第32話
〈香港街景〉
結局気絶させてくれる人もいないまま夜が明けた。エラはベッドから這い出て、メイドの仕事に精を出した。体を動かしている方が、昨日から早く遠ざかれるような気がしていた。朝食を作り、掃除、洗濯。雇い主の家族のために、一心に家事をこなすエラ。エラの雇い主は日頃からのエラの働きぶりに何の不満もなかったが、今日はいつに増して精が出ていると喜んでいた。
しかしエラの努力もむなしく、その日が終わってベッドに横たわっても、気絶できない夜に変わりはなかった。いい加減、あの日から一向に遠ざかれない自分に腹が立ってくる。
夜が明けて、翌朝もがむしゃらに仕事をしたエラは、休む間もなく近くの市場へ買い物に出た。市場のあちこちを歩き回り、さすがに肉体的疲労を覚えたエラは、休みがてら昼食をとろうと馴染みのカフェの席についた。
席について彼女は愕然とする。体を止めると、タイセイの姿がまた脳裏にちらつき始める。だめ、だめ。早く食べて、家の仕事に戻らねば…。
「あら、エラ、久しぶりじゃない」
同郷の幼馴染であるピンキーが声をかけてきた。彼女は昔から、野心的で他人を見下したように話すのでエラもちょっと苦手だった。ここ香港でも、その野心をどん欲に発動し、メイドから雇い主の愛人の座を手に入れ、毎日を遊んで暮らす地位を手に入れていた。
ピンキーは、エラに断りもせずに同じテーブルに腰を下ろした。
「こんな市場で会うのも、珍しいわね、ピンキー」
エラの問いかけを聞いているのかいないのか、彼女はコンパクトを熱心にのぞき込み、メイクの崩れをチェックしていた。
「買い物?」
「ええまあね…急なんだけど、先週ダーリンのお得意様達が大勢来てね。しばらく、家を使うからって追い出されちゃったの。ダーリンから借りている家だから、文句も言えず、彼らが帰るまでしばらくは近くの安ホテル暮らしよ」
「ふーん、大変ね…。でもホテル暮らしなら自炊する必要はないでしょう?」
「それがさ、お得意様の世話をするのにメイドが必要なんだけど、急にはメイドもみつからず、しょうがなく私が買い物ってわけ」
もとメイドでありながら、家事が好きでないピンキー。彼女に世話されるゲスト達が気の毒に思えた。
ピンキーはようやくコンパクトをバックにしまい、エラに視線を向ける。
「あいかわらず、生活に疲れたメイドの雰囲気満載ね」
連夜の睡眠不足で、若干目の下にクマができているかもしれない。一昨日はロンシャンのワンピースを身にまとって、ザ・ペニンシュラ香港でお茶した、などとピンキーに言っても、きっと信じてはくれまい。
「まだ、趣味のスケッチ続けているの」
エラの脇の席にあったスケッチブックを、断りもなく取り上げた。
「あっ、ちょっと…」
「あいかわらずね…上手なのか下手なのか」
「人に見せるものではないから…」
エラの動揺も無視して、スケッチブックを勝手にぺらぺらめくるピンキー。
「お金にもなんにもならないスケッチなんて、よく続けられるわね」
もう我慢も限界だ。スケッチブックを取り戻そうとして、エラは席を立ちあがった。
「ちょっとまって、この絵…」
「なによ。なんか文句あるの」
「文句じゃなくて、この絵の人」
ピンキーは、エラが眠れぬ夜に描いたタイセイのスケッチを指さしていた。
「この前、急にひとりゲストが増えたんだけど…この絵、そのひとに似てる気がする」
エラの体がフリーズした。
「このひと日本人でしょ。中国語のゲストたちに交じって、ひとりだけ日本語喋ってたもの」
「えっ…でも…日本人って言っても、いっぱいいるから…」
ちょっと考え込むピンキー。
「それに、この絵の人は、もうとっくに日本に帰っちゃてるし」
「そうなの…」
ピンキーは興味を失ったように、スケッチをエラに投げ返した。
「きっと人違いね。うちのゲスト達は、今も図々しく私の家でくつろいでいるわけだし」
「そうよ」
「ダーリンのお得意様だから悪口も言えないけど…みんな笑いもしない暗いやつばっかりでさ。到底堅気とは思えないわ、ほんと。…そうそう、その日本人もさ、地味なジャケットの胸ポケットに紙のチーフをしている変な奴だったもの」
エラの息が止まった。息をすることを忘れるくらいの衝撃ってあるものだ。ただ、息を吐かなければ声は出ない。吐く息と同時に出たエラの声は、叫びにも似て市場中に響いたと言っても嘘にはならないだろう。
「ねえ、そのお得意様のお世話、私に手伝わせてくれない」
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