第52話

「別に及川君を責めているわけではないよ。専門医に連れていったところで、事態が改善されたかどうか解らない。心の健康については、まずそれを自覚し本人がその健康を望むかが重要な要素だからね」


 杉浦教授は話を続けた。


「及川君の話を聞くと確かにテルミさんが基本人格と言って間違いがいないようだね。最初に会ったのはテルミさんだし、及川君についての情報入手は、常にテルミさんの方が先行していたようだ」

「でも…テルミは好美のことを知っていましたが…」

「基本人格が交代人格について何も知らないということも、多くの事例がそれを示しているだけで、すべてがそうであるかどうかは誰もわからない。最近では、環境的痕跡から、基本人格が交代人格についての『人となり』について、ある程度察することができるのではないかという学説も持ち上がっている」


 落ち着いた杉浦教授の返答にもペースを合わさず、彰夫はせき込んで質問を投げかけた。


「学生証の名前が好美であるのはどうしてでしょう。」

「好美さんはなぜ及川君と賃貸契約を結べたんだろうね?」


 自分の質問に、質問で返答する杉浦教授に戸惑いながらも、彰夫は必死に答えを探す。


「それは…契約時の身元確認がおろそかになっていたと自分でも反省しています」

「マンネリ化による業務怠慢。大学関係者としては不適当な発言だか…同じように大学の学生管理でも、親が再婚したから名前が変わったと申請すれば、ある程度の書類を準備するだけで比較的簡単に登録名も変えられるしね」

「どうして、名前を変えてまで美大に通う必要があったんでしょう。」

「たぶん、美大に関係なく、故郷を離れてひとりで暮らすためには、人格を維持するために名前を変える必要があったんじゃないだろうか」


 ホームズのように事態を解説していく教授に、彰夫はぐうの音も出なかった。


「そしてもう一つ明らかなのは、テルミさんが及川君と出会うことによって、今まで保っていた人格バランスが崩れ、行動パターンが不安定になってしまったということだね」

「なぜでしょうか?」

「原因は学術的調査をしなければわからん」

「…自分はどうしたらいいんでしょうか」

「おいおい、僕は及川君の質問にいくつかの解答例を提示できたとしても、君の行動を決めるような責任は負えないね。及川君はどうしたいんだい。」


 彰夫はしばし考え込んだ後に、ゆっくりと話し始めた。


「自分は…何らかの理由で彼女たちに選ばれたような気がしてならないのです。出会いはまったく偶然でした。しかしテルミと西浜で遭遇した翌日に、好美が事務所にやってきました。そしてまた好美がきっかけとなって、テルミと再会したのです」

「なるほど…」

「だから、テルミが去ってしまったからと言って、このまま関与を絶つわけにはいかないと思うんです。でもそう思うんですけど…」


 彰夫が杉浦教授を見る目がわずかに潤んできた。


「まったく異なる個性を持つテルミと好美。それは敵対しているといってもいい。そんなふたりに、どう接したらいいのでしょうか?」


 彰夫の問いに答えずしばらく見つめていた杉浦教授。やがて教授は諦めたように口を開く。


「個性ね…。及川君、まだ時間あるだろう。付き合ってくれないか」

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