第37話
「我々は中華民国の国民の優秀性を、世界に明示しなければなりません。それが、国家高揚や国民の団結に繋がり、現体制をより強固なものにしていくという事実は、言うまでもないでしょう」
「なんか、第2次世界大戦の引き金を引いたどこかの独裁者を思い出させますね」
「我々の国は独裁政治国家ではない。共産主義国家です」
リーダーは、タイセイの皮肉にますます気分を害し、興奮気味に話を続ける。
「共産主義国家は、フィジカルなパフォーマンスをあげるドーピング薬の開発を推進するのに最適な国家といえます。他国がドーピングを阻止しようとして、どんなに検査を進化させても、それを上回るスピードで新たなドーピング薬を開発することができるのです。しかし、いくら肉体能力のパフォーマンスを高めても、常に戦いに勝利できるとは限りません」
「それが『網膜記憶』とどんな関係があるのです?」
「他者の記憶情報を移植することができれば、その追加された情報によって、より正確で斬新な判断が可能になります。『網膜記憶』は、いわば頭脳のドーピングです。それこそ肉体と頭脳のドーピングの両方が施されれば、どの国にも負けない常勝の戦士を作りえるとは思いませんか」
いつのまにか、リーダーはアスリートを戦士と呼び変えていた。本音はそこなのか…スポーツに勝利するなんてことに最終目標を置いていないことが、よくわかった。
頭脳のドーピング…。タイセイ自身は、自分の研究について、そんな利用の仕方があるなんて思いもしなかった。研究を葬り去ろうと決意した時は、ただ故人の記憶をのぞき込むことの倫理的問題ばかりを重視していた。しかし、このたんぱく質を、リーダーのコンセプトで活用されると、核エネルギーの発見から核兵器の応用へと突き進んだ過去と、同じ道をたどりかねない。このたんぱく質の発見は全く偶然だったのだが、今となってはその偶然を心から後悔せざるを得ないとタイセイは思った。
「いや、申し訳ない。ちょっと興奮してしゃべりすぎたようですね」
リーダーは、タイセイのちょっとした沈黙の間に、その無表情を取り戻していた。
「さあ、移植の済んだ孫楊選手を、タイへ送り出しましょう。結果が楽しみですね、ドクター・コウケツ」
孫楊選手を送り出したのち、宿舎に帰ったタイセイはその夜の食事が、妙においしそうだったことを覚えている。香ばしい香りに誘われ、思わず口に運びそうになるが、エラのメッセージを思い出し、我慢して時が過ぎるのを待った。
だいぶ時間がたった。エラが準備した夕食がすっかり冷めてしまった頃、彼の部屋のドアにカギが差し込まれた音がした。監視が食器を下げに来たのだろうか。タイセイは今夜の食事を一口も口にしていないことを、なんて言い訳しようかと考えた。
しかし、言い訳は必要なかった。ドアを開けて顔をのぞかせたのは、エラだった。
「ほんとにタイセイがいる!」
聞き覚えのあるその一声に、タイセイは泣きそうになった。エラに再び会えた喜びなのか、救助隊と遭遇した安ど感なのか。一方、立ちすくむタイセイを前にして、エラは初めて彼に出会った時と同様に、飛びついてほっぺにチュウしたい衝動に駆られていた。
そんなお互いの衝動をなんとか胸に抑えながら、しばし見つめあうふたり。だが、やはり拉致されている当人の方が、ふたりの置かれている事態を早く思い出した。
「エラ!監視がいるのに大丈夫か?」
「ええ、ぐっすりお休みよ」
見ると、監視がふたり、だらしなく床に倒れて昏睡状態にあった。
「監視に何をしたんだ?」
「今夜の夕食に眠たくなる薬を混ぜたんだけど…家に入ってびっくり、薬が効きすぎて死んでしまったかと心配しちゃったわ…へへへ」
眠たくなってソファーに倒れ込む暇もあたえないほどの強力な薬なのだろう。睡眠導入剤というよりむしろ気絶導入剤のレベルだ。エラはこんな危険な薬を、どこで手に入れることができたのだろうか。
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