第34話

 エラの申し出は、ピンキーにとっては願ったりかなったりだった。自分自身は煩わしい家事から解放される。ピンキーは早速ダーリンに直訴し、翌日からエラがゲスト達のお世話をすることになった。

 エラは、本来の雇い主には、友達が病気だから世話をしなければならないと嘘をつき、昼からの6時間を融通した。しかしながら、本来の仕事もいつも通りにこなさなければならないという条件ため、普段より早く起き、普段より遅い就寝となって、休みなく働く重労働となったが、タイセイに会えるかもしれないという希望が、エラを不屈のファイターにした。


 しかし、いざピンキーの家のゲストのお世話を始めると、エラの願いに反し、そのお世話の仕方にはいろいろな制約がついていた。

 まず、家に入っていいのは、ゲスト達のすべてがどこかへ外出したあとの昼過ぎ。まず、前日の食事の後かたづけ、そして洗濯かごに投げ捨てられたゲスト達の服の洗濯。洗濯機が回っている最中は家の掃除となるが、ひとつだけ掃除の必要はないと閉ざされた部屋があった。

 掃除を終え洗濯物を干して、食材の買い出し。そして夕食と朝食の準備を整えると、今度はゲスト達が帰宅する午後6時前には、家を出なければならない。つまり、ゲストに全く会える機会がないのだ。逆に言えば、その制約はメイドとゲストとの接触を避けるために作られたルールに他ならない。

 過去ピンキーがエラのスケッチに描かれた人物に遭遇したというのは、彼女が部屋の掃除を投げやりにこなしている最中に、珍しく朝帰りとなったゲスト達とすれ違ったほんの一瞬、まったくの偶然だった。

 しかしこのことは、逆にエラには好都合なことであったのだ。なぜなら、このゲスト達は街を散策するタイセイを監視していたメンバーだ。だから、ゲストとエラが遭遇すれば、彼女があの日タイセイにまとわりついていた女だってことが即座にバレて、家からたたき出されていたに違いない。そんなことをつゆとも知らぬエラは、感動の再会を果たせずかなりへこんでいた。


『まったく…これじゃ、なんで苦労を買って出たのかわからないじゃない』


 エラはため息を漏らす一方で、姿は見えぬものの、この家のゲスト達のただならぬ雰囲気は感じ取っていた。

 家の中を掃除していると、ショルダータイプの拳銃ホルダーとか、プロフェッショナルタイプのインカムとかに出会って驚いた。こんなものを必要とするのは、どんな職業の人たちなのか…。もしゲストの中にタイセイが居たとして、そんな人たちの中に彼がいることがとっても奇異に思えた。これは、やはりひと違いなのか…。

 一目とも会うことができないのは仕方ないとしても、話しくらいはできないのだろうか。


『置手紙でもしてみようかしら?だめだめ、他のゲストに見つかったら捨てられちゃうし…』


 もしも、ゲストの中にタイセイがいたとして、彼とだけコミュニケーションを図る方法はないものだろうか。


『彼にだけわかる暗号があれば…。でも暗号があったとしても、それをどうやって彼に届けるの?誰にもわからずに届ける方法なんてあるのかしら…』


 一晩考えぬいたエラは、一つのアイデアを持って、ゲスト達の家に乗り込んだ。



 中国の研究者たちの凝視の中で、ラボラトリーでの作業を終え、宿舎に戻ったタイセイは、ため息をつきながらベッドにへたり込んだ。ホテルに帰るタクシーから拉致されて、この家に連れてこられてもう4日になる。あと2日くらいでたんぱく質の抽出が終わり、移植の段階に進めるだろう。彼はベッドに寝ころび、薄汚れた天井のシミを眺めながら、今後の自分を考えてみた。


 この実験が成功するにしろ失敗するにしろ、もう自分は祖国日本に帰ることはできないにちがいない。こんな誘拐劇なんて、スパイ映画でしか見たことがないようなことが、まさか自分の身に降りかかるとは…。

 もう4日も音信不通になっていれば、さすがに自分の失踪は顕在化しているのだろう。うざいので、母親には香港の学会でのスケジュールは正確に伝えていない。母はきっと帰国が遅れていることにも気付いていないと思う。

 しかし、日本の研究室の仲間は騒いでいるはずだ。在香港日本国総領事館は捜索してくれているのだろうか。自分のような小物には、真剣に腰を上げたりしないのだろうか。中国の体制に組み込まれる香港警察はまったくあてにできない。


 彼はポケットから紙であしらわれたポケットチーフを取り出すと、その紙の温かみを確かめるように指で撫でる。こうすると、エラの笑顔が脳裏いっぱいに広がり、窮地の中でも彼の心が癒されるのを感じた。戦場で家族の写真を肌身離さずもつ兵士の気持ちが分かった。そうでもしないと、心が壊れそうになってしまうのだ。

 エラと過ごしたあの一日が、何度も何度も思い出される。もしかしたらあの一日が、自分の人生の中での幸せの頂点だったのではないかと思えるくらいの勢いだ。同僚や友達と過ごした楽しかった日々も思い出さないわけでもなかったが、とにかく今はエラがタイセイを癒す一番の薬だった。


『エラは今何しているのだろう…時々自分のことを思い出してくれているのだろうか…』


 ドアのノックの音で彼の癒しタイムは強制終了させられた。


 監視が夕食を部屋に運んできたのだ。その姿を目で追いながら、タイセイはまた長い溜息をつく。タイセイとしては当然逃げ出すプランをあらゆる方向で考えていたが、黒いスーツの彼らがその可能性をひとつひとつ潰していく。仮に彼らの目を盗んでこの家から逃れたとしても、味方ではないので香港の警察署に駆け込むことはできない。さらにスマホもパスポートもお金もない彼が、ひとりで香港の街並みを駆け抜けて、在香港日本国総領事館に逃げ込むことも、到底無理だと感じていた。

 監視は夕食の皿を無造作にテーブルに置くと、一言も発せず部屋から出て行った。タイセイは癒しタイムを再開せず、いつも通りテーブルについて食事を摂ることにした。何が起きてもおかしくはない未来に向けて、今は自分の体を万全にしておくことの大切さを放棄しない。そんな冷静さはかろうじて保持していたのだ。

 今日の夕食はビーフシチューだ。タイセイはスプーンで一口食べる。そして昨日からおぼろげに感じていたことを再認識した。うん、今日も料理が美味い。昨日から急に食事が美味くなっているのだ。また、洗濯ものにしてもそうだ。その洗い方というか、たたみ方というか、とても上品に仕上がって手元に届いている。一昨日までの粗雑な味と仕上げとは雲泥の差だ。


『シェフ…いや、家政婦でも変えたのかな…』


 日本人の自分にも口に合うビーフシチューを食べ進めていると、彼のスプーンが苦手なニンジンをすくいあげた。申し訳ないがニンジンだけは勘弁だ。彼は苦手な野菜を横に避けようとした瞬間、驚きのあまりスプーンをシチューの中に取り落としそうになった。

 そのニンジンは器用なナイフさばきで、牛に形どられていたのだ。

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