第12話

「部屋のベランダから、この浜が見えるんです」

「そうですか」


 彰夫は振り返って、目の上に手をかざして遠くを見つめた。たしかに、松風マンションのベランダが、民家の屋根を越えて小さく見える。


「朝、ベランダから浜を眺めたら、お姿が見えたんで…」


 彰夫は意外な言葉に驚き、思わず好美を見た。

 それでわざわざコーヒーを入れて、持ってきてくれたのか?好美も自分の口から出てきた言葉に驚いているかのように、スッピンの顔を赤らめて、うつむいていてしまった。

 彰夫は、素顔がこれほど可憐で美しいのはもしかしたら反則じゃないかと思った。今朝も大きめの服でからだのラインを消していたが、朝日にわずかに透ける素材なので、その均整のとれたボディラインをかすかに感じることができた。


 しばらく言葉を失っていた彰夫だったが、今度は何か言葉を繋げるのが自分の義務の様な気がしてきた。


「大塚さんは、女子美で絵を勉強されているんですよね」


 好美のグレーな瞳に、警戒の光が走った。しまった、話題を誤ったか…。


「いや、賃貸契約した時に、書いて頂いていたから…」

「はい、来年卒業です」


 警戒を解いて応えてくれた好美に、彰夫はほっとした。


「卒業された後は、どんな職に就かれるんですか?やっぱり画家かデザイナーですか?」

「いえ、たぶん美術の先生か、うまくいってどこかの美術館のキューレターです」

「そうですか。僕らの仕事に比べれば、とても繊細で難しそうなお仕事ですよね」

「彰夫さんも…」


 いきなり自分の下の名前を呼ばれて、心臓がドキリと鳴った。なぜ自分の名を知っている?苗字しか伝えていないはずなのに…。


「この前、難しいご本を読んでいらしたでしょ。『夜と霧』確か著者のヴィクトール・フランクルは、オーストリアの精神科医ですよね」

「ええ…ところでなんでご存じなんですか?」

「わたしも少し心理学に興味があって…」


 彰夫の質問の意味は違っていた。なぜ自分の下の名前を知っているのかを聞きたかったのだが。


「彰夫さんは心理学をご勉強されているのですか?」


 平然と話題を進める好美に、彰夫はこれ以上追及することを諦めた。


「ええ、大学で心理学を専攻していました」

「不動産屋さんの心理学者ですか」

「いや宅建資格もまだないから不動産屋でもないし、真面目に大学で講義を聞いていたわけでもないからたいした心理学の知識もない。ただのニートなオタクですよ」


 好美が初めて満面の笑みを浮かべた。その口に小さなえくぼができるのを見た瞬間、彰夫は妙なデジャブ―を感じた。


「飲み終わりました?カップを持って帰ります。浜のごみにしたくないから…」


 好美はそう言いながら立ちあがった。

 彰夫は、肩にとまった可憐な小鳥を、逃がしたくはなかったが、しつこい男に見られたくもないので、しぶしぶ好美にカップを手渡す。


「ご馳走様でした」


 好美はまだ顔を赤らめたまま、軽く会釈をして足早に立ち去っていった。いつまでも好美の後ろ姿を見送っていた彰夫だったが、やがてその姿が見えなくなると、諦めてまた流木に腰掛ける。

 ふと見ると、流木の上に折りたたんだチラシが置いてあった。それは、来月から女子美のアートミュージアムで開催される作品展の案内であった。

 彰夫は出品者の中に大塚好美の名前を発見した。


 コーヒーを持って彰夫に声をかけることに、自分の持つすべての勇気を使い果たした好美は、さらに彼を作品展に誘う勇気など残っていなかったのだろう。

 彰夫は目を細めて、あらためて松風マンションのベランダを眺めた。

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