第38話
タイセイは、頭を掻きながら平然と笑うエラを、驚きをもって見つめ直した。
初めて会って香港の街を歩いたときは、彼女はシンデレラのような切なさと繊細さを感じさせた。しかし、自分を救い出しに来てくれた今はどうだ。こんな状況下に臆することもなく、大胆に行動を起こす。シンデレラどころか、マーベリックのヒーローそのものではないか。
タイセイは突然エラを抱きしめた。エラは彼の突然の抱擁に驚くことなく、しっかりと受け止めた。タイセイと別れた4日前から待ち望んでいたものが、今ようやくエラの腕の中に届けられたのだ。
たった2秒だったのだが、ふたりは永遠とも感じる抱擁に酔いしれた。
「ハグもこれくらいにして…これからこの家を出てどうするのか言ってちょうだい」
今度は我に帰るのはエラの方が早かった。
「ああ…」
名残惜しそうに体を離すタイセイ。
「とにかく日本総領事館へ逃げ込もう」
彼はエラの手を取って、外に走り出た。
「こんな場所でタクシー捕まるかな…」
「大丈夫、車持ってきたから」
「えっ?」
「私が働いている家にあった車を、黙って持ってきちゃった」
タイセイは気が利くエラがうれしくて、ほほを両手で包んで、思わずキスをする。突然の抱擁は待ち望んでいたものの、さすがのエラもキスは想定外だった。彼女は顔を上気させながらも、時が時だから仕方がないのかもしれないが、ふたりのファーストキスにしては、ちょっと軽すぎないかと不満を言いたい気分でもあったりもした。
気を取り直して車のキーをタイセイに投げる。
「免許もない私が、ここまで命がけで運転してきたのよ。もう力尽きたわ。タイセイは運転できるわよね」
「もちろん」
「わたしナビをセットするから…」
ふたりを乗せた車は、弾丸のように飛び出していった。
拉致グループのリーダーは、この香港で、まさかタイセイの逃亡を助ける人物が現れるとは予測していなかった。その意味では、多少の油断はあったのかもしれないが、共産主義国家の仕事を甘く見てはいけない。当然ではあるが、家の状況は、CCTVで常時本部に送られている。監視の異常は早い段階から確認されており、本部となっている倉庫から、結構な数の部隊が出動していた。タイセイとエラを乗せた車が飛び出していった直後には、すでに黒塗りの車の一団が、その後を追ってきていたのだった。
家から車で逃亡した早々、もう黒いセダンの一団後ろに迫ってきていることは、ふたりは気づいていた。だが、ここで追いつかれたら、自分の国に帰れるチャンスはもうない。タイセイは必死にアクセルを踏み込む。
中国本土は右側通行だが、港珠澳大橋を超えて香港・マカオに入ると左側通行になる。香港の街を疾走するには、日本と同じ左側通行に慣れているタイセイの方が多少有利だったかもしれない。
一方、拉致グループのリーダーは、タイセイたちがどこへ行こうかとしていることはわかっていた。地元の警察に協力を仰ぎ、先回りしてもらう策もあったのだが、香港警察とは事前に、『黙視はするが、積極的な役割は果たさない』との取り決めがなされていた。何が何でも、タイセイが日本総領事館へ逃げ込む前に、自分たちの手で拿捕しなければならない。失敗したら、自分の出世どころか、チームの全員の地位が失われ、とんでもない地方に飛ばされてしまう。
祖国へ帰りたいタイセイと、中国で家族を養わなければならない追ってたちとの深夜の追走劇は、当然壮絶の極みとなった。タイセイも、道を選んでいる余裕はない。前に空いているスペースがあれば、とにかく突っ込んでいき、ナビが示す日本総領事館の方向を目指して疾走した。
実は香港警察も、交通違反オンパレードのこの無謀な追いかけっこに気付いていないわけでもなかった。しかし、本土の機関との取り決めを守り、どちらかの車が大破して追っかけっこが収まるまで、黙って時が過ぎるのを待っていたのだった。
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