第31話

 先頭の黒塗りの車から、男たちが出てきた。その中のひとりがレイモンドの車に近づくと、後部シートの窓を人差し指の関節でコツコツとたたく。この男たちの目的は自分ではなかった。客は窓を開け男はなにやら見知らぬ言語で話し合っていたが、客は特段抵抗もせず素直に男とともに黒い車に乗り移っていった。

その車が走り去るのを見ながら、エドワードはこの後に待ち受ける自分の運命を思った。解放なのか、それとも抹殺なのか。

 今度は彼のそばにいた男が、窓を叩いた。エドワードはゆっくりと窓を開ける。男は、胸の内ポケットに手を入れた。やはり、俺は頭を撃ち抜かれるのか。気を失いかけたエドワードに、男は75ドルの札を差し出す。


「おい、Harbour Plazaまでは普通にいけば75ドルの料金だろうが。わざわざ遠回りしやがって…観光客からぼったくった金で、太古の益発大廈アパートで待つ家族を喜ばすつもりだろうが、そうはいかねぇよ」

 

 自分のすべてを見通されている。しかも、客を乗せてから今まで、ほんの短い時間で、車両ナンバーから、ドライバーの素性と住居まで調べることができるとは…。

エドワードは、今夜の出来事はもちろんのこと、尖沙咀駅で拾った客、そしてこの男たちの存在は、なかったことにするのが一番だと悟った。


 その日の夜 エラはなかなか寝付くことができなかった。目をつぶると、今日一日過ごしたタイセイの姿が、走馬灯のように瞼の裏を駆け巡るのだ。どうせ寝られないなら…。エラはベッドから起きだして、スケッチを取り出すと、脳裏に残る彼の姿をスケッチし始めた。

 香港の街を背景に、タイセイの様々なしぐさや表情を書き写していくと、宝物のような一日が丁寧に思い起こされる。目に飛び込んできた蜂は魔法使いの手下なのだろうか。一介のメイドが魔法をかけられて、新進気鋭のアーティストに変身。そして王子様と出会う。それから王子様とともに、香港の美しくも不思議な街をめぐり、愛らしい雑貨や日頃触れることのない人々に出会い…多少現実の時間運びとは前後していたものの、シンデレラになった気分の今日一日を、エラは楽しく思い起こしていた。

 エラはスケッチを描きながら、なぜか涙ぐんでいる自分に気付いて驚いた。楽しい思い出のはずなのに、なぜこんなに切ないのだろうか。

 タイセイに出会うまではなかったのに、心に大きな穴が開いてしまったようだった。いきなり私の心に飛び込んできたタイセイ。さんざん私の心の中で暴れて、帰って行ってしまった。そのあとにできてしまった心の空間を、いったい何で満たせばいいのだろうか。

 所詮、香港に旅行に来たドクター。結局国に戻ることはわかっていたはずなのに…。彼を心の中に受け入れてしまった自分が悪いのだ。なぜ受け入れてしまったのだろう…。そう、探していたものに出会ったようなあの不思議な感覚。ただ、それはきっかけにすぎない。心の中でその存在を大きくしたものは、また別のものだった。エラはただそれが何かを突き詰めることが怖かった。

 エラはスケッチを放り投げると、ベッドに身を投げた。ああだれか、私の頭をフライパンで殴って気絶させて。そうすれば、今夜を乗り越えることができるのに…。



〈九龍城砦〉


 遊び疲れてしまったのか、小松鼠はモエの膝を枕にして寝てしまった。モエは彼の髪を手ですきながら、机越しに対峙するドラゴンヘッドを見つめていた。


「ところで唐突だけど…実は私…」


 ドラゴンヘッドは手を挙げてモエを制する。


「…あんたの素性など興味もない。口を閉じろ」

「ごめんなさい…わたし言いたいことを、我慢するようにと親からしつけられてないの…」


 モエが鼻で一笑する。

 ドラゴンヘッドは彼女のそんな反応を見て、自分への恐怖心が薄らいできていることを悟った。さて、もう一度脅しあげた方がいいのか…。


「わたしは眼のドクターなの。仕事がらどうしても、会った相手の眼の健康状態をチェックしてしまうんだけど…」


 ドラゴンヘッドは話の方向を感じ取って自然と眼をそらす。


「ドラゴンヘッドさんは、蛍光灯のわずかな光で、時々とてもまぶしそうに眼を細めるけど…」


 彼はそっぽを向いたきり返事もしなかった。


「まぶしい以外に、時々目がかすんだり、小さな文字が読みづらかったりしない?」


 相変わらず無言。


「もしかしたら、加齢性の白内障ではないかしら…ちょっと診せてごらんなさい」


 ドラゴンヘッドの顎を取り、こちらへ向かせようとするモエに、彼は顔を遠ざけてあからさまに嫌がった。


「白内障はね、眼の中でレンズの役割を果たしている水晶体のたんぱく質が、年齢とともに変性し、白く濁ってくることによって起きる病気なの。症状が進み、日常生活に支障がある場合は、眼内レンズをはめ込む手術をするんだけど、手術時間は15分ほどで、日帰りでの手術も可能よ。進行がそれほどではなければ、点眼薬や内服薬が用いて進行を遅らせるという方法もあるし、野菜や果物、海草などの食品に含まれる色素の一種であるルテインを積極的に摂取して進行を遅らせることもでき…」

「いい加減にせんか」


 ドラゴンヘッドもついに我慢の限界がきて、モエのおしゃべりを遮った。


「目の診療をして欲しいなんてだれも言っておらん」

「でも…」

「だいたい人が老いれば、目も悪くなるし、歯も抜けるし、足腰も弱くなる。その進行を遅らせてなんの得があるんじゃ」

「逆らうわけじゃないけど、死ぬ直前までからだのあちこちのパートが健全で、自立した生活ができることは、悪いことじゃないと思う」

「…先生もわかっておろうが…人間は不死ではない。だから人間は老いることによって、時間をかけて死ぬことを準備していくのだろ。老いの進行を止めたら、どうやって死ぬ準備をしろというのだ」

「だからって、治療して直るものを放っておくってのも…」

「いいかい。体の不具合もない内は、死ぬなんて考えられないものだ。だからいっこうに死の準備ができない。いくらピンピンしても、コロリの時にその準備もできていないのは残酷でもあり、悲惨だ」


 モエは、なぜか血に染まった夫の姿を思い出した。


「…老いて不具合が生じることは、我欲に満ちた現世への未練を少しずつ断ち切って、来世へ向かっていく準備なのだ思わんか?」


 漆黒の海の底で老いさばらえたドラゴンヘッドの言葉には、妙な重みがある。

 モエは亡くなった夫を思った。モエの夫は若くしての突然死。自らの死を迎える直前まで、死ぬなどと考えてもいなかったはずだ。だから、ドラゴンヘッドの言うように、自らの死への準備などできていなかったであろう。きっと現世への未練を強く抱いたまま、来世へ旅立ったに違いない。彼の苦しみを思うと胸が張り裂けそうだ…。


 黙り込んでしまったモエに、ドラゴンヘッドが多少ためらいがちに話しかける。


「で、一応聞いておくが…その目にいいという…ルテンとかルーテルとかいうやつは、どんな食い物に含まれているんだって?」

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