第51話

 歩いて、歩いているうちに彰夫は奈良公園へ来ていた。


 頭の中が真っ白でどうやってここまで来たかまったく憶えていないのだが、妙に酒粕の匂いだけが五感の記憶に残っている。

 べったら漬けの店を何件も通り越したせいだろうか。


 彰夫は奈良公園のベンチに腰をかけて、必死に自分と好美やテルミとの接点の記憶を辿った。


『テルミが基本人格なのか?賃貸契約は好美としたはずだ。本人確認は…免許?いや免許証は持っていなかった。確か学生証だ。あれは好美の名前になっていた…どうして?保護者の確認署名もあったはずだ…偽造なのか?』

『仮に好美が交代人格だったとしても、あんな性格の彼女が偽造なんて大それたことができるのか?好美はテルミのことを知らなかった。知らないふりをしていのか?そう言えば好美は教えてないのに俺の下の名前を知っていた。テルミは好美のことを知っていた。テルミは好美の名前を口にはしなかったが、好美の真似が出来た』

『しかし本当にそうか?急性アルコール中毒で倒れた時言っていたテルミのうわごと そんなことができる女ではなかった…というのは、キャバクラに呼び出し俺を求めたテルミ自身のことを言っていたのか…』


 見直していくひとつひとつの記憶が整理できないでとり散らかり、彰夫の身体はパンパンに膨れ上がった。

 人間の心とは、決して立ち入れない暗黒の海溝のように、なんと深遠で不可解なものなのだろうか。彰夫は恐怖すら感じていた。もう自分ひとりで持ち切れない。彰夫は杉浦教授に電話を入れた。


「そうか…なかなか興味深い話だね」


 奈良ホテルのラウンジで彰夫の話しを聞いた杉浦教授が、コーヒーを口に含みなが言った。


「しかし、及川君はいつからか精神科の臨床ができるようになったんだい?」


 彰夫は返す言葉が見つからなかった。

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