第6話 どうすれば


 この日、一度は帰りかけた恒輝だが、フェイスタオルを置き忘れたことに気付いて休憩室に戻った。ドアに手をかけたところで、中から星奈の声が聞こえてきた。


「ちはるんは彼氏いんの?」


 たちまち恒輝はフリーズした。

 何故だかドアを開けられない。普通に入室して話を聞いたっていいはずなのに、そんな簡単なことができない。隠れずにはいられなかった。



「彼氏、は……いません」

「へー。じゃあ、気になる人は?」

「………………………い、いる……」

「ワァオ!」


 星奈の声が一オクターヴ高くなった。

 恒輝は目を見開き、次いで、祈るような気持ちで耳を澄ました。

 ――本当か、好きな奴がいるのか。そうか。そうなのか……そうだよな……。誰なんだ。おれに勝ち目はあるのか……いや待て、勝ち目って何だ?


「どんな子?」

「……背が高くて、凛々しくて」

「うんうん」

「格好良くて、優しくて。……あっ、女の子なんですけど」


 あっ、女の子なんですけど。


「女の子」

「……うん。えへへ……」


(……)


 恒輝の気持ちは急降下し、奈落の底を突き破って、更なる深部へと突っ込んでいった。


(……いや待て。バイセクシャルの可能性は)


 と、混乱する脳内に、いつだったかの千陽の言葉が再生された。


 ──わたしそういうのはちょっと…………


(ぐおおお!)


 恒輝は廊下の陰でひとり頭を抱えた。


(はなからおれに望みはなかったということか! い、いや、落ち着け。望みって……まるでおれがそれを望んでいたみたいな……)


 恒輝は深呼吸しようと努めた。


(おれは、千陽が好きなのかどうか、よく分からない。ここは、好きではなかったということにしてしまおう。だからこれは、し、失恋ではない。失恋ではないのだ……。うむ……悲しくなってきたぞ……)


 恒輝の大混乱を知る由もなく、星奈は楽しそうに会話を続けている。


「へえーっ。知らなかった。合コンとか誘っちゃってゴメンな?」

「あ、いえ、大丈夫。星奈さんの話を聞くのは楽しいので」

「そりゃよかった。で? その子とはうまくいきそう?」

「え」

「告白とかしねーの?」

「し、しませんっ……あの子は多分ヘテロだし、それに、今の関係を壊したくなくて」

「そぉんなの気にすんなよ、って言いたいとこだけどなあ……ちょーっと繊細な問題だもんなあ……」

「そうなんですよ……」

「ま、困ったらあたしに相談しろよ。いつでも聞くからな」

「ありがとう」



 星奈が出てくる気配がしたので、恒輝は慌てて、便所に駆け込んだ。

 血の気が引いて、脳味噌がぐわんぐわんと揺れるようだ。


 恒輝は頭を抱えてうずくまった。


 こんなにショックを受けるだなんて、もしかしておれは、本当に、千陽を好いてしまったのだろうか。

 認めたくなかった。

 隊内での恋愛という面倒なものに手を出そうとしている自分を。そして、脈が全く無いという苦難の道へ踏み出しかけている自分を。


「うわあ~……」


 しばらくぐるぐると考え事をしていたが、やがて恒輝は唇を引き結んで立ち上がった。


 ここは、相談に乗ってくれる人が必要だ。身近な人——拓三は恋愛の話題に疎そうだし……兄には何だか言いづらい。となると——


(……行くか)


 気は引けるが、致し方ない。背に腹は代えられないのだ。

 恒輝は胸中にざわつきを抱えながら、力無い足取りで仕事場を後にした。




 病室の前で待つこと三十分、彼女は現れた。


「待たせちゃったわね、コウちゃん。ごめんなさい」

「いえ。いつもありがとうございます、愛花梨あかりさん」

「相談ってなあに?」

「あの、……兄さんには言わないでもらいたくて」

「あら、まあ」


 彼女は長い睫毛をぱちくりさせた。


「分かったわ。それなら、場所を変えましょう。そこのカフェでいいかしら」

「ありがとうございます」


 そういうことで恒輝は、兄の恋人と二人で出かけることになった。兄に悪いような気がして、恒輝は彼女から一定の距離を保って歩いた。

 店に着くと、愛花梨はエスプレッソを、恒輝はカフェラテを注文し、席に座った。


「あの」


 恒輝は息を吸い込んだ。いざ言おうとすると、言葉が喉につかえて、うまく声が出せない。何度か深呼吸してから、ようやく切り出した。


「実は、きっ……気になっている子が、いまして。好きかどうかはまだ判断がつかないのですが」

「あら」

 愛花梨は目を細めた。

「素敵ね」

「でもさっき知ってしまったんです。彼女には好きな人がいて……おまけに同性愛者だと」

「まあ……」

「おれは、どうすればいいのか……。彼女を好きかどうかもハッキリしないままなのですが」

「それで連絡してくれたの。コウちゃんは律儀なのね」

 愛花梨は深く頷き──そしていきなり言った。

「それはね、好きなんだと思うわ」


 穏やかな声にズバッと断定されて、恒輝の心臓がドクンと脈打った。


「えっ」

「本当は好きだけれど、それを認めたくないから、気持ちに蓋をしてしまっているのでしょう?」

「ぐ……っ」


 図星である。全てお見通しか。何故だ。


「それで、叶わぬ恋に胸を焦がしているというわけね」

「いえ、そこまででは……。ちょっと、気になる程度、ですから!」

「そうね……残念ね、可哀想に。でもこればっかりはどうしようもないわね」

「……そうですね」

「それで、コウちゃんはどうしたいの?」

「え」

「どうすればいいのか、って言ってたけど、コウちゃん自身はどうしたいのかしら」

「あ、ええ、まあ」


 実際は、悩みを打ち明けることばかり念頭にあって、自分のことは考えていなかった。


「どう、って……。もう、始まる前から、しっ……失恋、してしまっている訳ですから。諦めるしかないです。これは恋ではなかったのだと自分に言い聞かせて、無かったことにするといいますか」

「諦めちゃうのね?」

「……はい。愛花梨さんの言う通り、どうしようもないことなので……」

「そうねえ。私は、一度気持ちを伝えてみるのも、手だと思うけれど」

「……! 断られると分かっているのに、ですか」

「そうよ。ダメ元でも、言うか言わないかは大きな違いだと思うわ」

「でも、興味のない男に急に告白されたら、相手は迷惑がるのでは」

 愛花梨は微笑んだ。

「そうかも知れないわね。でも、今優先すべきは、相手ではなくてコウちゃんの気持ち」

「相手ではなく、おれ自身……」

「そう。図々しくなくっちゃ、恋なんてやっていけないわ」

「愛花梨さんからそのような言葉を聞くとは、意外です」

「あら、わたしだって、色々アキちゃんにアプローチしたのよ?」

「ふむ……」


 愛花梨は以前怪人に人質にされ、明良あきらに救い出されたことがある。その時は恒輝もグリーンとしてそこに居合わせていたので、よく覚えている。

 あれ以降、明良の方から愛花梨に、“紳士的な振る舞い”とやらで積極的に絡んでいたように感じていたが、受け身ばかりかに見えた愛花梨もああ見えてちゃんと好きだったらしい。

 まこと、恋愛というのは不可思議なものだ。


「納得のいくような結末を、コウちゃん自身で選ぶといいわ。思いをひっそりと隠したまま何も無かったことにするのか、思いを知ってもらった上でスッパリ断ち切るのか。どちらでもいいと思うけれど……コウちゃんにとっては、どちらが後悔がないかしら」

「ふむ」


 恒輝はカフェラテに視線を落とし、深く考え込んだ。


「おれは……」

「ええ」

「おれは」

「……告白するの?」

「……」


 分かっている。自分だけ我慢して、何も無かったことにすれば、波風も立たず、誰も傷つかず、これからも平和に仕事を続けられるのだと。

 だが──もし、自分自身の気持ちを優先させることが、許されるのならば……。


 しばしの時が過ぎ、恒輝は言った。


「もう一度、じっくり考えてみます」

「ええ」

 愛花梨は微笑んだ。

「そうするといいわ」


 恒輝は膝の上で拳を握りしめた。


「……勇気の要る決断です」


 声を絞り出す。


「そうね。でもきっとうまくいくわ」

「振られることが決まっているのに、ですか」

「ええ。そうね、告白してもしなくても、きっと丸く収まると思っているわ」

 愛花梨の声は静かで、太平洋の如く凪いでいて、心地よかった。

「だって、互いに競い合える関係というのは、深い絆を育むもの。男女関係なく、ね」

「……そう、ですか」

「だから気負わずに、ね。幸運を祈っているわ」

 愛花梨は上品にコーヒーを口に含んだ。

「ちなみに」

「はい」

「あの子のどこが好きなの?」

「え」

「この間一緒にいたあの可愛い子でしょう、コウちゃんが好きなのって。気になるわ。どんなところが好きなのかしら」

「そ、そんな」

「今のうちしか話せないことよ、これは」

「……」


 確かに、諦めた後でする話ではないだろうけれど。


「……兄さんには内緒ですよ」

「ええ、もちろん」

「……かっ」

「か?」

「特別可愛いわけでもないし、小さくて、野暮ったい所もあって……でも、めちゃくちゃ強いんです。頼りになるんです」

 バトルも強いし、意志も強い。驚かされるほどに。

「まあ。ギャップ萌えね!」

「あ、まあ……そういうことになるのだろうか……」

「いいわねぇ。応援したくなっちゃうわ」

「もう既に失恋したも同然ですが」

「いいのよ、そこは」

「いいのですか……」


 そんな話をしながら、恒輝たちは病院へ戻ったのだった。


「遅くなってごめんなさいね、アキちゃん。ちょっとコウちゃんとお話ししていたものだから」

「いや、いいんだよ。どんな話だい?」

「うふふ。内緒」


 途端に明良は、ぷっくりと子供のように頰を膨らました。


「何だよそれ〜」

「あらまあ、ヤキモチを焼いているわ」

「べっつにぃ? 愛花梨とコウが二人でお話してたって気にしてなんかいませんよーだ」

「あらあら。こんなことを言って」

「ふーんだ!」

「仕方のない子ね。元レンジャー隊員がこれじゃあ、示しがつかないわ」

「だってよぉ……ずるいだろコウだけさぁ」

「よしよし。悪かったわ」



 明良が愛花梨に、おしとやかに飼い慣らされている……。

 どう見ても、かつて誘拐された姫とそれを助け出したヒーローの構図ではない。やれやれである。


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