第39話
在香港日本国総領事館は、MTRセントラル駅の近くにある交易廣場ビル(タワー1)にある。香港警察の黙視の協力もあって、何とかタイセイは追手に追いつかれず、交易廣場ビルまでたどり着いた。
タイセイはハンドルを切って、チェーンで通行止めになっているビルの車寄せに強引に突っ込む。車は大きな傷を代償に、チェーンを千切り吹き飛ばした。彼は車から飛び出るとエラの手を取って、ビルに駆け込んだ。その直後、黒塗りの車の一団が、タイセイの車を取り囲む。車に二人がいないことを確認すると、ビルに向かって一斉に走り出した。
総領事館の領事業務窓口は46階だ。タイセイたちはエスカレーターを駆け上がり、3階で エレベーターに乗り換えた。46階へ行くエレベーターは3台。とりあえず、先行してエレベーターに乗れたタイセイは、これで、追手に追いつかれる前に、総領事館へ駆け込む余裕はできたと判断した。
タイセイは、少し息をついてエラを見た。エラは、体全体で息をしている。必死に走らされて、苦しそうだった。
「エラ、これで何とか逃げ切れそうだよ」
エラは、ぜーぜー言いながらも、うれしそうにタイセイの言葉に頷いた。汗に光るまつげを揺らして彼に微笑みかける彼女を見て、タイセイは、胸の中に初めて湧いてくる思いに戸惑っていた。愛おしいというのは、こういうことなのだろうか…。
そしてその思いを自覚した瞬間、彼はいきなり頭をどつかれたような気分になった。重要なことに気付いたのだ。
日本人の自分は総領事館へ逃げ込めばそれですむ。しかし、重要人物でもないフィリピン国籍のエラを、日本総領事館は受け入れてくれるはずがない。
だとしたらエラはどうなるのか?車を盗み大破させ、国家的に重要なプロジェクトを妨害した。エラは、国賊たる大罪人として中国政府に逮捕されるだろう。裁判も受けらぬまま中国の果ての留置所に送られ、重労働の中で死を待つことになる。
ああ、俺はいつもそうなのだ。自分のことしか考えていない。人が受ける痛みや悲しみをわかろうとせず、いつも自分の言いたいことを言い、やりたいことをやっている。
46階に到着し、エレベーターのドアが開いた。しかし、動こうとしないタイセイ。今度はエラが焦ってタイセイの腕を取り、総領事館のドアの前に引っ張り出した。
「タイセイ、早く入りなさい」
タイセイは動かない。
「何やってるのよ。もうすぐ追手のエレベーターがくるわよ」
エラが叫んでも、やはりタイセイは動こうとしない。
業を煮やしたエラが、そのドアを叩こうとした。だがその手を、タイセイが優しく止めた。
もう1台のエレベーターのドアが開いた。そこには、拉致グループの一部とそのリーダーが乗っていた。エレベーターのタイムラグで、もはや敗北を覚悟していたリーダーだったが、門の前でたたずむタイセイをみて驚いた。
「これはこれは…こんなとことでお待ちいただけるなんて」
黒いスーツの男たちが、タイセイとエラの周りを取り囲んだ。いよいよ勝利を確信して、リーダーは話しかける。
「まさか、日本総領事館に入れてもらえなかったのですかな?」
タイセイは覚悟を決めて口を開いた。
「いやね…その…この女性と一緒なら…」
リーダーがエラを見た。
「そうでしたか…ドクター・コウケツの逃亡を手助けしたのはあなただったのですね」
エラはリーダーに睨まれて、体を小さくしてタイセイの背中に隠れた。
「この女性と一緒なら…日本に帰る必要もないかな…なんて思えてきてね」
タイセイは震えるエラに向き直って言った。
「一生、僕の側にいてくれるかい?エラ」
思いがけないタイセイの言葉に、エラの震えが止まった。
『えっ、これってプロポーズなの?』
しかし、こんないかつい男たちに囲まれてプロポーズされたって、返事も何もあったもんじゃない。だがエラよ、わかってあげてほしい。誰がどう思うとも、この時こそが、タイセイが初めて人を心から愛し、それを宣言した記念すべき瞬間であるのだ。
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