第6話

 午後になって近くのカフェでのランチを終えた彰夫が事務所に戻ると、ショーウィンドの前で立ちすくむ人影を認めた。またあの少女だった。

 彰夫はため息をつきながら少女のそばに進んだ。


「そこで立っているだけじゃ時間の無駄ですよ。どうか店の中でご希望をお聞かせください。今度は女性の店員も居ますから、安心していいですよ」


 彰夫は、今度はそばから離れずに、少女を店内に導いた。少女はうつむいたまま彰夫に従った。


「美穂ちゃん。お客様のご希望をお伺いしてくれるかな」


 彰夫は、そう指示を出すと自分のデスクに戻った。しばらくして、物件情報を整理している彰夫の前に、困り顔で美穂がやってきた。


「あのお客さんなんですが…、彰夫さんに対応してほしいそうですよ」


 彰夫が接客カウンターの少女を見た。少女はうつむいて、陶器の置物のように黙って座っていた。


「私は、及川と言います。どうぞご希望をお聞かせください」


 彰夫はそう言いながら、物件情報のファイルを持って接客カウンターに座った。


「あの…」


 初めて聞く少女の声は、か細く、しかし透き通っていた。


「先程お伺いした時に、ずっと本を読んでいらしたでしょう」

「ああ、すみません。仕事中に…。店番が暇だったもので…」

「なんの本ですか?」


 彰夫は消え入りそうな声で質問する少女を改めて見つめた。

 キューティクルの効いた輝く長い髪。その髪に隠れて顔は部分的にしか見えないが、それでもその顔立ちの可憐なことは容易に想像できた。

 極端に露出を控えた肌は白く輝き、ほとんど化粧はしていないようだ。すべてに大きめの服は、彼女の女としての体型を見事に消し去っている。


 物件探しとは関係ない要望ではあるが、少女に関心を持った彰夫は、自分のデスクに戻り本を取ってきた。


「これです」


 『夜と霧』心理学者ヴィクトール・フランクルによって、1946年に出版された名著だ。


「ずいぶん難しい本をお読みになるんですね」

「ええ、まあ…」


 もともと彰夫は、大学で心理学を専攻していた。

 消去法という非建設的な選択で専攻を決めたのだが、彼は何事も情熱を持って決めるとういうことができない。『なにをやりたい』というより、『やらなければならないとすればなにを』の感覚で決めるのだ。

 それでも大学ではそれなりの成績を納めたので、教授から大学院への進学を勧められていた。しかし今彼がここに居るのは、やはり彼が得意とする非建設的な選択がなされたからである。


 いつまでも本の表紙を見つめる少女に、彰夫も多少焦れていた。


「それで、ご希望は…」


 少女が、視線を本から彰夫に移した。色素が足りないのか目の色がグレーを帯びていた。


「海が好きなんです。海が見える部屋は無いでしょうか?」

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