第44話

 彰夫が回復してから1カ月、テルミが現れることが無かった。


 宅建の試験が近づいていたので、その準備がゆっくりと出来て助かったが、1ヶ月も過ぎると、いつしかテルミが現れてこないことが寂しいと感じている自分に気づいて驚いた。

 粗野で、自己中心的で、底意地の悪いテルミではあるが、黒い瞳の奥にあった母性は、本当に夢だったのだろうか。


 一方、テルミが現れてこない分、好美との距離は急激に縮まった。外では気軽に腕を組んでくるし、家では読書している彰夫の肩に寄り添ってきたりもした。また、積極的に自分の意見を言う傾向が現れて、彰夫にゴミを出すように指示したり、夕飯も何が食べたいとはっきりと言うようになった。もっとも、そんな積極的な姿勢は、もっぱら彰夫のみに示されているようではあったが、以前の好美では考えられないことだ。


 宅建の試験がある日曜の朝、出かけようとドアの前に立つ彰夫。

 しかし、また失敗したらという不安で、部屋からの一歩をなかなか踏み出すことができない。


「彰夫さん、どうしたの」


 好美は黙って立っている彰夫の肩に手をまわし、こちらに向かせた。


「いや、別に…。試験行ってくるよ」


 そう答える彰夫の髪を、好美は指で整えた。


「どうしたの、そんな暗い顔して…。自信が無いの?」

「そんなことないよ…。とにかく行ってくるから」

「大丈夫よ。あれだけ準備したんだから」


 そう言うと好美は、彰夫のあごに指を添え、つま先立ちしながら彰夫の唇にチュウをした。いつもの好美からぬ大胆な行為に驚く彰夫。


「これで元気出た?」

「ああ…」

「それじゃ、走って試験場まで、いってらっしゃい!」


 背中を押されて部屋を出た彰夫は、なんとなく嬉しくなって、好美が言う通りに江ノ電の駅まで走った。妙な懐かしさが、彰夫の胸を温かく包んだ。


 宅建試験の結果は、その日から約45日後に発表される。

 何点以上を取れば合格するといった運転免の形式とは異なり、全国で得点上位者2万5千人前後か、合格率が15%前後になるよう調整された合格ラインを越えなければ資格は得られないのだ。

 結果だけを先に伝えておくと、好美のチュウも力及ばず、彰夫は今回も合格できなかった。しかし彰夫の名誉のためにも言っておくが、今回の試験では、全国で約19万2千人が受験し、合格者はたったの3万2千人。まさに合格率約16%の狭き門なのである。資格を与える試験ではなく、資格保持者を制限する試験と言っても過言ではない。


 受験を終えたばかりではそんな結果を知るわけもなく、彰夫はとにかく無事にやり終えた達成感に浸っていた。

 だから、今夜はふたりで外で食事をしようと好美を誘ったのも、自然なことだった。ふたりは湘南の浜に近いビストロで、小さいテーブルをはさんで、温かな食事を楽しんだ。

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