第16話

 テルミの一連の指示が完成するまで、彰夫とテルミはお互いそっぽを向きながら、一言もしゃべらなかった。


 グラスに氷を足すとか、客に対するフロアレディとしての当然の仕事もせずに、テルミは冷酒を手じゃくで飲み続けている。

 彰夫がレストルームから戻った時も、テルミはオシボリも渡さず、彼のグラスを指差して吐き捨てるように言った。


「さっきから何飲んでるの?」

「ウーロン茶」

「情けない…」


 彰夫は気分を害して返事をしなかった。


「しかも、ひとりで来ないなんて、相当いくじなしなのね」

「とにかく、言われた通り来たんだから、文句は言うな」

「なにそれ…嫌なら、来なきゃいいじゃない」

「お隣に迷惑がかかるようなことはできない」

「その女がそんなに大切なの」

「あくまでも店子の安全を守りたいだけだ」

「あたしだって、店子よ」

「だれが賃貸契約したか知らないが、俺は君を店子と思ったことは無い」

「でも…あの女のことを持ち出せば、毎日来てくれるってわかった。」

「いや、今日だけだ。君にはっきりと警告するために来た。…いいか、またこんなことをしたら警察に訴えるぞ」


 彰夫は精一杯の凄みを利かせてテルミを睨む。


「キャハハハハ…。そう力まないでよ…。わかったから今夜は楽しみましょう。最初で最後の貴重な一夜になりそうね」


 テルミが、彰夫の腕を取って、身をすりよせて来た。


 柔らかい乳房と腰が彰夫の身体に触れた。付けている香水とは別なテルミの香りが、彰夫の脳下垂体に染み入る。彰夫は脈拍数が上がり、自分のある部分が固くなってくることを自覚した。なんでこんな女に?

 相手の息の湿気が感じられるくらい顔を寄せて来るテルミに、彰夫は体をのけぞらせる。


「やっ、やめろ。それ以上近づくな」

「なぜ?」

「…やっぱり、もう帰る」

「もしかして、彰夫。あたしに感じてる?」

「ばかな」


 語気を荒めて立ち上がる彰夫を、テルミが無理やり引き戻した。


「わかったわよ。でもいくら飲めない彰夫でも、自分のグラスをあけずに席を立つのは、マナー違反だってことは知ってるわよね」


 テルミがグラスを持って彰夫に差し出した。

 彰夫はテルミの顔を警戒して覗き込んだ。相変わらずの漆黒の瞳に、妖しい光を携えて微笑んでいる。彰夫はグラスを受け取るとウーロン茶を一気に飲み干した。


「やっと…飲んだわね」

「満足したか?」

「ええ、今チェックをマネージャに言うから、座って待ってて」


 しばらくソファーで待っていた彰夫ではあったが、テルミが一向にマネージャを呼ぼうとしない。焦れた彰夫が、勢いよく立ちあがった。

 足が変だ。急に立ち上がったから貧血でも起こしたのだろうか。膝から下の力が入らない。彰夫は再びソファーに座りこんで、足の感覚を呼び戻そうと、必死に拳で腿を叩いた。

 しかしその努力も虚しく、やがてしびれは全身に広がり、彰夫は隣に座るテルミの膝の上に崩れ落ちる。


「テルミ…俺に何を…飲ませた」

「可愛い小鳥ちゃん。鳥かごの中に、ようこそ…」


 彰夫は薄れて行く意識の中で、心の底から恐怖を覚えていた。

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