第29話

〈九龍城砦〉


「平凡な眼科の研究医が、なんでその…中国のCIAとやらに尾行されなければならないのかしら?」


 ひとりごとのように思わずモエの口に出た問いだが、ドラゴンヘッドは親切に拾ってくれた。


「そんなこと、わしらがわかるわけがあるまい。おたくの息子がこの香港でスパイ活動でもしたのなら話は別だが…」

「タイセイがスパイですって!」


 モエは思わず立ち上がった。

 テーブルの上でぎゅっと握った震えるこぶしを小松鼠がなだめるように、その手で包み込む。モエはその優しさに我に帰って、自信なさそうにつぶやいた。


「タイセイに限って、そんなこと…」


 ドラゴンヘッドが笑い出した。


「おやまあ…いつも強気のあんたが、俗世間の母親同様に『我が子に限って』なんて言いだすとは思わんかった」


 ドラゴンヘッドの皮肉に、プライドが蘇ってきたようだ。モエは胸を張って果敢に言い返す。


「でも…尾行されているのが、一緒に連れだって歩いている女性だって可能性も、否定できないでしょ…」

「まあ、そういうこともありうるが…」

「タイセイはきっとその女のせいで何かに巻き込まれたのよ…その女、いったい誰なのかしら…キャッ」


 思わず悲鳴をあげるモエ。彼女をこのキッチンへ導いてきたあの暗い男が、知らぬ間に彼女のそばに立っていた。


「脅かすのはやめてちょうだい」


 抗議をするモエを気にも留めず、一枚の写真をテーブルに置くと、また音もなく立ち去って行った。残された3人は写真をのぞき込む。


「これ、確かに息子よ」


 モエは叫び声を上げた。部分を拡大したようで、多少ぼやけてはいるが、写真には身なりの綺麗な女性と楽しそうにアフタヌーン・ティーを楽しんでいるタイセイが、確かに写っていたのだ。久々に見る息子の姿になぜか目が潤んでくる。


「これは何処なの?」

「ザ・ペニンシュラ香港のラウンジだよ」

「いつ撮ったの?」

「10日前」

「誰が撮影したの?」

「店の監視カメラの映像を拝借した」

「さすがK14ね…ところで…ここに写っている女性が、一緒に街歩きしていたって女性なの?」

「うむ…どうもフィリピン人らしいな」

「フィリピーナなの…」

「総参謀部の標的がもしそのフィリピーナだとしたら、この女は相当な危険人物にちがいない」

「なんで」

「国家的な事件でなければ、総参謀部第二部がわざわざ香港に来て動いたりせんからな」


 ドラゴンヘッドが新しい煙草をキセルに詰める。


「国家的大破壊を招く女テロリストなのか。はたまた、亡国の薬、麻薬を大量に扱うマニラコネクションの情婦なのか…。まあ、面は割れたから、遅かれ早かれわかることじゃ」


 モエは彼の言葉を聞いて大きなため息をついた。


「ああ…昔から、あの子にまとわりつく女に、ろくな女はいない」

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