第9話

「失礼ですが、このマンションの何階にお住まいですか?」

「4階よ、それがなにか?」

「ご近所の方が、高井さんが深夜お帰りになる際に出す騒音に、ご迷惑されています」

「だから?」

「迷惑をかけないようにご注意ください」


 この夜のテルミも初めて会った夜と同様に露出度が高い服で、相変わらずに不必要な化粧をしている。

 テルミは、眉をしかめてしばらく彰夫を見つめていた。見つめられる彰夫も、その視線に負けまいと頑張っていたが、テルミの大粒の黒い瞳に、徐々に押されていく。


「あの、隣の女でしょ」

「えっ、何がですか?」

「そんなうるさいこと言ってるのは、隣の女でしょ」


 『ご近所の方はまずかった。方たちにすべきだった』


 彰夫は後悔したがもう遅い。好美への直接的なトラブルにつながらないよう、彰夫は慌てて打ち消す。


「違いますよ」

「だいたい初めて見た時から、気に入らない奴だったのよ」

「違いますって」

「これからその女の部屋に乗り込んでやるわ…」

「ちょっとやめてください」


 彰夫は、テルミの腕を取って止めた。その拍子にテルミは酔った足にバランスを失い、彰夫の腕の中に倒れ込んだ。腕の中で抱きとめたテルミの髪が乱れ、左の耳のホクロが、また彰夫の目に飛び込んできた。


「あたしになにする気?彰夫。」


 いきなり自分の名前を呼ばれ、心臓がドキリと鳴った。腕の中で悪戯っぽく笑うテルミに、この鼓動を聞かれてしまうのではと不安になり、彰夫は慌ててテルミをわが身から離した。


「何もする気はありません。ただ高井さんに非常識なことはやめて欲しいだけです」

「あの女の部屋に乗り込んで欲しくないの?」

「そうです」

「夜騒ぐのをやめて欲しいの?」

「そうです」

「だったら…」


 テルミは持っていたビニール袋の中から、カップの日本酒をひとつ取りだすと、口を開けた。


「今夜こそ、飲んでもらうわよ」


 テルミがあの夜のことを覚えていたのを、彰夫は意外に感じた。


「なんで、今、ここで、自分が飲まなければならないんですか?」

「あの女の部屋に行くわよ」

「それに、今夜は車で来ていますし…」

「毎晩、騒ぐわよ」


 彰夫は、間近に顔を寄せて詰め寄るテルミの眼を見た。その漆黒の瞳は月光を受けて妖しく輝く。言う通りにしなければ本当にやるぞとその眼が言っていた


「お酒を飲むことはできません…」  


 彰夫は、テルミの前にひざまずいた。


「だから、この前の夜のように、酒のシャワーで手を打ってください」


 テルミは、自分の前にひざまずく彰夫を興味深く眺めていた。


「彰夫、あんたって面白いわね」


 そう言うとテルミは躊躇なく、彰夫の頭に勢いよく日本酒を振りかけた。

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