第27話

 彰夫は長い時間、病室のベッドに付き添っていた。


 テルミが、今は血中アルコール濃度も低下し、深い眠りについている。生体モニターから発せられる規則的な電子音が、テルミの無事を知らせているようで嬉しかった。


 彰夫は、さっきからずっとテルミの寝顔を見つめている。いや人格が現れていない寝顔は、テルミなのか好美なのかわからなくなっていた。

 よくよくみればひとつの顔だ。しかし、同じ人間の顔なのに、人格が現れると、こんなにも顔と印象が変わるのかと、あらためて驚かざるを得ない。ふたりは肌の色も眼の色も違って見える。いや、そんなディテールはどうでもいい。絶対的な存在が別個のものとしか思えない。

 昨夜は、明らかにテルミが泥酔していた。もともと良く飲むテルミだが、昨夜は異常な速さで、大量の酒を飲んだようようだ。それは、何かのストレスを発散させるとか、忘れるとかの為ではないように思える。


 深いため息とともに、彼女がうっすらと目を開けた。

 覗いた瞳の色はグレーだった。好美は、じっとベッドサイドに居る彰夫を見つめる。ボケている画像の焦点を合わせているようだった。


「彰夫さん?」


 慌てて身体を起こそうとする好美を、彰夫は止めた。


「大丈夫、ここは病院だよ。好美さんはもう回復に向かっているから…」

「どうして私が病院に?なぜ彰夫さんがそばに居るの?」

「ゆうべ具合が悪くなって、好美さんが電話してきたんだよ。憶えてないかい?」


 好美は困ったように首をふった。彰夫は、好美の手を優しく握りながら言葉を続けた。


「こんなふうに記憶が飛ぶなんて、よくあることなのかな?」


 彰夫の問いに、好美は顔を背けてしまった。


「ああ、変なこと聞いてごめんね。無理に話さなくてもいいよ。今は身体の回復だけ考えよう。お水でも飲むかい?」


 そう言って、ミネラルウォーターを取りに行こうとすると、好美は握っていた手に力を入れて、彰夫が自分のそばから離れるのを嫌った。


「確かに、記憶が無くなることが…たびたびあるんです」


 彰夫は座りなおして、好美の言葉を待った。好美は慎重に言葉を選んでいるようだった。


「…そんな女なんて、気持ち悪いですよね」

「そんなことは二度と言わないって約束して」


 彰夫は好美の弱気な発言に反射的に返事を返した。その素早い反応と手を握り返してくる彰夫の力に勇気を得て、好美は話を続けた。


「気がつくと部屋が散らかっていたり、自分のものじゃないものが置いてあったり…。誰かがいたみたいで…。それでも、今まではわたしの身体に、なにも危害なんてありませんでした」


 好美は、点滴の管が繋がる腕を眺めながら言った。


「病院で目が覚めるなんて、初めてです。私怖い。」


 彰夫は好美のベッドに腰掛けると、好美の震える肩を抱いた。好美は、怯える小鳥が母の羽根の中に逃げ込むように、彰夫の腕の中に身を預けた。


 昨夜のテルミの飲み方は、あまりにも攻撃的だった。それにあのうわごと。あれは明らかに作品展に自分を誘った好美の事を言っているに違いない。

 理由はわからないが、ついに交代人格が基本人格と衝突を始めたのか。それって、人格統合の前兆か?それとも破たんの前兆なのか…。

 もっと、勉強しなければならないことが沢山ある。いろいろ思い悩む彰夫だったが、しかし彼の心にも、ひとつだけ明解な解があった。


『いずれにしろ、テルミの攻撃から、基本人格の好美を守らなければならない』


 理屈抜きの意思だった。なぜ?どうして自分が?今まで何事を決めるにも常に自分の指標となっていたはずの消去法が、いつのまにか隅に追いやられ、どうしても自分がやらなければならない優先事項をいつのまにか心の中にピン止めしていた。

 つまりこれが、日頃彼が一番恐れていたはずの『衝動』なのである。


「突拍子もないことを言うけど、驚かないでください」


 彰夫は好美の肩を抱く腕を解かずに言葉を続けた。


「好美さん、一緒に暮さないか。もちろん恋人としての同棲じゃなくていいんだ。友達としてのルームシェアと考えて欲しい。出会ったばかりの男と暮らすなんて、とんでもないかもしれないけど、信じてもらえないかもしれないけど…」


 それ以上の言葉は必要が無かった。彰夫の腕の中で、好美が何度もうなずいていたのだ。

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