ってやつか。ほんのり色ずいた景色も楽しい…」


 テルミの部屋のドアがわずかに開くとコップを持った手がにゅっと出てきた。

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