第33話

「どうです、ドクター・コウケツ。中国科学技術大学の教授の座に加え、中国科学院神経科学研究所で存分に研究していただける環境と資金を保証しますよ」


 タイセイは、タクシーから拘束されいきなり連れてこられた空き倉庫で、黒いスーツの男たちに囲まれていた。その中でただひとり、グレーに赤の細い縫柄で仕切られたチェックのスーツを着ている男が、にこりともせずに流ちょうな英語でタイセイに話しかけているのだ。


「拉致された上に…そんなことをいきなり言われても…」

「我々もドクターに対してこんな大業なことはしたくなかったのですがね」

「だいたい、学会でも話しましたが私の研究のメインは『網膜再生』ですよ。その研究にそんなに関心があるのですか?」

「いや、我々が望んでいる研究は『網膜再生』ではありません。『網膜記憶』です」


 リーダーが無表情で言ったその言葉に、タイセイは静かな憤りを覚えた。

 やはりそうか…。名もない基礎研究員の自分が、この学会の学術発表に招待されたのは裏があった。中国の誰だか分らないが、大勢の公務員を動かせるどっかの高官が、是が非でも『網膜再生』の実用化を図りたいと考えているようだ。

 この拉致は、かなり前から計画されていたのだろう。だとすれば、学会のプレジデントである梁裕龍先生はグルだったということか。今日、彼が自分に接近してきたのは、実はこの取引の探りを入れるためだったのだ。しかし、エラの突拍子もない発言で会話が邪魔された。その後、彼女が一日中タイセイのそばにまとわりついているものだから、結局こんな夜中に拉致されることになったのだ。


「折角ですが『網膜記憶』の研究でしたらお断りいたします」


 タイセイはきっぱりと断った。しかし、リーダーはあらかじめその答えを知っていたかのように平静な態度を崩さない。


「ですから、もうホテルに帰してください」

「ドクター。そう簡単にお断りにならないでください。ここは一国二制度の香港とはいえ、中華民国ですよ。我が国を軽んじてもらっては困ります」


タイセイは憤りに少しずつ恐れの霧がかかり始めるのを自覚した。


「ドクターを我が国の重要機密情報を盗み出そうとしたスパイにすることなんて、簡単にできるのですよ」

「そんなことしたら、国際的人権問題に…」

「日本政府とは、膨大な外交問題を抱えています。譲歩したり譲歩されたりを繰り返して大局を動かしているさなかに、こんな些細なことに本気になるとは思えませんね」


 タイセイは絶句せざるを得なかった。


「一生中国本土の留置場で暮らすか、裕福で名誉ある教授の地位を得て、研究に没頭いただくか、その選択はドクターの決断ひとつです」

「そんな…選択の余地はないじゃないですか」

「そう、選択肢のない決断の強要。それが共産主義国家の発展を支えているのです」

 

 民主主義の国から来たタイセイには、今まで味わったことのない恐怖である。民衆の上に覆いかぶさった国家とは、ここまで恐ろしいものなのかと心底思った。


「仮に、その申し出を受けたら…帰国できるのですか」

「すぐの帰国はなかなか難しいですが、ドクターの協力度いかんでは許されるかもしれませんね」

「かもって…」

「どうですか、ここは腰を据えて中国の英雄になるのも、そう悪くはないと思いますよ」


 にこりともせず言い放つリーダーの冗談は、より冷たい冷気を浴びせてタイセイの体をこわばらせる。


「どんなに嫌だといっても、このままどこかへ連れていかれてしまうのでしょう」

「いや…ドクターの研究を信用していないわけではないのですが、今後も上層部が安心できる、ちょっとした実験をしていただければなりません」

「どういうことです」

「こちらへどうぞ」


 リーダーはそう言うと、倉庫の奥にタイセイを導いた。

 厚い扉が明けられそこに冷たい照明が当てられると、そこには最新の医療機器や医学的研究機器が並ぶラボラトリーになっていた。


「実は来週、PGA公認のゴルフのトーナメントがタイで開催されるのですが、我々はその大会で我が国の選手を是が非でも優勝させたいのです」


 リーダーは細胞を殺さぬよう希塩水に浸かった眼球を、タイセイの前に差し出した。


「そこで開催地の地元で伝説のキャディとして活躍したこの故人の網膜から、その記憶を引っ張り出して、我々が準備したゴルファーに移植してほしいのです」


 リーダーは、初めてその口元に残忍な笑いを浮かべた。


「わが国では、精密機械のようなゴルファーを育成することは不可能ではありません。ただ、多くの経験によって培かわれるような力、つまりグリーンを読み切る力は、いくらわが国でも育成することは不可能なのでね」

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