幸せの味
腕の中のサチは甘ったるい匂いを醸し出していた。例えようもない充足感。幸せなはずなのに、空虚感に苛まれる。
*
「私を食べて」
サチの声が繰り返し頭の中で聞こえた。
咄嗟に言葉が出なくて、僕はただ立ち尽くしていた。
サチの瞳はどこまでも透き通っていて、それだけに揶揄っているわけじゃない事を強く感じさせた。
「何、言って……」
「私、貴方に食べられる為だけに生きてきたの」
歌うようにサチは続けた。
「
貴方に教えてもらった勉強は不思議なほど新鮮で、希望に満ち溢れていた。
貴方に買ってもらった小説は、いつだって私に寄り添ってくれた。
ーー貴方は、私のすべてなの」
嫌だ、やめてくれ。
「ここ暫く食糧にありつけていないのでしょう?目が猛獣のようになってる。私はきっと美味しくないだろうけど、貴方の血肉となって、」
ずっと貴方とともにいたいの。
僕の頰にそっと手を添える。
ああ……ああ。
「私、今とても幸せよ。やっと貴方の役に立てる。やっと……愛する《
久しぶりに自分の名前が聞こえた。僕が人間じゃなくなった日以来だろうか。僕の、人間であった僕の名前。幸せになってほしいという願いのこもったそれは、ひどくサチの声に馴染んでいた。
ぷつり、と僕の中の何かが切れた音がした。ヒトとして大切な何かが、僕の中から消えた音。
夢中でサチの唇にかぶりついた。僕の中に広がるサチの一部。生暖かいそれは僕にすべてを理解させた。
見るまでもない、こんな時ですら静かなサチは穏やかな笑みを浮かべているに違いない。
なのに……こんなにも美味しいだなんて。それまでのどの食糧とも比べ物にならないくらいの、この世のものとは思えないほどの甘美な味。心が浄化されるような、幸福で満ち溢れるような、そんな味。
頬を涙がつたう。しょっぱいはずのそれですら、サチと混ざると美味になった。
父さんはきっと、母さんを食べてから人間が食べられなくなった。幸せの味はこんなにも甘美で……こんなにも痛い。
「僕も愛してるよ、
まだ暖かいサチをそっと抱きしめた。どこまでも優しく包み込んでくれる彼女の胸で、僕は嗚咽を漏らした。
*
ねえ、サチ。まだ寝てるの。早く起きてよ。サチの声が聞きたいんだ。
胸の奥にぽっかりとあいた穴が主張しはじめる。
ひどく痩せてしまったね、これじゃ出会った時とそう変わらない。
小さくなった身体を掻き抱く。ぬくもりは、もう消え去っていた。
咆哮をあげる。穴が僕を呑み込んでいく。サチはもういない。
「人間に生まれていたら……君と、もっと幸せに暮らせたのかな」
いや、違う。今僕は幸せなんだ。サチとひとつになれたんだ。
「でも……僕、サチのいない生活なんて耐えられそうにないよ。サチがいなきゃ意味がないんだ」
サチを抱き上げて廊下からリビングへ向かう。机に置いてあった解体用のナイフを手に取り、サチをもう片方の手で抱きしめた。
そして、勢いよくナイフを振り下ろした。
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