第10話

 好美が新たに借りたマンションは、江ノ島電鉄線の湘南海岸公園駅の付近にある。


 江ノ電として親しまれるこの路線は、1902年9月1日に藤沢から片瀬、現在の江の島の間で産声をあげた。その8年後に小町、現在の鎌倉までの全線が開通することになる。鎌倉駅から藤沢駅まで、15駅で10キロの営業距離を12分間隔で往復する可愛い路線だ。

 開業時は、江ノ電の路線は路面電車であったが、1944年11月に当時の地方鉄道法により普通鉄道に変更された。舗装された一般道路の中央を堂々と走る普通鉄道としては、日本で唯一の路線である。


 好美はこの可愛い路線と味のある車両が気に入っている。だから湘南海岸公園駅から藤沢までの短い区間ではあるが、通学に江ノ電を利用することにしたのだが、大きなキャンバスを抱えて通学しなければならない時は、その小さな車両ゆえに大変片身の狭い思いを強いられる。今日がそういう日だった。


 キャンバスを抱えて江ノ電のフォームに立ち、来た電車に乗り込もうとしたが、朝のラッシュ時には、さすがにキャンバスを持って入る隙間もないような混み方だ。

 一本やり過ごし、そしてまた一本。やがてラッシュ時が過ぎて、やっと客席にも空間が見え始めた頃、好美はこれなら乗り込めると、キャンバスを小脇に抱え、客車のドアの前に立った。

 ドアが開き、いざ乗り込もうとした時ドアの付近に居るOLと眼があった。その眼が、『そんなものを持って乗る気なの』と言っているような気がした。

 好美が躊躇していると、やがてドアが閉じてしまった。気を取り直して次の電車を待つ好美。次の電車では、開いたドアの先の中年のサラリーマンと眼があった。また躊躇する好美。そんなことを何度も繰り返して、彼女はついに電車に乗り込むことを諦め、駅を出ると路線に沿って歩きはじめた。


 歩きながら、好美は自分自身に、こんなことはいつものことだから、別にどうってことないと言い聞かせた。自己嫌悪は禁物だ。自己嫌悪になった夜は、必ず不吉なことが起きる。ただでさえ最近自分でも意味不明な行動が多いのに驚いているのだ。

 今まで行ったこともない江ノ島の街をさまよい歩いたり、急に海の夜明けを見れるところ住みたくなったり…。クレームの電話なんかしたのも始めてのことだ。自分らしくない。

 好美はその内省的な性格ゆえに、数多くの不安を抱えていたが、今感じているこの不安は初めての味がした。不安ではあるが不快ではないのだ。

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