第30話
〈香港街景〉
香港のタクシーは、日本の個人タクシーと似たものと考えると理解が早い。12時間で300香港ドルほどの リース料を払い、運行免許を持っている組合から車を借りて個人が営業をする。それは、まさに露天商のようなもので、親方から営業免許から車など一式を借りて働く。
レイモンドは多少焦っていた。今日車を借り出して、もう12時間になろうとしているのに、今日自分に課した稼ぎの額に達していないのだ。レイモンドは彼のイングリッシュネーム。生粋の香港人である。
タクシーは、24時間運行だが夜間の割増料金なんてない。夜だろうが、昼間であろうが、その一日の労働に見合う稼ぎがなければ、家に帰るわけにはいかない。今日は、久々に子どもたちとTVゲームをやろうと思っていたのに…。
香港のタクシー事情をちょっと話しておくと、香港のタクシーは3色の車体で区別される。
「赤」の車体は、香港島と大陸側の九龍地区を営業エリアとしている車両。「青」の車体は、空港があるランタオ島を営業エリアにしている車両。そしてもう1種類、大陸側の中国と接する新界を 営業エリアとしている「緑」の車体。この「緑」タクシーは街を流さず、主に空港で客を待つことが多い。中国本土に行くには、この「緑」のタクシーに乗り、国境の検問所か検問所のある鉄道の駅(上水駅)に行かなければならない。
レイモンドの車は、「赤」。昼間はビジネスマンや香港島を徘徊する観光客を狙っての営業だが、今日はいつになく実入りが少なかった。もう夜も更けて、ひと通りも少なくなってきた街ではあるが、家に帰る前に、なんとか少しでも多くの客を拾わなければと、ハンドルを握る手も汗ばんでくる。
ちょうどMTR尖沙咀駅に差し掛かったところで、ひとりのビジネスマンを拾った。彼は英語で、北角(ノースポイント)のHarbour Plaza (北角海逸酒店)へと行先を告げた。流ちょうな英語ではあるが、けっしてネイティブなものではない。
『どう見ても日本人だな…しかも、高いホテルに滞在しているから、金もあるに違いない』
レイモンドはバックミラーで客を盗みしながら考えた。もしかしたら、多少稼ぎが狙える客を拾ったのかもしれない。
通常なら、中央海底トンネルを抜けて湾岸沿いに走れば、12分75香港ドル程度の料金だが、東回りで東海底トンネルを使えば、37分150香港ドルくらいは稼げる。せこいといえば、せこい話だが、そんなことをしなければ、今日の稼ぎは上がりそうにない。
彼は、ネイサンロードを左折すると、中央海底トンネルをパスして、そのまま直進し東回りのルート2号へ向かった。
バックミラーでそれとなく客の様子を窺ったが、客は何か考えごとに没頭しているようで、ルートの変更など、まるで気にしていないようだった。
レイモンドは安心して九龍城街市を左に眺めながら、プリンスエドワード東ロードを気持ちよく走った。
しばらくすると彼は、後ろから妙に車間を詰めてくる黒塗りの車に気付いた。いやな予感がした。その車から離れようとアクセルを踏みかかったとたん。今度は彼の車の前方に、やはり同じような黒塗りの車が割り込んできて、加速を阻まれた。そして、左右を見回すと、いつのまにか自分の車が4台の黒塗りの車にとり囲まれている。
4台の車は次第に車間を詰めてくる。意図的に自分の車に何かをしようとして迫ってきていることは明白だ。タクシーを狙ったギャングなのか。レイモンドは、パニックに陥った。スマホで助けを呼ぶ余裕さえ失っていた。
身動きの取れなくなった彼の車両は、ただ黒塗りの車の進む方向に従わざるを得ない。彼の車はついに幹道を離れ、人がいないShun Lee Tsuen Sports Centreの駐車場で停止させられた。
ドアから飛び出して逃げるべきなのか、それとも誰も入ることができないようにドアのロックを堅持して、立てこもるべきなのか。レイモンドは、目から出血するような勢いで眼球を動かし、自らの取るべき行動を考えた。しかし、当然のことながら、そんな状態では整理できた結論など出るはずもない。ましてや、恐怖にすくんだ手足は、ただ震えるばかりで動かすこともままならないのだ。
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